五郎は10歳であった。10歳の少年の胸にも、これだけの憤慨があった。藩全体の切歯扼腕が、目に見えるようである。(『ある明治人の記録』参照)。 会津が朝敵である理由は少しもなかった。しかし憤りを抑えて、会津はできるだけのことをした。謝罪嘆願書も転出した。仙台、米沢藩も会津のために奔走した。 しかし、総督参謀は、 「会津人は朝敵、天地に容るべからざる罪人なり」 の見解を崩さなかった。薩長、特に長州は、大義名分を振りかざすことによって、幕府に向かっては「関ヶ原」の怨みを晴らそうとし、会津に向かっては京都守護職以来の対立感情を忘れず、あくまで叩きつぶそうとした。一方、大義名分によって仙台に出張して来ている総督参謀、薩長兵の行動は、目に余るものがあった。 ◇ ◇ ◇ 今日の紙面に明るい記事が。新潟県津南町議選で東大大学院生の女性25歳がトップ当選!2位に500票余の大差。閉息感一杯の最近の新聞にポッと光を灯す。じじいが多いであろう地方町議会に若々しい空気を吹き込んで欲しい。
慶喜は責任を逃れたのだからそれでいい。だが、そういう慶喜のために、心ある幕臣の拠り所が、容保一人に集まったことが、容保にとって、会津にとって不幸であった。 大きな転換期には、必ず犠牲者が出る。容保と会津は、その時代の飛沫を一身に浴びた。光栄ある不運の立場を避けることは出来なかった。 「例によって家には雛壇が飾られ、内裏様を最上段に、祖先伝来のお雛様が並べられた。内裏様は天子さまではないか。我々はこのように内裏様をお祀りしているのに、朝敵として征伐を受ける道理はないと、小さな胸に不審を抱いて、秘かに憤慨した」 これは、会津藩士柴佐多蔵の五男で、後に陸軍大将になった柴五郎の、その年(慶応4年)の節句の日記である。 ◇ ◇ ◇ 昨夜のプロ野球CS巨人ーヤクルトの試合をぶち壊したのは、巨人の2番寺内というバカタレだった。追加点絶好機のバント失敗。高校生以下だ。あれで試合は決まった。あんなのを2番打者に起用した原の責任だ。今日で巨人の今シーズンは終わりだろう。情けない!
「暴徒幼帝を擁して」の一句も、「賊の手にある錦旗を恐れることはない」という檄文も、その辺の消息をついている。かつての「討幕の密勅」なるものと同じように、勅諚も玉を抱いた彼等の創作であるかもしれない。 幕臣の憤りはそこにあった。容保の憤りもそこにあった。ただ一人慶喜が、理屈に合わない恭順一辺倒で引き退っているのが、異様に見えた。特に、鳥羽・伏見の敗戦以来、慶喜は人間的反撥さえ忘れてしまった。それは、風を避ける憶病者の境地であろうか。(この意見に筆者は賛成だ。「慶喜は卑怯者だ」と故松平家13代保定氏にいったら、彼は「でも現在の徳川家当主は松平家からの養子です」と笑っていた。作家早乙女貢氏も筆者と同意見であると補足しておく)。 とすれば、彰義隊の天野八郎の文章の 「大家の暗断は、一に朝命も出し難しを云い、二に自家の安危を図り、三にわが賊吏、8万の旗本の薄情柔弱」 と共通するものが、慶喜にあったということになりそうだ。
その頃、「玉を奪う」とか、「玉を抱き込む」とかいう言葉が、討幕志士の間で使われていた。玉は天皇を意味する。特に容保とよかった孝明天皇の死については言語道断な噂が全国的に広がっていた。 噂の対象になっているのは岩倉である。岩倉は150石のヒラ公家で、貧乏しのぎにバクチのテラ銭をとっていたというくらいの人間だから、何をするか判らない 孝明天皇の死後、幼帝明治天皇は、彼等にとって言葉通りの玉であった。