景勝はしかし、耳をかさない。 「新しい権力の大浪に、結局は呑み込まれるにしても、ひと合戦もせずのめのめ慴伏するなど、おれには耐え難い。泉下の豊公にも顔向けが出来ぬ。この、おれの片意地をおろかしく思うならば、じい、お主は上杉の家を見限って去れっ!」 叱咤したばかりか、同様の趣旨を文書にしたためて宿将たちに廻し、 「去就を決めるなら今のうちだぞ。去る者は追わん。とっとと退去せよ」 言いやる始末だった。 ーーーこの間にも、じりじりと関東勢の北上は続き、家康の本隊がついに下野の小山に着陣ーーー。秀忠の率いる先鋒隊は、早くも大田原に迫ったとの急報も到着した。 大田原から白河までは11里(44KM)。わずか1日の行程である。これを迎え撃つべく、直江山城の布いた陣形がまた、水際立ったものであった。
しかもこれに対する景勝、直江らの返書が、逆に家康の不信不明をなじり、ことに直江のものは言辞さえ挑発的な、相手を小馬鹿にしたものだったから、一読、家康は赫怒(かくど)した。 この直江の返書は有名だ。「何故、城普請したりするのか」という家康の詰問に対して、「京の武家が茶器を集めるようなもので、東国では城を普請したり、武器を揃えるのだ」というものであった。 「上杉の背反は明らかだ。会津討伐の軍を起こせ」 大号令が下され、主力、援軍併せて20万の兵力が奥州への行進を開始し出した。同時に、米沢口からは最上義光、伊達信夫口からは伊達政宗が浸入のスキをうかがい始めるという事態に、上杉領もがぜん殺気立って、たちまち臨戦体制に入った。 杉原は諦めなかった。結城秀康、本多正信、榊原康政、前田玄以ら、徳川方の血族、股肱、豊臣系の実力者などあらゆる方面に密書を送り、とりなしを頼む一方、手討覚悟で景勝に食い下がり、執拗にその翻意をうながし続けた。
「不吉なたとえを仰せられる」 眉をしかめたものの、奥方のやりきれなさを、杉原も心中、察しないわけではなかった。 謹直なのはいい。喜怒をあらわに現わさないのも、大国の大守としては美徳の一つかも知れないが、精神の働きまでが外貌に似て、とかく弾性に欠け、直情に過ぎるのが、杉原などの目には危うかったのだ。 ・・・案の定、家康からは、 「何故再度の上洛が遅れているのか。領内整備に総力をあげている意図は何なのか」 との詰問状が、追いかけてもたらされた。
杉原は切諌(せっかん)した。時局の推移の、いかんともなし難いことを説き、徳川氏に敵対する不利を語って、繰り返し諌めたが、景勝はおし黙ったきり返事もしなかった。 ふだんから、病的なほどの無口なのである。必要な言葉以外はいっさい口に出さない。第一、笑顔というものをいまだかつて、家臣たちはもちろんの奥方や女中衆にすら、一度としてみせたことのない景勝であった。 「唐土の褒じ(女編に以=周の幽王の妃)のような・・」 さすがに呆れて、奥方が漏らしたのを、杉原は耳にしたことがある。 無表情な寵妃の褒じを、なんとか笑わせたいと焦った周の幽王は、非常召集を告げる合図の狼煙を城壁に上げさせた。各地から将たちが、あたふた集ったのを見て、褒じは初めて顔をほころばした。幽王は喜び、以来、たびたび偽りの狼煙をあげたので、将たちは怒って召集に応じなくなり、やがて、犬戎が来襲した際、無防備の都は蹂躙され、幽王も殺害されてしまった。褒じは魔性の本体を現わし、城壁を飛んで、夜の虚空に消え失せたという中国の故事である。
間もなく太閤が死んだ。 景勝は上洛して秀頼に謁し、ほぼ1年、大坂に滞在して朝鮮役の善後策にあたったが、翌、慶長4年(1599)8月、滞在を切り上げ、まなじりを決して会津へ帰った。家康の、天下制覇への野望が日増しに露骨になってきたからである。 ーーー夜を日につぐ、領内の整備が始まった。仙道七郡の代官に命じて、景勝は道路、橋梁の修築を急がせ、出城々々の守将たちには城郭の補強を厳命した。 神指に新城が築かれ、若松の本城では濠さらいが開始された。先方衆と呼ばれている旧蒲生家の浪人どもが、続々召し抱えられ出したのもこの期間である。 景勝の肚は明らかだった。 豊臣家のために、先駆けとなって打倒家康の兵をあげるーー。危惧していたとおりの方角へ、大勢は大きく傾斜し始めたのだ。
