焼死者は10万8千人。武家屋敷は1500軒(1300軒ともいわれる)、町家の焼失は1200町、神社仏閣は340に及んだ。 まず、江戸市中の90%が灰になったといってよい。 正之は火が収まるや、直ちに幕府閣僚と会談し、 1、10万石以下の大名へは10カ年賦返済で金を貸し与えること。 1、旗本御家人へは禄高100石につき金10両の下賜金を与えること。 1、焼け出された町民へは金16万両の下賜金を与えること。 を、てきぱきと決めた。 将軍補弼役の正之と、老中松平伊豆守との談合は、 「何事にも渋滞のことなく・・・」 進められたといわれる。 ◇ ◇ ◇ 大リーグ・イチローの年間200安打の連続記録は遂に10年で途切れた。今年は長いスランプがあって184安打で終了。「追いかけられずホットしている」と清清しいイチロー。偉大な記録は永久に破られないに違いない。大震災に沈む日本人を勇気づけてくれた。ありがとう イチロー!
無論、江戸開府以来の大惨禍である。幕府当局の文治政策も軌道に乗り、保科正之も大老職(ではなく補弼役)に任じてから5年目となっており、47歳の働き盛りであった。 正之は、出火と同時に江戸城へ詰め、不眠不休の指揮にあたった。例えば、 「浅草の御米蔵に火がかかります」 との知らせを受けた時、 「よし、焼け出された町民たちに、蔵米を持ち出すことをゆるせ」 と打てば響くように命じている。 この時の火事は、18日の本郷出火に続いて、翌19日に小石川の伝通院前から出火。さらに番町からも出火し、江戸城も、本丸、二の丸、三の丸から天守櫓まで焼け落ち、辛うじて西の丸と紅葉山だけが類焼を免れた、という。
聖人君子の誉をほしいままにした保科正之にも、こういう「人生」が潜んでいたのだ。正之自身が、その出生の時、秀忠夫人(NHKで放映中の於江)によって抹殺されかかったことを振り返ってみる時、女性の嫉妬心にさいなまれた彼の生涯に、因縁めいた、偶然の不思議さを感ぜずにはいられない。 4代将軍家綱は、凡庸な将軍といわれている。しかし、それだけに大老(ではなく補弼役)の保科正之をはじめ幕府閣僚が思うままに腕を奮い、天下統轄の政治機構を整え、これ磐石のものとすることを得た。 凡庸といわれても、もともと病弱であったし、温和な人柄であったように思われる。家綱の治世のうちで、もっとも大きな事件は、あの振袖火事であろう。 本郷・丸山の本妙寺の施餓鬼に振袖を焼いたことが発火原因だともいわれているが、兎に角明暦3年(1657)の正月18日から19日にかけて、燃え盛る火災は江戸市中をなめつくした。
「母上、おはなしあれ」 「むう・・・」 不気味なうなり声をあげ、怨憎の想いを込めた白い眼で正容をにらみつけつつ、じりじりと半身を起こしかけた。 たまりかねた正容が顔面蒼白となり、 「た、たれか・・・」 とうめくように云った時、 「ごめん」 ようやくに意を決した用人の杉本某が短刀を抜き放ち膝行して近づくや、 「お許し下されましょう」 とやむなく、袴の裾を切り離した。 この話は、尾ひれがつき、正容が来た時、既にお万の方は息をひきとっており、その死体が手を伸ばして、袴の裾を掴んだ、といわれるようになった。
正之自身、将軍補弼役となってからは、江戸にいることが多く、めったに会津へは帰らなかったようだが、重臣たちが国許をしっかりと守り、正之の治世方針を過ちなく推し進めてきている。 さて、お万の方であるが・・・。 彼女は、2代藩主となるべき正経の生母であるから、まさかに首を斬るわけにもゆかず、江戸藩邸の奥深くに幽閉され、元禄4年(1691)の夏に、大崎の下屋敷で寂しく死んだ。 しかし、老いさらばえつつも尚、その頃の3代藩主正容を憎悪していたようだ。2代藩主のわが子正経は既に死去しており、正容は自分が産んだ子ではないからである。 見舞いに来た正容の袴の裾を、 「む、むう・・・」 と恐ろしいうなり声を発しつつ、お万の方が引き掴んだので 「母上、何をなされます」 驚いた正容が、これを離させようとしたが、離すものではない。