(この間の事情についても、『会津人群像』19号の「偽の討幕蜜勅と孝明天皇毒殺」が詳しい) ◇ ◇ ◇ 昨日のプロ野球ドラフトで、東海大の菅野智之投手は、何と日ハム指名に。阿呆な!本格左腕で、原監督の甥ーだったら巨人にくるのが当然。日ハムは馬鹿なことをした。 これで頭にきているのに、東海大相模ー東海大と、神奈川県生まれ、育ちなのに横浜が指名しなかったのも馬鹿だ。地元選手を集めて人気をとるのが、プロ野球だろう。万年最下位のチームとは、こんなものか。 近く、モバゲーとかいう企業に売却されるが、こんなことでは、再び売却の憂き目に遭うのも時間の問題だろう。
彰義隊の天野八郎の『斃休録』にも 「暴徒幼帝を擁し、わが主(慶喜)を朝敵と唱え、我主無罪にして恭順、謝罪を哀訴す。加うるに主家の賊吏、これを補助して自縛するが如く、誠に抱腹に絶えたり」 とある。主家の賊吏とは、勝、大久保、山岡らの徒を指している。 それよりも問題なのは、「暴徒幼帝を擁して」の一句である。小御所会議と王政復古の大号令は、幼帝の明治天皇から出たものではない。岩倉具視と大久保利通が描いたクーデターの筋書きであった。 ◇ ◇ ◇ 世界の人口が今月末に70億人を突破する、という。中国13億、インド12億、3位はアメリカの3億人。日本は10位。移民流入国のアメリカを除き、10位以内は発展途上国だ。当然、食糧危機が起り、特に中国は帝国主義を振りかざし、なりふり構わぬ世界制覇を目論んでいる。 これらアジア、アフリカの最貧国は今後、爆発的な人口増加が予想され、恐ろしい未来が待ち受けている、ことを彼等は知っているのだろうか。地球全体で食糧争奪戦が?
江戸での容保の動きは複雑だった。会津藩別撰隊をつくって、佐川官兵衛を司令として、江戸城中でフランス式訓練を行った。さらに、山川浩を隊長にして砲兵隊に力を入れた。 一方、容保は、藩主の座を養子の喜徳に譲る旨を慶喜に申し出、さらに輪王寺宮を通じて、薩長新政府に謝罪嘆願を出している。これは慶喜の勧めによるものであったろうし、軍事訓練を始めた隠れ蓑でもあった。 しかし、新政府は仙台藩に容保追討の命を出した。 登城を禁じられてからは、軍事訓練もやることが出来なくなり、江戸詰めの婦女子を会津に帰し、自分も2月16日、和田倉の藩邸を出て会津に戻った。 会津に戻ったが、慶喜のように責任から逃れられたわけではない。榎本武揚、大鳥圭介らを代表者とする主戦派は、依然として強硬であった。榎本は海軍を握っているし、大鳥は歩兵奉行であった。そうして、彼等が頼みとしたのは、会津の容保であった。 「錦旗といっても、賊の手にあっては、賊のためにしか働かない。賊旗など、恐れることはない」 これは「徳川脱走浪人共」がまいた檄文であろ。(『会津若松史』)
しかし、そんな言い訳は、藩士にはできなかった。藩士たちは、そういう事態に立ち至ったのは、軍事奉行添役であった神保修理の責任と考えた。慶喜に東帰を勧め、容保にも勧めたのが修理であるという噂が流れていたからである。 それだけではない。鳥羽・伏見の戦の3日目、長州兵の軍門高く、錦旗が翻った。これは、長州藩邸に出入りする京都の紺屋が、勝手に作ったニセの錦旗であった。修理はそれを見て、 「錦旗いでたり」 と全軍に呼び掛け、そのために幕軍の闘志が鈍り、総崩れになった。錦旗がニセモノであったかどうかは、戦場にいる兵に判るわけもないが、そういう呼び掛けをして士気を崩したのは、裏切り行為である、というのである。 結局、修理は三田の会津藩邸で腹を切った。(偽の錦旗については、『会津人群像』19号の小生の「孝明天皇毒殺と偽の討幕密勅」参照)
