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2013年10月31日(木) |
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箱館戦争(59) |
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しかし、歳三以外の戦線は壊滅、総退却の現状にあり、五稜郭本営の榎本は、遂に戦線を縮小して、亀田の五稜郭と函館市街の防衛だけに作戦を局限しようとした。
(榎本は降伏する気だな)
と歳三が直感したのはこの時である。
なぜなら、二股放棄ーを勧告にきた伝令将校に生気がなかったからだ。
(ここでは勝っている)
と、歳三は動かなかった。
が、伝令将校の口から驚くべき戦況がもたらされた。 |
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2013年10月30日(水) |
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箱館戦争(58) |
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旗手には、とくに日章旗は持たさず、緋羅紗の地に「誠」の文字を染め抜いた新選組の旗を持たせた。
「新政府軍には鬼門すじの旗だ」
と、200人の先頭に立って路上に飛び出し、銃隊に援護させつつ、十町にわたる長距離突撃をやってのけた。
激突した。歳三は斬りまくった。頃合いを見はからって抜刀隊を両側の崖に伏せさせる。そこへ銃隊が進出して撃ちまくる。さらに抜刀隊が駆けこむ。
それを十数度繰り返すうちに、新政府軍はたまらず潰走し始めた。すかさず歳三は、山上待機の本隊に総攻撃を命じ、
「一兵も余すな」
と突進した。
新政府軍は大半が斃れ、長州出身の軍監駒井政五郎は、この時、戦死した。 |
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2013年10月29日(火) |
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箱館戦争(57) |
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歳三の二股陣地に各地の敗報が続々届いていた。17日松前城が陥落、22日には、大鳥圭介が守る木古内陣地(箱館湾まで海岸線7里の地点)が陥ち、このため新政府軍艦隊は直接、箱館港を攻撃する態勢をとり始めた。
もはや前線で日章旗が上がっているのは、歳三の陣地だけとなった。新政府軍は、各地の陣地を掃蕩して大軍を二股の麓に集め、いよいよ4月23日をもって猛攻撃を開始した。
「来やがったか」
歳三は、京にいた頃、「役者のようだ」といわれた厚ぼったい二重瞼の眼を細く光らせた。
激闘は3昼夜にわたった。新政府軍は10数度にわたって撃退されたが、なおも攻撃を繰り返してくる。
遂に歳三は、剣術精錬の者200人を選んで抜刀隊を組織し、自ら突撃隊長になった。 |
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2013年10月28日(月) |
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箱館戦争(56) |
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新政府軍の現地司令官は、しきりに東京へ援軍を乞うた。歳三らのすさまじい戦いぶりについて、手紙には、窮鼠必死の防戦とか、余程狡猾、何分練磨などという極端な表現が使われており、薩摩出身の参謀黒田了介(清隆)は、自軍の弱さを嘆き、
「この軍では、勝つのは難しい。薩摩兵と長州兵のみが強い。他の藩兵は賊より数段落ちる。嘆息の限りである。願わくは、後策(増援)望み奉る次第である」
と東京へ書き送っている。
これに応え、援軍の陸軍部隊が16日になって松前に上陸し、さらに、艦隊の沿岸砲撃が予想以上に奏功し始めてから、形勢が一変した。 |
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2013年10月27日(日) |
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箱館戦争(55) |
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司令部の幕舎の中には、フランス人の軍事教師ホルタンも同居している。陣中、歳三がしきりに俳句を書きつけていると、ひどく珍しがって、それは何か、と尋ねた。
「ハイカイだよ」
歳三はぶっきらぼうに答えると、フランス語が少しわかる吉沢大二郎という歩兵頭が通訳した。
「シノビリカいずこで見ても蝦夷の月」
そう句帳にある。シノビリカとは、歳三がこの地に来て覚えた唯一のアイヌ語である。「ひどく佳い」という意味らしい。
「閣下は芸術家(アルテイスト)か」
と、このフランス陸軍下士官は、妙な顔をした。
歳三は、喧嘩そのものが目標で喧嘩している。そういう純粋な動機でこの蝦夷地へ来ている。どうみても榎本軍幹部の中では「奇妙な人物」だった。
二股の攻防戦で、歳三はほとんど芸術的興奮で、この戦を創造した。血と刀と弾薬が、歳三の芸術の材料であった。 |
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2013年10月26日(土) |
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箱館戦争(54) |
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歳三の身辺に新選組隊士はいない。諸隊の隊長などにしているため、数人しかいない。二股陣地では、洋式訓練兵ばかりだった。
五稜郭の本営から、榎本の伝令将校が毎日のように来る。榎本は戦況が心配らしい。
「大丈夫だよ」
としか、歳三も言わない。何度目かに歳三は、
「馬のわらじを損じるだけだ。戦況に変化があれば、こちらから報せる。薩長は天下をとったが、二股だけはとれぬ、といっておいてくれ」
と。珍しく広言を吐いた。
◇ ◇ ◇
アメリカがフランスのオランド大統領、ドイツのメルケル首相ら世界の友好国35人の携帯電話を盗聴していたーとのニュースが世界を駆け巡っている。友好国の信頼度はガタ落ちだろう。
幸いというか、やはり、というか、安倍首相の携帯は無事だという。ということは、日本は盗聴の対象にもならない存在なのか?ポチか?