もっとも、いざとなった時、 (果たして斬れるか? この直江が) おぼつかないのである。美しいものはこころよい。常々その才気を愛し、弟さながら、慈しみ眺めてきた男なのだ。 ーーー雨脚は、いつのまにか強くなってきていた。部屋の内はいよいよ暗い。芦雁の図への敬意か、直江は立って明かり障子を開け、とぼしい夕光(ゆうかげ)の中、風炉前に端座して茶を点てはじめた。ほの白く浮く俊秀な横顔は、28歳という実際の歳より10も15も若やいで見える。 景勝は瞑目している。繊細な茶筅さばきーーー。するどい凝視をそれへあてたまま杉原も一心に、独りの思考を追い続けていた。 ◇ ◇ ◇ 再来年のNHK大河ドラマで会津藩士の娘山本八重子を取り上げることになり、わが地元は喜んでいる。和製ジャンヌ・ダルク。他のサイトで、会津藩祖保科正之も取り上げて、と書き込んでるが、正之は全国区ではないのを知らんのだ。
謙信の歿後、名門直江氏を継ぎ、国政にも参画し出した兼続が、覇業半ばで倒れた先君の無念を口にし、 「大殿のご遺志は、私の中に生きています」 と言い切るとき、他の家臣が同じ言葉を口にした場合は、決して感じないであろう一種のなまなましさ、押し強さを杉原は感じないわけにはゆかなかった。観念や理性で言っているのではない。直江兼続の中には、その肉体感覚に乗り移って、まさしく謙信が生きているのだ。 そのような主従の繋がりを、杉原は否定はしない。どころか、美しく、うらやましいとさえ思ってきた。しかし今は違う。 (会津120万石の保持のためには、直江の内奥に生きる先君の亡霊を除かねばならぬ。説得して聞き入れられなければ直江を斬り、直江を消滅させることによって、先君の妄執をも断ち切らねばならぬ) 杉原はそう考え始めていた。
与板城主樋口与想右衛門の養子となり、小姓に取り立てられて、少年は与六兼続と名乗った。すべて謙信のはからいである。 主従の交情のこまやかさに、家中は目をみはった。当時まだ20代の青年武士であった杉原も例外ではなかった。宿直(とのい)のたびに、彼が味わった感銘の異様さを、どう説明したらよいだろうか。 謙信の寝間と宿直部屋の間は、控えの間で隔てられている。それでもそれは聞こえて来るのだ。謙信の声、少年の声。歓喜、悶え、愛着、憎悪・・。様々な情感がからみ合った、それは声とはいえない声なのだ。全身を耳にし、汗にして、繰り返し続けられるその不思議な気配に聞き入り、暁近く、主従が寝ついて始めて、ほっと呪縛から解き放たれるという体験を杉原は何度持ったか。
謙信も興に入って、あちらこちら逍遥したあげく城へ戻ったが、直後、長浜の代官が馬を飛ばして馳せつけてきた。 「使者を生かして帰してはなりません」 代官が喘いで言った。 「投輪を打たせたのは長浜の長さ、城から波打ち際までの距離を計ろうためでございます」 「見破ったのはその方か?」 「いえ、召し使っております下役の小倅が、進言してまいったものでーー」 「連れて来い」 ーーーこれが直江山城と、謙信との出逢いであった。 才智もだが、少年の麗容に謙信は一驚した。ぐるりの空気までが匂わしく、明るくなるかと怪しまれるほど、その顔立は美しかったのだ。姿態はなよやかだし音声は涼しい。生涯不犯ーー。女というものを近付けなかった謙信の情念が、一気にこの美童に向かって燃え上がったのも無理からぬことだった。