江戸城会議も、その意味では、大坂城の協議と似たものであった。煮え切らない慶喜は勝一派に押されて、主戦派の中心人物小栗上野介を罷免し、松平容保の登城を禁止して上野・寛永寺に退いた。 榎本武揚の艦隊で江戸に戻った会津藩兵は、主君容保が将軍と共に大坂城を脱したことに、大きな不満を持っていた。しかし、容保は、江戸へ戻るつもりで大坂城を出たのではなかった。桑名の定敬もそうだった。 「ちょっと、来い」 と慶喜に云われ、何の気なしに後に従った。それが江戸に帰らざるを得ない結果になったのだ。 慶喜は、後に当時を回想して 「あの二人を残しておけば始まる」 と云っている(『昔夢会筆記』)。 「始まる」とは大阪で戦が始まると云う意味だが、その時、既に慶喜は、大坂城を捨てていたのである。大坂城を捨てるのは、幕府を守る意志を捨てたということになる。 それは兎も角、容保も定敬も、慶喜に騙されたのだ。
開陽は10日、浦賀に着き、外国奉行山口駿河守と組頭の高畠五郎が下船した。横浜にいるフランス公使ロッシュに遭うためであった。品川沖に着いたのは11日朝、この時、慶喜は二分金で200両を、船員の骨折料として与えた。 沢艦長代理以下、整列してボートに移る慶喜を見送った。ボートに乗ったのは慶喜と伊賀守の二人、他は漁船を雇って浜御殿に向かった。 江戸の町民はまだ、鳥羽・伏見の敗戦を知らなかったが、その年の正月は寂しかった。物価が上がって正月の晴れ着にも手が届きかねた。 しかし、将軍が帰ってくると、暮に百文(1銭)で1合1勺であった米が、1合二勺に下がった。町民は将軍を頼りにしていたが、それ以後の将軍は、町民たちにも、幕臣 にも、将軍を支えようとする各藩主にも、全然頼りにならない存在になっていた。 ロッシュが薩長新政府の合法性を否定し、軍事、財政面を約束しての激励も、何の効き目もなかった。形の上では、慶喜は勝海舟、大久保一翁らの恭順論に説得されたことになるが、既に大坂城脱出の時から、慶喜は戦意を喪失していた。 ◇ ◇ ◇ 22日の巨人ー横浜最終戦は見ごたえがあった。1点差の9回裏、ノーアウト満塁で巨人の代打は長野。代打、逆転、満塁ホームランで劇的なサヨナラ。「代打、逆転、満塁、サヨナラ」は川上や青田の現役時代、樋笠という選手以来と思う。数十年ぶりの大仕事で、CSに望む巨人のムードは最高潮だ。
明日にも戦が始まるという風説がもっぱらで、市中は避難騒ぎでごった返していたが、大坂城は防御どころか、大手筋には人影もなかった。内に入ると、早くも敗走して来た兵が、秩序もなくあちこちに屯していた。 負傷した姿もある。奥向きに平山図署頭永井玄蕃頭、浅野美作守などが密談していた。そこで初めて榎本は、将軍が昨夜、城を脱出したと聞いた。 「では、これからどうするのか」 と聞くと、みな、 「江戸に引き揚げる」 との返事だった。榎本は彼等の無策に呆れ、 「徳川もこれまでか」 と秘かに憤慨した。総督本部で練った作戦も、すべて徒労に終った。 大坂城から火が出たのは、その日の夕方、今の時間で云うと5時頃である。
これをみて歯がみをしなかった者は、恐らく一人もいなかったろう。僚艦不二からは暗号で、イギリスは何をするつもりかと、しきりに開陽に問い合わせてくる。挑発に乗ってはならぬ、と開陽は答える。 イギリス砲艦は間もなく去ったが、ともかく事態は重大である。次にまた、何が起るか判らない。この重大な場合に、慶喜は大坂城を捨てるばかりか、旗艦を江戸に回せという。どういう料簡か。ただ諮り難いものを、容保も定敬も、沢副艦長も、案内役の板倉伊賀守も感じた。 開陽艦長の榎本武揚は、5日大阪に上陸、鳥羽・伏見の敗報しきりに来る陸軍総督本部で、陸軍諸隊の今後の処置、それに応じる海軍の配置など、案を練っていた。 7日早朝、大坂城に防御の準備ができているかどうか、見に行った。