盗聴といえば、成田闘争激しかった頃、反対派幹部の電話は盗聴されていたーのは本当だったらしい。つまり警察組織が自民党政府と一体になって空港建設の先頭に立っていたからだ。 |
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2013年10月25日(金) |
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箱館戦争(53) |
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歳三の一軍が蟠踞している「二股」という峠は、箱館湾の背後の山嶺郡の一つで、箱館市内から10里。日本海岸江差から箱館へ入る間道が走っており、箱館港を背後から衝こうとする新政府軍は当然、ここを通らねばならなかった。
二股は、今、中山峠とか鶉越えという名で呼ばれている。峠道は北方の袴腰山と南の桂岳との間を走っており、歳三の当時は、馬が1頭、やっと通れる程度の狭さだった。
歳三は、「天嶮」ともいえるこの道の上に、最近箱館の外国商館から買い入れた西洋式司令部の天幕を張り、部下にも携帯天幕を張らせて野営させた。 |
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2013年10月24日(木) |
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箱館戦争(52) |
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歳三は箱館政府軍における唯一の常勝将軍だった。この男が、わずか1個大隊で守っていた二股の嶮は、10数日にわたって微塵もゆるがず、押し寄せる新政府軍はことごとく撃退された。
歳三の生涯で最も楽しい期間の一つだったに違いない。兵も、この喧嘩師の下で嬉々として働いた。
一日一銃で1000余発を射撃したお調子者もあり、そういう男どもの顔は、煙硝のかすで真っ黒になった。銃身が焼けて装填装置が動かなくなった。熱くて手に火傷を負い、皮が破れた。
歳三は、麓から水桶を百ばかり運ばせて、銃を水につけては、撃たせた。
「弾はいくらでもある。撃って撃って撃ちまくれ」
と、陣地陣地を廻って激励した。 |
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2013年10月23日(水) |
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箱館戦争(51) |
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この戦闘で、歳三の隊が撃った小銃弾は3万5千発。戦闘時間は、16時間に及んだ。それ以前の日本戦史にかつてない記録的な長時間戦闘になった。
朝6時、敵はようやく崩れた。
「隊長旗を振れ!」
歳三は、全軍突撃の合図をし、旗手に隊長旗を担がせて、崖の上から一気に滑り落ちた。
剣を抜いた。たちまち白兵戦になり、5分ばかりで敵はさらに崩れ、下り坂を転ぶようにして逃げ始めた。
その敵を1里あまり追撃し、、ほとんど全滅に近い打撃を与え、銃器、弾薬多数を奪った。
対して、味方の損害は、戦死わずかに一人という驚くべき勝利であった。
数日後、新政府軍参謀から内地の軍務官に急報した文面では、
「何分、敵は百戦錬磨の士が多く、奥州での敵の比ではない。とても急速な成功は難しい。急ぎ救援を頼む」
という内容だった。 |
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2013年10月22日(火) |
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箱館戦争(50) |
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「来るぞ」
歳三は、眼を細めて眼鏡をのぞいている。上には、16か所に胸壁を築いて、隊士が銃を撫しながら待った。
ついに来た。
歳三は、射撃命令を下した。すさまじい小銃戦が始まった。歳三は、第1胸壁にいて、紅白の隊長旗をたかだかとひるがえしている。
ー土方さんがいる限り勝つ。
という信仰が箱館軍のなかにあった。「ラストサムライ」にかけていたのだ。
隊長旗は3度、銃弾に撃ちたおされたが、3度とも、歳三がすぐに新たに立てさせた。
戦闘は夜陰におよんでもやまず、ついに払暁を迎えたが、さらに激しく銃戦が続いた。 |
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2013年10月21日(月) |