杉原も内心、舌をまいた。 (将器!) と見たのだ。謙信の急逝後、だから杉原は、直江兼続らと力を合わせて景虎を逐い、景勝を君主の座へ押し上げることに、いささかのためらいも持たなかったのである。 ーーー与六と名乗っていた幼少の頃から、直江の印象も、杉原の記憶の中に強烈に刻み込まれている。 彼は長浜の代官所に勤める小役人の子であった。甲斐の武田家から使者が来た時、和歌に堪能だと言うその使者を、もてなすつもりだったのだろう、 「歌の名どころ・・・。越の長浜に案内しよう」 先に立って謙信は浜辺へ出た。 使者は喜んだ。返礼のつもりか供の童に、彼は投輪(はま=不明)を打たせて謙信にみせた。力の強い童で、二丈(約6メートル)もある付け紐いっぱいに投輪を投げ、投げては拾う。また投げるーーー。
14歳の時、戦場の功に驕って法度を破り、反省の色もない侍2人を、彼は一刀のもとに成敗してのけた。 「殿が目薬を下さった。さしてあげよう」 目を爛(ただ)らしていた一人を仰向けに寝させ、点薬をすると見せ掛けて、まず、いきなり、顔面に胡椒の粉を打ちかけたのだ。 「わっ」 跳ね起きようとする脇腹を存分にえぐり、なにごとかと驚いてのぞき込もうとしたいま一人の、伸びきった胴へ、太刀を返しざま必殺の一撃を叩き付けたのである。 当時、上杉家の主は不識庵謙信だった。子のない彼は、養子を二人持っていたが、その一人が甥の景勝、一人は今川家から迎えた景虎である。背景の強大さからいえば、景虎を後継ぎとする方がはるかに有利、と分かっていながら、謙信の気持はこの事件を境に、大きく景勝に傾いた。
杉原はこれまで、彼等の勁さを限りなく頼もしいものとして、兄が愛弟を見るように見てきた。景勝より12、直江よりは17、彼は年長なのである。少年時代から杉原は二人を知っていたし、二人もまた、主従朋輩の垣を越えて杉原に兄事していた。 景勝が44歳、会津の大守に封ぜられ、杉原が57歳、宿老の上席につらなり、直江が38歳、男盛りの精力を傾けて国政を切って廻し始めた現在なお、三人の心の交流は変わらない。杉原にはそれがうれしく、同時にたまらなく苦しくもあった。やがて、必ずや表面化するであろう意見の対立ー。 (直江を、斬ることになるのではないか?) 最悪な、そんな予感すら、秘かに持ち始めた昨日今日なのだ。 杉原の記憶の中に灼きついている二人は、少年の頃から群童を抜いて光っていた。ことに景勝は剛胆だった。
会津120万石の未来図を、豊臣家のかわらぬ繁栄の上に繰り広げようと夢想しているに違いない。 また直江山城はー? (この男は、こんどのこの、最後の動乱期をとらえて、上杉のお家を覇者の座に押し上げようとの謙信公以来の執念に、全能力を賭けるに相違ない) そして、杉原自身はー? 彼はその、両方ともを不可としていた。遠からず天下の帰趨は、徳川内府 の手に移るーそう、杉原は見通している。愉快な決着ではない。しかし、やむを得ぬ歴史の意志として、杉原はこの新しい趨勢を容認しようとしていた。 覇業への野心など、従ってもっての外である。豊臣家への情誼も、涙をふるって断ち切らねばならない。徳川家の麾下につき、臣従の礼をとるほか、上杉の社稷を安泰に保ち得る道はないと、杉原は確信していた。 ただ、現在の時点ではその見通しを口にしても、景勝に一蹴されるのは分りきっている。直江は冷笑するだろう。穏和な杉原の気性に比べて二人はそれぞれに勁(つよ)い。
みじかい沈黙の後、杉原がおだやか、いつもの口ぶりで答えた。 「いや、不用だ。ー退ってよい」 とぼしい外光に沈んで、明渡りの古画はどんよりと薄濁っている。ーーーかまわなかったのだ。主従の視線は、芦雁の図にそそがれていながら芦雁の図を見ているのではなかった。床に掛っているものもまた、牧谿の幅ではあるが牧谿の幅ではない。時勢の転換を否応なく認識させるために、”運命”が送ってよこしたそれは、”牒”にひとしいものであった。 やがてくる太閤の死ー。 歴史の軸は既に回り始めた。雨滴の底で、上杉主従の耳ははっきりそのきしみをとらえている。しかし新しい展開に、どう対処すべきかという点になると三人の腹中は三人とも別だった。 老巧な杉原には分かっていた。その律儀な性格からも、また豊家五大老の一人という責任感からも、景勝は必ずや、”ご遺言”に固執して、遺子の秀頼をもり立てようとするに違いない。