保科正之の驚きも非常なもので、 「女とは、このように恐るべき生きものなのか・・・」 と茫然となったが、直ちに、厳しく詮議をすすめ、老女三好をはじめ、この毒殺計画に加担をした18名を断罪、切腹の刑に処した。 切腹とあるからには、数名の家来も加担していたのであろうが、この事件は、これ以上、尾を引いてはいない。 大名の家では、こうした閨門の乱れが家臣たちの権力や派閥に結びつき、いわゆる 「お家騒動」 にまで波紋を広げて行くものなのだが、会津藩では、さすがに正之の統轄が行き届いていたので大事にならなかった。 保科正之は、3万石から23万石の大身になっただけに、会津へ移って来た時、新しい家来も多く召し抱えた筈だが、あまり屑をつかんではいない。
(ああ・・・あ、もう・・・) 三好は居ても立ってもいられない。お万の方の命令で入れた毒物を、お万の方の娘が口に入れているのであった。だからといって、これを止めることもならぬ。 それでなくとも、松子の傍にぴたりと寄り添った老女野村が吃っとこちらを睨みつけているではないか。 遂に、食事が終った。 翌日になって、松子は目出度く前田家へ嫁入ったが、春子のほうは桜田の上杉屋敷へ帰ったその翌日から腹痛を訴え、医薬を尽したが及ばず、27日昼過ぎ、死去した。 こうして、春子は実母の劣悪の犠牲となったのだが、この話、無惨を極めている。お万の方も、このことを知った時は驚愕のあまり卒倒したという。
かねてから、お万の方の人柄を熟知していた野村だけに、いささかの油断もない。 (あっ・・・) 胸中で声なき悲鳴を上げたのは老女三好である。 (こ、これは、とんでもないことに・・・) 顔面蒼白となって震え出したが、どうしようもない。再び膳部を取り替える理由が何一つとしてないからである。 そのうちに・・・。 何も知らぬ姉妹は仲睦まじく語り合いつつ、膳部のものを食べ始めた。 ◇ ◇ ◇ 米航空宇宙局(NASA)の大気観測衛星は、寿命が尽きて24日未明に、地球に落下する。大気との摩擦で燃え尽きない破片26個が、800キロにわたる帯状で落下するという。 地球上の「誰か」にあたる確率は3200分の1、自分に当る確率は20兆分の1。97年、燃えかすがオクラホマ州で散歩中の女性に当たった。さて24日は?
いよいよ、明日は婚礼という7月25日に、いそいそと、春子は桜田の上杉家上屋敷を出て、実家である芝の保科家上屋敷へ赴いた。 これより先、保科の江戸藩邸では、秘かに毒殺の計画が進められている。春子は、むろん実母お万の陰謀を知る由もない。 春子が到着し、松子と対面するや、夕餉の膳が運ばれる。膳は、先ず妹の松子の前へ運ばれ、次に姉の春子の前へすすめられようとした。 即ち、お万の方の密命を受けた老女の三好が、秘かに松子の膳の食べ物に毒を入れておいたわけだが・・・。 「お待ちなされ」 この時、松子付きの老女で野村という者が、とっさに給仕の侍女たちを制し、 「姉君さまよりお先に御膳へおつきなされてはなりますまい」 とっさに進み出て、松子の膳部を春子の前へ置き直し、いまや春子の前へ据えられようとした膳部を自ら取って松子の前へ据えてしまった。
保科家の婚礼の仕度にしても、30万石と100万石との相違がどうしても出てくるのは仕方もないことだが、さらに、この縁談が前田家からの熱心な希望によるものだということもお万の嫉妬を煽った。 (おのれ!!そのままにはしておかぬ) では、どうするつもりなのか・・・。 お万は、婚礼を前にした松子を毒殺しようと決意したのだ。 ところで、正室と側室の娘同士は、しごく仲がよい。 「於松さまも、いよいよ御輿入れとあらば、これからはお目にかかるも心にまかせまい。ゆるりと別れを惜しみたいものじゃ」 と、いったのは上杉侯夫人の春子であった。 腹違いながら、可愛らしい10歳の妹が嫁入りするのである。むろん実際の夫婦生活が始まるのは数年先のことだが、それだけに微笑ましくもあり、いたましいような気もする。