鳥羽・伏見の戦より前に、老中に献策した者があった。こっちから出て行くのは不可である。軍艦で兵庫大坂の港を封鎖して淀川の通路を止め、西宮からの街道に添って胸壁を築く。枚方にも強固な陣地を造る。敵が出て来たら、討つことは易しい。 この献策は行方不明になってしまった。薩長の誘いに乗った幕軍の行動は、軽率であった。 しかし、こちらは1万5千で、三分の一の薩長軍と戦って敗れる筈はなかった。敗れたのは、イギリスの特務機関であり、かつ「死の商人」であるグラバーが、薩長に多量に注ぎ込んだ新式銃の威力である。 イギリスは薩長を有望株と認めた。認めた以上、尻押しは当然だろうが、此所ではイギリス自体が表面に躍り出た。例え鳥羽・伏見の一戦に負けても、幕府は失望することはなかった。 幕艦は全部無事であるし、大坂城を固く守って、公武合体派と緊密な連絡をとっていれば、幕府の運命が早急に傾くようなことはあり得なかった。それを知っているイギリスは、操練に事寄せて、挑発に出たのである。
が、いやがらせは極点に達した。開陽の周りを回りながら、遂に実弾を放ったのだ。勿論、開陽を狙ってではない。傲然たる響きと共に、波柱が高く上がった。 「あの実弾が、この船を狙ったら、どうするか?」 慶喜は肝を冷した。 「わが26門の大砲には、すべて実弾が装填してございます。あの砲艦の先がこちらに向かえば、どこの国の軍艦であろうとも、容赦は致しません」 副艦長の答えには、断乎たるものが籠っていた。むしろ籠り過ぎて、慶喜に新しい不安を与えたようであった。 ◇ ◇ ◇ 海の向こうのアメリカの話。大リーグのワールド・シリーズ出場を巡って最後の闘いが展開中だ。しかし、考えてみると(考えなくとも)、アメリカの野球で、「ワールド」とはこれ如何?カナダを入れて「北米シリーズ」がいいところ。百歩譲って中南米の選手がいる、理由で「北米・中南米シリーズ」だろう。野球発祥の地である自負だろうが、それにしても、 である。
その時、思いがけないことが起った。兵庫の方から進んで来たイギリス砲艦が速力を早め、開陽と不二の間に割り込んで、戦争繰練を始めた。天保山沖に碇泊していたイギリス軍艦1隻が、これを見ると動きだして、開陽に近づいた。2隻の軍艦は互いに信号を取り交わし、両艦の甲板に立った2、3の士官が、望遠鏡でしきりに開陽を伺っている。 イギリス砲艦の操練はさらに活発になり、僚艦との信号も絶え間なく、実戦そのものの如くになった。実戦の相手を開陽においているのは、誰の目にも明らかであった。 これには、慶喜も驚いたようだ。 「大丈夫か?」 との質問に、沢副艦長は答えた。 「外国の公法は、理由のない攻撃を禁じております。此所にはアメリカ、フランスの軍艦もおりますから、無茶なことは致しますまい。薩長の味方をして、我等にいやがらせをしているに過ぎないと存じます」
開陽に移ってから、容保と定敬は、始めて慶喜がそこに来た目的を知った。慶喜は敗戦の対応措置など、少しも考えていなかった。大坂城を捨てて、江戸へ引き上げるというのである。 それを知っていた者は、板倉伊賀守一人であった。伊賀守は副艦長の沢太郎左衛門に、将軍の意向を伝えた。 「只今、艦長榎本和泉守が不在であります。将軍の仰せでも、海軍の規約として私個人でお引き受けするわけには参りません。殊に本艦は旗艦でありますから、本艦がいなくては、いざという場合、他の軍艦が統制ある行動に出ることが出来なくなります」 副艦長の答えは立派であった。伊賀守は慶喜と副艦長の間を、何度か往復した。結局、不二を旗艦として指揮を任せ、沢が艦長代理として、江戸に直航する、ということになった。 慶喜は早く江戸へ帰りたい一心で、将軍の特権を利用したのだ。