太閤が亡くなる直前、会津に在城していた上杉景勝のもとへ、下賜の品物が一個、はるばる届けられた。 「形見分けのおつもりではありますまいか」 京都・伏見の留守居役は、添え状の中にそう書いてきている。 牧谿(もっけい=南宋末の画僧。独自の墨画を描き、わが国の水墨画に大きな影響を与えた)筆、芦雁(ろがん)の双幅ー。景勝がかねがね執心し、太閤に拝領をほのめかしていた名品である。 厳重な上包みをほどき、箱だけにして、近習がそれを捧げてきたとき、景勝の私室には重心の杉原常陸介親憲、直江山城守兼続の二人しかいなかった。 この日、会津の天地は、一面初秋の冷雨にけむっていた。時刻も夕暮れ近く室内は暗い。軸を床の間に掛け終った近習は、だれへともなく、 「灯火をお持ちいたしましょうか」 と諮った。
国内電力10社の原発54基のうち25基が運転中で、29基は停止中。このうち福島第一含めトラブルで12基が停止している。電気事業法に基づく定期点検中は17基。いずれにしても、この夏は”節電”が命題になる。 わが国は地震列島であり、原発優先で進められて来たエネルギー政策を大きく梶を切る必要に迫られている。 大震災から2か月の5月10日、菅首相は、従来のエネルギー政策を見直し、原発の依存度を減らす方針を発表した。2030年の総発電量のうち50%を原子力と想定したエネルギー基本計画を白紙に戻し、太陽光、風力発電など自然エネルギーと省エネ社会の実現の2本柱とするものだ。 イタリアは6月13日、原発再開を巡る国民投票で反対が9割を超え、ベルルスコーニ首相は「イタリアは原発計画と決別だ」と語った。スイス、ドイツ両政府は脱原発を決めており、欧州各国で反原発世論が勢いづいている。(完)
明日から「鶴ヶ城物語」に戻る。
石原慎太郎・東京都知事が語った。「我欲」を捨てて慎ましい生活に戻るべきだーと。都内のパチンコ店と自販機の消費電力は、福島第一原発の発電量に匹敵する。こんな無駄はなくして、スリムな生活に戻す時だろう。「格納容器爆発」という最悪のシナリオは幕開けしてほしくない。 国内でも今回の事故をきっかけに、原発を見直す気運が生まれて来た。関西電力の美浜、敦賀原発の14基を抱える日本一の原発県福井県では、美浜原発1、3号機など4基が定期点検中だが、西川一誠知事は「福島県の二の舞いは御免だ。国が原発の暫定的な安全基準を示せないなら、運転再開を認めない」と記者会見。 中部電力では、定期点検中の浜岡原発(静岡県御前崎市)3号機について、7月運転再開の見通しを示したが、静岡県の川勝平太知事は「ハード面、ソフト面とも東日本駄震災を受けての対応ができていない」として運転再開を認めないと表明。
さらに、経産省原子力安全・保安院は事故後、3か月もたった6月6日、福島第一原発1〜3号機の原子炉の核燃料が溶けたメルトダウンの解析結果を公表した。この中で、1号機の圧力容器が破損したのは地震発生の3時間後だったことが判明した。驚くべきことを隠していたものだ。事実を覆い隠そうとする姿勢は明らかだ。 この大震災ー原発事故をきっかけに、原子力に頼ってきた生活スタイルを変えることを考える、よい時機ではなかろうか。電力は他にも太陽光、地熱、風力など自然エネルギーがあり、最も早くスタートしながらヨーロッパに遅れをとっている太陽光発電は早期に導入を検討すべきだ。