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箱館戦争(49) |
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二つの陣地には、いずれも少数の兵士を配置しただけであった。
「敵が来れば、小当たりに当たって、じりじりと逃げろ。相手の行軍が伸びきったところで、本陣の二股口からどっと兵を繰り出して殲滅する」
4月12日、昼の3時ごろ、新政府軍(薩、長,備前福山らの兵)600が、歳三の最前線の中二股に現れた。
山上の歳三の本陣まで、さかんな銃声が聞こえてきたが、やがて味方は予定に通り、退却し始めた。中軍陣地も敵と衝突して、退却。
◇ ◇ ◇
昨夜の「八重の桜」は八重たちが故郷会津へ帰るシーン。山本家の屋敷跡地がクローズアップされた。この屋敷跡地に現在住んでいるのは、生涯学習グループ「会津アカデミー」代表の星京さんだ、
ご本人は最近まで知らなかったが、郷土史家の調べて判明して以来、観光ボランティアとして、看板を立てたり、観光客に説明したりと大活躍。3日ほど前、室井照平市長から感謝状が贈られた。
昨夜、電話したら、「山本家の跡地に住んでいるのは名誉なこと」と感激した様子。星さんらは平成20年9月に学習の一環として富津市を訪れ、小生の案内で会津藩士が眠る4ヵ寺を墓参してくれた。
星さんは、2歳下の我が妹が若松市立2中時代、体操の教師として世話になった。会津の縁は深く、長いのである。 |
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2013年10月20日(日) |
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箱館戦争(48) |
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早速、分散兵力の集中化が行われた。数日で完全集中化が終わり、歳三と大鳥は、それぞれ兵500名を引き連れて別路、進発した。
大鳥は木古内へ。
歳三は二股口へ。
その間、松前守備隊は、心形一刀流宗家の旧幕臣伊庭八郎らを隊長として新政府軍が占領中の江差に向かい、新政府軍本隊と遭遇してこれを撃破し、分捕った敵の兵器は、4ポンド施条砲3門、小銃、刀槍、弾薬など多数に上った。
歳三は、二股口の嶮によって、敵の進撃してくるのを待った。
「新政府軍を釣ってやろう」
歳三は、一種の縦深陣地を作った。最前線を中二股におき、下二股を中軍陣地とした。 |
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2013年10月19日(土) |
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箱館戦争(47) |
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五稜郭へ戻った歳三は、榎本、松平、大鳥から戦況を聞いた。
「江差は落ちた」
大鳥が言った。無理はなかった。乙部に上陸した新政府軍は2000人で30人の守備隊は瞬く間につぶれた。
3里向こうの江差には、250人で砲台を守っている。これを新政府軍艦隊が艦砲射撃でつぶした。
「わが兵は総勢3000人を超えぬ。防御軍は攻撃軍よりも数倍の兵力が必要だというが、これでは、全島の防衛ができるかどうか」
榎本が沈痛な表情でいった。
なにしろ、兵力が少ない上に、守備隊を分散させ過ぎている。五稜郭の本陣に800人、箱館300人、松前400人、福島150人、室蘭250人など、その他10か所に数十人ずつを配置していた。
「まず、兵力を集結して、上陸軍の主力に痛打を与えることですな」
と、歳三は云った。 |
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2013年10月18日(金) |
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箱館戦争(46) |
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その日、新政府軍艦隊は上陸部隊を満載して青森を出航し、蝦夷地へ向かった。旗艦は甲鉄艦で、2番艦は春日、以下陽春、第一丁卯、飛龍、豊安、晨風(しんぷう)。陸軍は長州兵を主力とし、弘前、福山、松前、大野、徳山の各藩の藩兵だ。
艦隊が江差の沖合に現れたころ、歳三は箱館を見下ろす楼閣にいた。既に新政府軍は箱館から15里離れた乙部という漁村に敵前上陸し、付近に駐屯していた箱館軍30人を撃退して、進撃態勢を整えつつあった。
その急報が五稜郭と箱館に届き、港内の軍艦には、しかるべき信号旗が揚がっていた。