医師の文海が、「身体が温まるから」と云って、薬を煎じて勧めたが、服もうともしない。船酔いで、もどしそうなのを、じっと堪えているのであろう。 「あの船につけろ。開陽がどれか、あの船につけて訊け」 気が気でなかった伊賀守は、いちばん近い船を指差した。幸いにそれはアメリカの軍艦であった。激しい波に難渋している苫船から、一行を引き揚げてくれた。それが将軍一行と知って驚き、船長室に招じ、夜明けを待って開陽に連絡した。 ◇ ◇ ◇ 会津藩士の墓地がある富津市から嬉しい便りが舞い込んだ。西川の正珊寺 墓地にピンクや白の秋桜が風に吹かれ、雑草も刈り取られているそうだ。青木の浄信寺に眠る飯野藩剣術指南森要蔵の墓も雑草が刈られ、献花してある、という。会津藩救援に向かい、壮烈な戦死を遂げたあの武士だ。有難い。顕彰会の運動が徐々に地元民に理解されてきたのだ。 役員の鈴木登美子さんは「眠っている藩士の御霊も喜んでいるでしょう」と結んでいる。新聞連載から6年、顕彰会立ち上げから5年、少しずつ、運動の輪は広がっている。
陸路の道も暗かったが、海は更に暗い。しかも、陸路ではそれほど感じなかった西北の風が、海になると激しかった。波は荒々しく船べりにまでぶつかって、苫はあっても、波飛沫は横から遠慮なく襲い掛かる。 天保山沖には、イギリス、フランス、アメリカの軍艦が碇泊していた。暗い海に、それらは一層黒グロとした姿を示していた。 「開陽丸はどれですか」 船頭には、開陽の形状が判らない。伊賀守にも判らない。波に浮かぶ城はどれも同じように見えて、しかもその一部は、遥かに遠いところにある。これでは開陽を探し当てるのは、容易なことではない。 苫船は強い横波で、二度三度、転覆しそうになった。それに寒い。船中には小さな火桶が一つあるだけで、皆、氷のような身体になっている。船中の乏しい光に浮いた慶喜の顔はひどく蒼い。
慶喜は外に出て桜門の方角に歩いたが、その頃には老中酒井雅楽頭、外国奉行山口駿河守、奥医師の並戸塚文海、外国奉行支配組頭高畠五郎の5人が、慶喜の後に従っていた。 板倉伊賀守は先頭に立って案内役の格好である。容保と定敬は戸惑う気持だったが、来い、と慶喜に云われているのだから、一行から身を外すわけにはいかない。 桜門の手前に馬が揃えてあって、八軒家まで行った。八軒家は天満橋と天神橋の間にある船着き場である。そこまで行くと一艘の苫舟が待っていて、慶喜を入れて一行9人はそれに乗り込んだ。 「開陽丸につけろ」 伊賀守が船頭に云った。容保と定敬は、それで万事分かったような気がした。幕府の軍艦開陽、不二、飜竜、翔鶴の4艦が西宮の沖に停泊している。長州勢が本街道を通って神崎辺りに屯集するとの噂があったので、来たらそれを海から攻撃するための用意であった。 開陽は旗艦である。慶喜はそこへ行って、今後の対策の打ち合わせをしようというのであろう。