この変死事件が、前述の前田家との婚礼に関係があるのだ。いまからみれば面白い事件だが、当時の正之にしてみれば、父親として、まことに悲痛な思いをしたに違いあるまい。 お万の方は側室から正夫人に直った幸運を掴みながら、いざ正室の座へ坐り込むと、他の側室に対する嫉妬が非常なものとなる。 側室の一人であるおしほの方の産んだ松子が前田家へ嫁入りすることになった時、 (おのれ、松子めが・・・) とお万は激怒したというのだ、それはなぜか・・・。 自分の娘春子が嫁入った先は、米沢30万石の上杉家なのだが、今度、松子が嫁ぐ先は加賀100万石の前田家である。 100万石と30万石の違い・・・これが、於万の無念を呼んだ。
それで正之は、菊子の死により、このお万の方を継室(後妻)としたのである。この他に正之は、おふき(尾張の浪人・沖某の女)、おしほ(牛田氏)、なつ(沢井氏)と3人の側室を持ち、前後14人の子女を産ませているというから、なかなか旺盛なものではないか(祖父家康譲りか?) 正之の後妻に直ったお万の方は、三男一女を産んでいるが、長男正頼は18歳で早世してしまい、二男正経は36歳まで生きて会津藩2代を継いだけれども、三男正純は20歳で病死してしまっている。 さらに、娘の春子は、上杉綱勝へ嫁入りしたのだが、思いもかけぬ事件に巻き込まれて変死することになった。 ◇ ◇ ◇ 大リーグ・マリナーズのイチローが不調で、残り10試合で27本打たないと、連続200安打の大リーグ記録は途切れる。絶望的だが、日米両国のファンのため、是非とも達成して欲しい。 来年は、マリナーズと松井のいるアスレチックスが日本で開幕戦を行う予定だと云う。そのためにもイチローの最後の頑張りを期待する。フレー、フレーイチロー!!
この松子は、正之の正室の子ではない。側室おしほの方が産んだ娘であった。この松子の前田家への嫁入りについては、さすがの正之が、 「わしとしたことが、このような不覚を・・・」 と、頭を抱えるような異変が起っている。寛文の七聖人などと謳われた保科正之も女性関係についてだけは、 「政事よりも骨が折れる」 と思わず、苦渋をもらしたそうな。 正之は寛永10年(1633)10月7日に、内藤政長の女・菊子を妻に迎えたが、この正夫人は結婚生活わずか4年で病没してしまった。 菊子は病身であったし、子も生まれず、従って夫婦生活も順調ではなかったものだから、正之は彼女が亡くなる前から、京の上賀茂の社家・藤木某の娘でお万の方というのを側室にしていた。 ◇ ◇ ◇ ギリシャに端を発した欧州の財政危機はアイルランド、ポルトガル、イタリア、スペインに飛び火し、アメリカ、日本を巻き込む世界同時不況の様相だ。日本は国家予算の10倍の900兆円という巨額な赤字を抱えるが、国債は国民が購入しているので、円はユーロ、ドルに対して強い。が、円高で国外へ脱出する企業があり、産業の空洞化を招く。不安は続く。
自分の後を継いで前田家4代の当主となるべき綱紀の将来を考えた利常は、 「自分はもはや老いて行末もおぼつかぬし・・・綱紀の頼むべき人物と手を結んでおきたい」 それで、保科正之と姻戚となることを強く望んだ。万治元年(1658)の春、前田利常は堂々と幕府を通じ、このことを保科家へ申し入れた。 正之これを聞くや、 「天下に侯伯多しといえども、前田家をもって日本第一とする。この領主にわが婿にすること、満足である」 一も二もなかったという。 この年の7月26日。正之の女(むすめ)松子(摩須姫)と前田綱紀との婚儀が執り行われた。新郎16歳、新婦10歳であった。
4代将軍家綱の補弼役となった保科正之は、幕府大老(のような存在)として幕閣の中核となったが、 「会津侯は、古今希なる賢君である」 と、前田利常は褒め讃えている。 利常は加賀藩の祖・前田利家の第四子に生まれ、年少の頃には豊臣秀吉に可愛がられたこともあるほどで、戦国の末期から徳川の天下統一が完成する時代の、激しい流れを泳ぎぬき、将軍と前田家との融和については、 「・・・かつて利常の態度につき、幕府の嫌悪するものあり。しかし適宜臨機の処置をもってその危機を脱せるのみならず、かえって幕府をして、公に信頼するの利をさとらしめ、遂に加賀藩を万代不易の泰さにおいた」 と、『利常略伝』に記されているように、政治家としてもスケールの大きい人物であった。