間もなく、信号が上がった。箱館市内に居住する外国人に対し、避難を要望する信号であった。 |
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2013年10月17日(木) |
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閑話 |
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明暗3題ーまず明るい話題から。母校・会津高校同窓会報43号に「後輩諸君の救援求む」と題する原稿を掲載した。反響は?と期待したら、会津若松市融通時町の呉服店主笹内君が顕彰会に入会してくれた。会津高校ー慶應の後輩で、娘さんが千葉市稲毛区に住んでいて、新聞連載など、小生の一連の活動を知ってはいたとか。有難い。
『会津人群像』22号で、明治23年当時の若松町に住んでいた旧会津藩士の氏名894名を掲載したが、会津若松市の読者から「うちの先祖は100石取りの藩士だったが、載っていない」と指摘を受けた。原簿を調べたら、なんと「平民」だった。斗南に挙藩流刑され、戻った時に誤記されたーらしく、群像24号で続報を掲載した。
暗は、群像24号で発表した会津藩士の蝦夷地移住の序章で、鶴ヶ城開城の際、西軍の代表、軍曹山県小太郎に(後の山県有朋)と加筆したが、明らかにミスだった。鬼の首をとったかのような指摘を神奈川県相模原市の読者から受け、次号で訂正することに。以後、注意を払って原稿を書くつもりだ。 |
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2013年10月16日(水) |
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箱館戦争(45) |
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艦長の甲賀は、なおも艦橋で頑張っていた。足元には、士官連絡兵の死体がころがり、靴が床の上の血ですべるほどだった。
遂に、一弾が甲賀の左股を貫いた。甲賀は支柱につかまって起き上がった。さらに、その右腕を吹っ飛ばした。甲賀は倒れながら連絡兵に
「後退の汽笛を」
と命じた時、小銃弾が首を貫き、甲賀は絶命した。
汽笛が鳴った。甲鉄艦の上では、すでに立ち働いているのは、歳三のほか、2,3人しかいなかった。転がっている敵味方の死傷者で、甲板上は、文字通り、屍山血河という惨状を呈していた。
「引きあげろ」
歳三は生き残りをロープの側に集め、それぞれ昇らせた。最後に歳三がつかまった。敵の銃兵数人が躍進しながら迫ってきた。歳三は、剣を鞘に納めた。
「やめた。そのほうらも、やめろ」
とどなった。敵は撃ってこなかった。
歳三が回天に戻った時、艦は甲鉄艦を離れた。春日が回転を追ってきたが、速力の速い回天には追いつくことはできなかった。回天は3月26日、箱館に帰港した。 |
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2013年10月15日(火) |
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箱館戦争(44) |
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こちら、新政府軍の艦隊で、いち早く戦闘準備についたのは、薩艦「春日」だけであった。春日は、ひとつ運がついていた。どの艦も味方の甲鉄艦が邪魔になって砲の射撃ができなかったが、春日だけが、わずかに回天を撃てる射角をもっていた。
春日の艦載砲の中でも、左舷一番砲を受け持つ3等士官東郷平八郎だけが、回天を撃つことができた。
春日が射撃を始めた。2弾が回天に命中、甲板上の建造物や人員を吹っ飛ばした。他の艦船も錨を上げ、汽缶に火を入れ、エンジンのかかるのを待っていた。
回天も座して見ているわけではない。四方八方に艦砲を轟発し。戊申丸、飛龍丸に被害を与えた。戊辰、飛龍の2隻には、陸兵が満載され、彼らは数百丁の小銃を並べて回天に向かって乱射した。 |
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2013年10月14日(月) |
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箱館戦争(43) |
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回天の舷側の砲群を、轟発させた。ぐわあん、ぐわあん、と10発、甲鉄艦の横っ腹に打ちこんだ。が、虚しかった。たどんを投げたように、鉄板にあたって徒に弾が砕けるだけだった。