二人は内心、いらいらしていた。敗戦の対策をどう立てるか、それが差し当たっての問題である。そのための協議が開かれても、なかなかまとまらない。まとまらないのは、慶喜が煮え切らないからである。が、疲れ切った慶喜の様子を見ていると、その問題をこの部屋で蒸し返すこともできない。痛々しい思いが、先に立つのである。 葡萄酒の軽い酔いが慶喜の目の舌に滲んで、いくらか元気を取り戻したようだった。そこへ、板倉伊賀守が入って来た。慶喜は俄に弾みを見せて立ち上がり、容保と定敬に、ちょっと来いと云った。 後で聞くと、既に伊賀守とは、打ち合わせがしてあったのである。そんな打ち合わせは、容保と定敬も知らなかった。何か、この席では話のしにくいことでもあるのかと考え、慶喜の後に従った。 ◇ ◇ ◇ イギリスの教育専門紙が発表した今年の世界の大学ランキングで、7年連続1位だったハーバード大(米)がカリフォルニア工科大(同)に抜かれた。4位にオックスフォード大(英)が入った。アジアの最高は東大で、それでも26位だ。 東大は大学院で秋入学に移すなど、世界の教育制度に合わせ、成績優秀者を世界から集めようとしている。行く行くは、全学秋入学にしたいのだが、3月卒業、4月入学、入社という明侍以来の制度があり、この壁を突き破れるか?
慶応4年(1868)1月6日の夜である。鳥羽・伏見の戦いが思いがけない惨敗で、大坂城中は殺気に満ちていた。殺気に満ちた城内のひと間で、将軍慶喜と会津藩主松平容保、弟の桑名藩主松平定敬が、何ということもなく顔を突き合わせていた。 慶喜は疲れ切った表情で、フランス公使ロッシュから貰った葡萄酒を舌にころがすように味わっていた。 「どうだ、この酒の味は」 ナポレオン3世から贈られたアラビア馬に乗り、フランスの軍帽をかぶり、それを写真に撮らせて得意になる慶喜には、葡萄酒も板についている感じだが、容保と定敬にとっては、不気味な血の色をした上に、変に渋いフランスの酒を、お世辞にも「うまい」とは答えられなかった。 ◇ ◇ ◇ 今日の新聞は小沢一郎の記事で埋まっている。面白くない。第一、土地購入代4億円はどこから出たのだ。自由党、新進党を次々解党した小沢には、政党交付金の残金があった。これらの処置は薮の中。 政党交付は金国民一人が2万5千円を出した血税だ。それを含めて代議士として巨額の蓄財をした小沢を徹底的に追及しなくてはならない。 井戸塀代議士といわれたのは昔、今は蓄財するなら代議士か。
昭和初期の大槻如電の『自語自筆』とある文章に次のようなものがある。 「・・・会津中将も寛文9年に隠居いたしまして、12年に亡くなられました。そこで酒井雅楽頭(忠清)は当代(家綱)の初めより老中を勤めておりましたが、(寛文7年、将軍補弼役となる)将軍補佐の正之朝臣には頭があがりませぬ。この酒井、下馬将軍(屋敷が江戸城大手門の下馬札の前にあったのでついた渾名)の称がありまして、なかなかに権勢をふるいましたけれども、しかしそれは正之朝臣の隠居してからのことです。 (中略) この下馬将軍は、なかなかエライ人物のかわりに、随分と驕奢もいたしました。 (中略) 上に好むものある時は、下これより甚だしと申します通り、会津が隠居してから後は12カ年、この酒井忠清が大いばりで権威を振り回したのですから、下々の驕りは思いやられます」 正之亡き後の幕府政治は、正之の「明快醇乎」(純粋で考え方が一貫している)たる力を失い、ようやくに根を広げた官僚政治の中に、大小の派閥のうごめきが濃厚となって行ったことは確かである(完)
寛文12年(1672)12月18日、保科正之は62歳で病没した。 寅の下刻というから午前5時頃であったろう。場所は江戸・三田の会津藩下屋敷に於いてである。 将軍家綱は、これを哀悼することはなはだしく、 「中将は、もはやこの世にはおらぬか・・・」 といったなり絶句し、朝飯が喉へ通らなかった。 遺体は21日に江戸を発し、正月晦日(3日)に会津へ到着した。 『徳川実記』に、こうある。 「・・・卒するに及んで、御所はさらにもいわず、京にては万乗(古代、中国では戦争の際、天子は1万台の兵庫を出すきまりがあったことから、天子を指す)の主を初め奉り、摂関、親王以下の公卿より、各国の諸大名、朝士藩士の分ちなく、遠近の婦女小児に至るまで、国の為人の為、名残り惜しまぬはなかりしとぞ」