正之が、会津へ移ってから8年目の慶安4年(1651)に、将軍家光が死んだ。死に臨んで家光は、当時11歳の幼児に過ぎなかった(というが、少年だろう)4代将軍家綱の将来を案じ、大老酒井忠勝をはじめ、前田利常、松平光長など、自らが信頼する大名たちに、その補佐を頼んだが、ことに保科正之へ対しては、 「中将殿には、是非とも長生きしてもらわねばならぬ。長命のことを躬が命と思われたし」 と手を掴み、これを激しく打ちふり、涕涙して頼んだ。 長生きし、家綱の治世を助けてもらいたいというのである。徳川家光は将軍としても凡庸だといわれ、現代(昭和40年代)ではあまり評判も良くないが、それでも国政について、晩年には、これだけの責任を感じていた。 加賀・金沢百万石の大守で、これも名君の誉高い前田利常が、将軍家光を評して、こう云っている。 「家光公は知慮ある人で油断がならぬ。気を遣わねばならぬことが多いが、なれど余には、ことに懇ろで、かれこれと内密の相談もなされ、次代の将軍となるべき幼い家綱公の身の上にも、なにかとお頼みになる思し召しであったから、余も何か御用でも仰せ付けられたら、随分と精を出して努めたく思うておる」
この時も加増されて、計23万石となっている。会津藩主となってからの正之の治世については、くだくだしく述べるまでもあるまい。戦火絶えてより約30年、まだまだ諸大名の治世には武断の匂いが濃く、会津藩の先封・加藤氏の治世には、ことにそれが濃厚であって、前述の『千載之松』には、 「・・・先封仕置(政治)の様子、戦国の引き続きとはいうものの、多くは武断の事どもにて、道を正し沙汰せらるるにはあらず、ゆえに民俗質実にて道理のききわけも少なきようになりゆき(領民が頑迷だというのである)・・・正之公、入部以来、仁義をふみ、人倫の道に基づき、平易の筋をもって何事によらず順路に仰せつけられしゆえ、諸人段々に心服し、民心の非も次第に新たなり、風俗一変せしよし」 とある。この通りであろう。それは、今に残る数々の史料によって裏付けられているからだ。
正之は、これを聞いて、 「奇特なことではないか。兄弟、死を決して親の命を救い、わが家を守るというは、命をかけて国事に働くも同様のことである。なんとなれば、世には親子兄弟が営む家庭(いえ)があり、この家々の集積が国となり、国の力となるからじゃ」 と、傍の小姓某をかえり見て、 「人の子が母の腹より出ずる仕組みがなくならぬ以上、いま申したことがなくなってはならぬのじゃ、よう覚えておけよ」 と、にっこり笑いかけて云った。 この浪人兄弟の父は病癒えて後、正之に召し抱えられたそうである。正之が最上から会津・若松へ転封したのは、慶長20年(1643)7月であった。 ◇ ◇ ◇ 9日から鶴ヶ城天守閣で、「保科正之公生誕400年企画展」が始まっている。国指定の重文「太刀吉房」や「保科正之画像」(福島県指定重文)などが展示されている。10月25日まで。
「これでは父母の孝養がとどかず、子として忍び得ないではないか」 兄弟は相談し、決意、遂に兄の方がキリシタン宗の者となったことにして、弟がこれを訴え出たものである。 禁制が厳しいキリシタン信者を訴人すれば、公儀から褒美の金が出る。その金で父母の医薬を整えようという苦肉の策だ。無論、キリシタン信者ともなれば時が時だけに死罪を覚悟せねばならぬ。 ところが、奉行所で詳しく調べてみると、キリシタン信者でも何でもないことが分り、 「けしからぬ奴!!」 と、いうことになった。 ◇ ◇ ◇ 今日は仲秋の名月、真ん丸い月が拝めそうだ。ススキに月見団子を供えた子供の頃の風習も絶えた。季節のうつろいも何となく感じなくなっているが、マンション前の公園で蝉の声がゆく夏を惜しむように、かまびすしい。わが家の特権だろう。せめて蝉の鳴き声で我慢するか。