そのたびに歳三は衝撃で何度も転んだ。3度目に起き上がろうとした時、頭上を数十発の銃弾が飛びすぎていった。
回天の全員が畏れていた敵のガトリング銃がすさまじい連続音をまき散らしながら稼働し始めたのだ。
敵弾が歳三の前後左右に爆発し始めた。回天艦上から投げつける味方の擲弾(てきだん)もあり、爆煙の中で、歳三は夢中で人を斬った。 |
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2013年10月13日(日) |
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箱館戦争(42) |
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歳三は飛び起きるなり、小銃を逆手に持って打ちかかってきた敵兵の胴を真っ二つに斬り上げて斃した。
周りでは、マストの下で新選組の野村利三郎が5,6人に囲まれて苦戦していた。歳三は長靴をガタガタいわせて大股で駆け寄り、背後から一人を袈裟懸けで倒し、狼狽する敵兵二人を斬り倒した。
野村は苦しい息遣いで、
「鉄砲玉です」
と応えた。其の時、被弾が野村の頭を撃ち抜き、どっと歳三の上におりかぶさった。
一番乗りした大塚波次郎は、全身、蜂の巣のように撃ち抜かれて倒れている。甲板上では、襲撃隊10人が戦っており、敵の白刃と戦うより、銃弾に追われていた。
(喧嘩は負けだ。引き揚げるか)
歳三が兵をまとめようとした時、回天艦橋の甲賀艦長は、なおもあきらめなかった。 |
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2013年10月12日(土) |
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箱館戦争(41) |
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かなりの人数が飛び下りたが、雨だれ式で落ちてくるため、甲鉄艦の方では、防戦しやすかった。それぞれ、甲板上の建造物の陰に隠れて小銃を乱射し、さらに白刃を抜連れて一人ずつ降りてくる襲撃兵を取り囲み、すさまじい白兵戦を展開した。
(いかんー)
と歳三は思った。歳三は箱館政府の陸軍大臣だが、意を決して士卒に交じって斬りこもうとした。
「皆、綱渡りはやめろ。飛び下りろ」
と、自ら白刃を振りかぶって1丈下の敵甲板上へ飛び下りた。
◇ ◇ ◇
今年の三浦半島会津藩士顕彰会主催の会津藩士慰霊祭は11月2日、横須賀市鴨居の西徳寺で行われる。ドライバーの手当てが済んで、今年は参加できることに。
席上、「會」の旗を顕彰会にプレゼントする。同時に、最後の会津藩主松平容保が書いた和歌や刀を所蔵している鹿目さん宅も訪れたい。
明治になって、容保が浦賀を訪れた時の歌という。鹿目さんは、このブログの読者であるらしく、「たまに覗いています」とおっしゃった。うれしい! |
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2013年10月11日(金) |
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箱館戦争(40) |
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「やるかー」
歳三は振り向いて微笑した。甲賀はうなずき、白刃を振るった。それが、歳三が甲賀源吾を見た最後であった。
艦首からロープを下ろした。
「飛び込め!」
と、歳三は剣を振るった。
ーお先に
と、歳三の脇を駆けすぎていった海軍士官がいた。測量士官の旧幕臣大塚波次郎である。次いで、新選組の野村利三郎、3番目は彰義隊の笠間金八郎、4番目は同加藤作太郎。
さらに、新選組が5人、彰義隊、神木隊といった順で飛び下りた。
◇ ◇ ◇
福島県歴史博物館(会津若松市)の名誉館長、東北大名誉教授の高橋富雄さんが、さる5日、92歳で亡くなった。初代館長で、東北地方の歴史に精通し、講座では何度かお邪魔した。蒲生氏郷が会津へ「飛ばされた時」秀吉は氏郷の力を密に畏れていたーという話を聞いて、納得したのを思い出す。
懐かしい方々が去ってゆく。寂しい。 |
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2013年10月10日(木) |
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箱館戦争(39) |