斑目原子力安全委員長が「海水の注入は再臨界発生がゼロではない」と言った、言わないと茶番劇を続けたが実際は、東電の福島所長が独断で注水を続行していた、と5月26日になって発言した。IAEAの現地調査が行われるので、真実を言おう、と決心したらしい。呆れてものがいえない。危機管理など、ないに等しいことが明らかになったのである。 さらに、経産省原子力安全・保安院は事故後、3か月もたった6月6日、福島第一原発1〜3号機の原子炉の核燃料が溶けたメルトダウンの解析結果を公表した。この中で、1号機の圧力容器が破損したのは地震発生の3時間後だったことが判明した。事実を覆い隠そうとする姿勢は明らかだ。 ◇ ◇ ◇ 本日、国立千葉病院でMRI検査を受けてきた。最近、歩行が困難になってきたためだが、脳内出血は見られず、無事セーフ。ひと安心。ここ2週間ほど完全断酒していたが、今夜は解禁だ。
真実を伝えよ
福島第一原発2号機では、ポンプの燃料切れに気付かなかったという人為ミスが起き、冷却水がなくなり、一時、危険な空焚きの状態に陥った。第一原発2、3号機が大震災発生数時間から数日でメルトダウン(炉心溶融)していた、と東電が発表したには、事故から2か月以上経った5月24日。真実を覆い隠そうとしている姿勢は明らかだ。政府、東電の発表を信じている人は少ないだろう。特に、1号機の炉心溶融が発生したのは、津波の4時間後だった、とする分析結果を公表したのは事故後2か月もたった5月15日。 典型的な例真実隠しが、第一原発1号機への”海水注入中断騒ぎ”だった。大震災翌日の3月12日、原子炉の真水の冷却水がなくなったため水素爆発を起こし、東電は海水の試験注水を始めたが、真水がなくなり、海水での注入を検討した。しかし、原子炉の再臨界を懸念した首相官邸の意向に配慮して55分間、独断で注水を中断した、とされる問題。
燃料棒は細長い筒状で、数本ずつ縦に並び、青白い水に浸かっていた。上から覗き込むのだが、「眼鏡は外して下さい」といわれ、近視の眼を凝らして見たことを思い出す。無気味な静けさ。物音ひとつしない原子炉の中は別世界のようだった。 「地震対策は?」の質問に、中電社員は「何重もの耐震装置があります。御安心下さい」と胸を張っていた。津波対策は聞かなかった。 一回着用した防護服は放射能汚染物として廃棄され、地下に保管される。 あの時、見た燃料棒が福島第一原発で溶解して放射能をまき散らしている。恐ろしいことが現実に起きているのだ。 政府や関係者は、「警戒区域」や「計画的避難区域」から避難した大熊町、双葉町などの住民に「早く戻れるよう努力する」と伝えている。 が、政府の言うことは、まやかしだ。チェルノブイリ原発では、事故後25年もたつのに、半径20キロ圏内は住居禁止区域、半径30キロには居住できなくなり、13万人が移住した。 政府は「半径20キロ圏内は移住区域になります」と、真実を伝えるべきだ。その時期はきているのではないか。
風評その他のーーー
千葉県船橋市で「放射能がうつる」といって子供達が福島県の被災地からの子供をいやがったとか、茨城県つくば市が、福島からの転入者に放射能検査を要求するなど、心無い、無知な対応も目立つ。悲しい。 さらに、風評被害は広く伝わり、「福島産」や「茨城産」の野菜はボイコットされている。見過ごすことはできない。 筆者は読売新聞浜松支局デスクの頃、どうしても見たい、と要求して中部電力浜岡原発を見学した。 当時、浜岡原発1、2号機は営業運転をしており、3号機が建設中だった。近い将来に予想される東海地震の震源域の真上にある浜岡原発がもっとも危険だと思っていたからだ(尤も本心は取材先には伝えなかったが)。 中部電力社員の案内で、1号機の原子炉建屋の内部に入り、パンツ以外を防護服に着替えて見学した。このため女性の見学はない、ということだった(国会議員でも)。