しかし、正之は、 「西国に事ある時は、東国・奥州を事なからしめねばならぬ。余を最上へ移さしむるも、奥州筋押さえのためとの思し召しであるから、誠に名誉なことだ」 といった。 こうした正之の態度は、幕府や将軍に好感と信頼を与えずにはおかなかったろう。キリシタンといえば、こんな挿話も残されている。 武田の浪人で梶原某という兄弟がいて、これが貧窮のあまり、重病の親に与える薬を買うことが出来なくなった。 ◇ ◇ ◇ 今日で東日本大震災から半年、蜂呂経産相が辞任した。身元不明の遺体1100人、避難者8万人超、原発は収束せず、放射能をまき散らす。こうした中で「原発周辺は死の町」発言、呆れて物が言えない。「自衛隊は暴力装置」と国会で答弁した仙石官房長官(当時)、共に元社会党員だ。現実と乖離した発言に驚くばかり。万年野党だった癖が抜けないのだろう。
間もなく、3代将軍家光から、 「幕府政治に参加して、躬(み)を補けるように・・・」 と、正式に命が下った。 初代将軍家康の孫にあたる保科正之であり、現将軍の異母弟という背景をももち、記録にはあまり載っていないけれども、最上へ移ってからの正之の政治家としての実力が大きく買われたことも事実であろう。 こんな話がある。 正之が最上へ移封される直前に、島原の乱が起った。いうまでもなくキリシタンの蜂起であって、徳川の天下となって以来、初めての内乱が起ったわけだ。 この時、保科家の者は、 「殿は将軍家御名代として御出陣なさるであろう」 勇躍して下命を待ちうけていると、意外にも奥州への国替えを命ぜられたものだから、一同、大いに落胆し、 「殿も、さぞかし御不満であろう」 などと噂し合った。
さらに・・・。 この翌年寛永14年(1637)になると、正之は養父・保科正光の実弟正貞へ、保科家累代の宝物(徳川家康からの太刀、感状)その他を譲り渡し、信州の保科家とは別に独立することになった。 こうしたことは、既に正之が養子に入る頃から段取りがついていたものであろう。 保科正貞は、大坂戦役の頃にも武勇の誉が高かった人物で、当時は大番頭を努めて3千石、後に1万7千石の大身旗本に昇格している(これは誤りで2万石の大名)。 正之の保科家は3代目の正容の時代になって松平氏が許され(とあるが、家光は正之に松平を名乗るよう命じたが、正之は養父正光の恩に報いるため、保科を名乗った)、以後は、会津藩主・松平肥後守となり、徳川幕府枢要の大名として存続し、明治時代に至るわけだ。
大名の国替えというものは大変な苦労を伴うもので、正之は、自分が新しく計画した検地に反対する白岩郡の農民一揆を弾圧し、30余人を磔にするという、断固とした処置も行っている。 しかも、この白岩郡は幕府の領地(天領)であった。それなのに、幕府へは無断で、この処置を断行したのだが、将軍のお咎めも受けなかった。温厚な正之にしては珍しいことだが、 「やむを得ぬ」 という決意と、 「公儀へ諮る必要なし」 という自信とが、正之をして断行せしめたものであろう。 幕府に対する正之の位置というものが、これほどの大きさを備えるに至ったことを見るべきである。
高遠藩主となって5年目に、保科正之は最上(山形)へ国替えを命ぜられたが、この時、17万石の加増を受け、計20万石の大守となった。 幕府が正之をして東北地方(ではなくて奥州)の押さえになそうとする意向が看守される。 最上は、もと鳥井忠常が領主でいた所だが、忠常には子がなかったため、お家断絶となり、その代わりに忠常の弟の鳥井忠春をもって高遠3万石の主たらしめたのである。 こうして26歳になった正之は、初めて風俗人情も全く異なる他国へ移り、しかも7倍ほどの大世帯となった保科家の当主として新しい領国の経営にあたることになった。 ◇ ◇ ◇ 台風12号は、今日は北海道で、また悪さをしている。札幌などで川が氾濫している。どこまで、わが国を虐めれば気が済むのか。 こんな中にあって、千葉県だけは、被害ゼロ。歴史文化はないが、気候だけには恵まれている。そんなもんか!