これらの中で、正之の仕残したものは、2代藩主となった保科正経が遺志を継ぎ、完成させている。 寛文9年(1669)・・・。 正之は隠居を願い出て許されたが、 「正経が病身ゆえ、出来得る限りのことをしておいてやらねばならぬ」 といい、会津へ帰国するや、かなりの情熱を治世に注ぎ込んでいる。家老成瀬重次の慢心を怒って、これを蟄居させたこともある。 ところで・・・。 正之が遺した『家訓15か条』なるものがある。 その中に、 「婦人女子の言、一切聞くべからず」 の一条がある。何か微笑を誘われるではないか。正之は、よほどに女に懲りたものとみえる。
この後、間もなく、保科正之は発病している。明暦大火の5年前には、あの「毒殺事件」が起きていたし、正之も、将軍補弼役の役目に就いてからは、心身の休まる日とてなかったろう。 病気は、まず眼にきた。続いて吐血があり、江戸城へ出仕することは、 「御命を縮め奉ることになりましょう」 と侍医の断定もあったし、正之もまた、 「躬の役目は、これで終えた」 との満足感もあったらしく、以後は屋敷に引き蘢り、重養政策のみについて相談を受けるようになった。 正之が学問に熱中するようになったのはこれからで、殊に「神道」についての研究は、京都から山崎闇斎を招いて師とし、儒教と神道との二道から、指導階級としてのモラルを追求しようとしたようである。 かの有名な『会津風土記』の編纂や『二程治教録』その他の編著も、みな政界引退後の業績であった。
焼失した江戸の復興についても、正之が示した業績は大きい。玉川上水を開いたのも、この時である。 このような保科正之の政治力というものは、領国の会津へも同じように発揮された。ほとんど江戸にいた正之に代わって領国の重臣たちは、江戸からの指令を忠実に果たした。 6年後の寛文3年(1663)に、正之たちが改定した「武家諸法度」に次いで、これは「法律」としてでなく、むしろ将軍の言葉として、武家の殉死を戒めている。 例の旗本奴や町奴などの暴力行為に対する幕府の取締は、さらに強化され、こうした血生臭い戦国の遺風というものを消滅させると共に、正之は、 「もはや戦火は絶え、再び起るまじ。上下心を合わせて国土を開き、淳良な美風を展布すべし」 の意見を徹底せしむることに努めたのであった。
米価の騰貴を防ぐことを得たし、焼死者の死体を取り片付ける時は、正之が馬上でこれを督励したという話も伝えられている。焼死者を葬った場所(本所)には、回向院が建立された。 こうした正之の処置は、文字通り幕府の財産を洗いざらい放出しての救済であったから、 「やり過ぎではないか」 「この後、大公儀の失費が響いて、とんでもないことになる」 いろいろ反対意見も出たようである。 だが正之は、 「官軍(とはいわなかったではないか。公儀)の蓄えというものは、このような場合に下々へ与えるべきものであって、むざむざと積み置きしのみにては、貯え無きと同様ではないか」 と一歩も引かなかった。 幕府の処置に対する江戸町人の喜びはいうまでもないが、この明暦の大火後、幕府と大名、大名と旗本の間に融和の気運が漲り、反って幕府への信頼感が濃くなり、将軍も大名も気をそろえて天下政道に励もうという意欲が旺盛となった。