また、隣の韓国では、33年前に営業運転を開始した釜山市の古里(コリ)原発で3月中旬、変換機の故障で運転が中止するなど、トラブルが続いており、運転停止を求める運動が起きている。 こうした中、インドでは、高度経済成長を維持するためネックになっている電力不足の解消を目指して各国と原子力協定を結んで原発の増設を急いでいる。西部マハラシュトラ州では、沿岸部に原子炉9基、出力9900メガワットという世界最大級のジャイタプール原発建設を予定しているが、福島原発事故後、極右政党の扇動もあって住民の反対運動が激化している。 外国のマスコミは、福島原発事故に過剰反応を示している。「日本からの脱出」「東京・パニック」などなど、刺激的な紙面が目立ったのも、今回の特徴だ。
ドイツのジャーナリストたちは、東電や日本政府が放射能汚染の危険を過小評価する傾向があることにいらだちと不満を感じているーと読売新聞5月17日付夕刊でドイツ在住のジャーナリスト永井潤子さんの雑誌寄稿を紹介。 広島、長崎を経験した唯一の被爆国日本がなぜ原発大国になったのか、原爆への反対運動は起きても大規模な反原発運動は何故起きないのか?さらに地震、台風が多い国が50機以上も原発を作り、海辺の原発の危機対策がお粗末なことーなど。人災面が浮き上がるにつれ、永井さんの鋭い指摘は心に響く。 また、隣の韓国では、33年前に営業運転を開始した釜山市の古里(コリ)原発で3月中旬、変換機の故障で運転が中止するなど、トラブルが続いており、運転停止を求める運動が起きている ◇ ◇ ◇ 明日、千葉県富津市西川の正珊寺で第5回会津藩士慰霊祭を行う。近くの浄信寺の墓地に眠る飯野藩剣術指南、森要蔵の墓にも献花焼香する。会津藩救援に向かい戦死した人物で、明治7年の建立以来、初の大型墓参になる。志ある者よ、来れ!
チェルノブイリ原発では、25年経った現在、原子炉建屋を覆う石棺が老朽化して放射能が漏れており、原子炉処理は続く。事故当時に使用した大形機械は被爆したため、地下に埋めることにしているが、放射能が薄まるのは300年もかかる、という。 各国で原発見直しが 世界で初めての津波による原発事故は世界に衝撃を与えた。世界で唯一の被爆国のわが国は、原発に対するアレルギーが強く、原発建設に対しては世界一厳しい基準を設けてきた。しかし、その基準を超える想定外の事故で、世界各国は原発を巡る見直しの動きが始まっている。 ドイツのメルケル首相は5月21日、2022年までに脱原発を図る、と発表した。風力や太陽光発電など自然エネルギーとロシアからの天然ガスで需要の増加に応える方針だ。この方針により、連立与党は5月30日、国内の全17基の原発を22年までに廃止することを決めた。 スイスも25日、国内に5基ある原発の稼動を2034年までに全面停止し、脱原発をはかると発表した。
4月11日には、「東日本大震災復興構想会議」なるものを発足させた。被災地の復興を図るだけでなく、未来に向けた新しい国土づくりを話し合う場であり、メンバーに宗教学者、脚本家、作家など素人ばかりを選んだ。絵空ごとを話し合う場ではない。具体的な構想、例えば、港湾、漁港構築、道路、防災都市づくりなどを提言する機関であり、夢を語る場ではないのだ。 放射能は事故後、偏西風に乗って半月で北半球を回り、1か月後には地球全体を汚染した。まさに原発に国境はない。 ◇ ◇ ◇ 今朝のtbsラジオで、月尾某・東大名誉教授がいいことを言っていた。会津藩祖保科正之のこと。将軍補弼役として江戸城で幕政の梶をとっていた時、絵江戸町民のため玉川上水を開削し、死者3〜10万人を出した明暦の大火で浅草の御米蔵を町民に開放したことなど、当時16万両の幕府蓄財を使った。数々の大英断に朝廷から官位を上げたい、と申し出があったが断っており、まさに名君であった、ことなどを放送した。「我欲がなかったから」と解説し、それに引き替え、今の政治家は?とこき下ろしていた。