時に、元和3年(1617)で、正之は7歳になったばかりだが、これまで見性院の熱心な扶育によって受けた影響は大きかった。 後年、正之は、 「見性院様なくしては、今日の自分はあり得ない」 と、いっている。 既に豊臣家は滅びて、天下は名実共に徳川幕府の統括するところとなり、戦時体制(武断)政治は少しづつ法制(文治)政治への歩みを進め始めている。 寛永8年(1631)、21歳になった正之は、義父正光の死去の後をおそい、高遠3万石の領主となった。実父の秀忠は既に将軍位を家光に譲り渡していたが、 「将来は、将軍のよき補佐役となるように」 との意向を、既に明確にしていたようだ。秀忠は、正之が保科家の当主となった翌年に没した。 ◇ ◇ ◇ 台風12号は紀伊半島を襲い、犠牲者が80人を越す災害となった。野田政権の初仕事は災害対策となった。「若さ」で体当たりし、乗り越えろ。今年を「一字」で振り返ると(まだ早いが)、「災」だろうな。
もしも、家康の子であったとしたら、利勝もまたいうにいわれぬ「暗黒」を切り抜けて世に生まれ出たに違いない。それでなくては出生を秘密にしておくわけがない。 もしも、彼が家康の子なら・・・。 そのことをもう一度考える時、土井利勝が保科正之の誕生に力強い応援を送ったことが何となく、うなづけるような気がするではないか。 正之は利勝の庇護を受けて生まれ、そして成長していった。そして正之は武田信玄の女(むすめ)で穴山梅雪夫人となった見性院の養子となり、やがて信濃・高遠二万五千石の城主・保科正光の養子になる。 ◇ ◇ ◇ 昨日誕生した野田佳彦内閣が国民65%の支持を受けている。鳩山、管の二代内閣で壊れた日米関係、普天間飛行場移転問題や福島原発事故の収束など、当面の課題は大きい。メチャメチャな民主党政権に国民はラストチャンスを与えたのだ。 しかし、内閣の顔ぶれは「軽い」。筆者も知らない人間が6人もいる。中で外相の玄葉光一郎の妻は縁続きの女性だ。父親の佐藤栄佐久前福島県知事とは戸籍上は又従兄弟である。身内意識からいえば、日米関係を再構築して欲しい。
これで将軍自身が「わが子である」との認知をしたわけであるから、さすがの於江夫人もこれを認めないわけにはゆかなかったが、後で夫秀忠を随分虐めたことであろう。 正之誕生については土井利勝が好意を寄せ、種々取り計らったことが何よりも物をいったとみてよい。 ところで・・・。 土井利勝の家系は謎とされている。利勝の父、利昌から家系が始まっていて、利勝は少年の頃から徳川家康の小姓として仕え、秀忠が生まれるやこれに属し、19歳の時に千石の禄を食(は)むに至ったという、若い頃の彼には、それほどの簡略な履歴しか伝わっていない。 また、彼は徳川家康の落とし胤だともいわれている。兎に角、二代将軍の補佐役として 「大炊頭なくしては世も日もあけぬ」 と、謳われたほどの威望をもつに至った土井利勝であるだけに、その出生の秘密には、興味をそそられる。
神尾才兵衛と竹村次俊の発言がなかったら、保科正之の生命は闇から闇へ葬られ去ったであろう。 ここへ、さらに強力な味方が現れた。老中として将軍を補佐し、幕閣における権勢も強大な土井大炊頭(おおいのかみ)利勝が、 「案ぜられるな。わしが引き受けた」 と秘かに応援をしてくれることになったのだ。 かくて、慶長16年(1611)5月7日の夜の10時過ぎに、お静の方は男子を産み落とした。土井利勝が指示を与えていたので、すぐさま竹村次俊が町奉行の米津勘兵衛へ知らせ、米津から土井老中へ報告がゆく。 「よろしい」 引き受けた土井利勝が、翌朝、秀忠に目通りしてすべてを告げ、 「御覚えのござりましょうやに」 と確かめると、秀忠は苦笑しつつ、 「ある」 頷き、その場で将軍は手づから「御召料御紋の御小袖を下され候」ということになった。
けれども・・・。 お静の方が、正之を妊った時には、 「いかに、それぞれの身が大事なればとて、正しき天下の御子さまなるを二度までも水(人工的流産)になし奉りては天罰もおそろしき儀ではござらぬか」 と、言い出した者がある。お静の実弟・神尾才兵衛だ。 「たとえ御台様よりお咎めを蒙り、一家一門が幡物(はたものーはりつけ)になろうとも是非に及ばぬ。それがしは、ただもう、いかにもして育てあげ奉りたい」 熱誠を込め親類列座の中で言い放った。相談が流産へ傾いていたところへ、この発言があって、 「よし、わしも手伝うよ」 と、お静の姉婿にあたる竹村次俊が賛意を表わしたので、遂に、親類一同も決意をし、お静に子を倦ませることとなり、竹村次俊は奔走して神田白銀町にある四条某の屋敷を借り受け、ここに、お静の方を引き取り、産前の静養をさせることになった。