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回天は、接舷すべく運動を続けている。甲鉄艦に並行して「リ」の字の形になろうとするのだが、回天の舵には右転のききにくい癖があり、どうしてもうまくいかない。
ぐわぁんー
という衝撃が全艦に伝わった。回天の舳先が甲鉄艦の左舷に乗り上げていた。「イ」の字型になっていた。甲鉄艦へ飛び込もうとすると、1丈の高さを飛び下りなければいけない。
(無理だ)
歳三はひるんだ。
艦橋では、甲賀艦長が、やはり唇をかんでいた。が、思案しても仕方がない。
「土方さん、やろう。接舷襲撃」
と艦橋からどなりおろした。 |
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2013年10月09日(水) |
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箱館戦争(38) |
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回天のマストの楼座には、士官の新宮勇が勤務に就き、湾内の甲鉄艦を探していた。
「甲鉄艦あり!」
と、新宮が叫んだ時、全員が配置についた。襲撃隊は舷の内側に身を隠しつつ、それぞれ刀を抜き放った。
歳三は、艦の舳先にいた。甲鉄艦を見て、「すごい」と感じた。マストは2本、煙突は1本、艦の前後に旋回式の砲塔があり、前の砲は回天の主砲の4倍もある300ポンド砲だ。
いよいよ近づいた。甲賀館長は
「旭日旗を上げよ」
と命じた。
新政府軍艦隊は白昼に化け物をみたように驚愕した。甲鉄艦では、甲板を走るもの、出入り口に逃げ込むもの。狼狽はみじめだった。 |
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2013年10月08日(火) |
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箱館戦争(37) |
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その頃、戊辰丸では、哨兵が、
「右手に、米国軍艦あり」
と、当直士官に報告した。が、誰も驚かない。
旗のせいばかりではない。回天の艦姿が、新政府軍海軍の記憶にあるそれとは少し変化していたからだ。
回天といえば、たれしもが「3本マスト、2本煙突」と、記憶していた。しかし、昨年、品川沖を脱出して北走の途中、犬吠埼沖で暴風に遭い、2本のマストと1本の煙突を失っていたのだ。
いま、眼前にある回天は、1本マストに1本煙突の異様な艦型であった。米国軍艦と信じ込んだのも無理はなかった。 |
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2013年10月07日(月) |
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箱館戦争(36) |
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やがて闇の海面が濃蘭色に変じ、さっと光が走って、東の水平線に明治2年(1869)3月25日の陽が、空を真っ赤に染めながら昇り始めた。
目の前に三陸の断崖、山並みが起伏している。
(きたな)
と、歳三は小姓市村鉄之助を振り向き、
「皆、甲板へ出ろ、と云え」
歳三も甲板へ降りた。襲撃隊が続々甲板へ出てきた。皆、右肩に白布を付けている。敵味方を識別するためだ。
一方、艦船8隻からなる新政府軍艦隊は、すでに起床時間が過ぎていたが、各艦とも、甲板にいる人数はちらほらしかいなかった。
回天は宮古湾の奥へ進んでいる。目の前に1艦がいた。錨を下ろして沈黙している。
「戊申丸です。陸兵を乗せる運搬船です」
見習士官が教えた。 |
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2013年10月06日(日) |
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箱館戦争(35) |
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回天の艦橋に歳三がいる。チョッキから時計を出し、夜明けまで30分を、確認した。甲板には興奮を抑えきれぬ様子で兵士らがぞろぞろ出てきた。
「霧で体が濡れれば、いざという時に手足が動かなくなる。船室で待機せよ」
と、追い立てるように甲板下へ逆戻りさせた。
マストに星条旗が上がり始めた。宮古湾に入るまでは米国軍艦に偽装することになっていた。卑怯でもなんでもない。敵地に侵入するまでは外国旗を掲げ、いよいよ戦闘、という時に自国旗を掲げるのが、欧州の慣例のようになっていた。
◇ ◇ ◇
わが房総半島会津藩士顕彰会も設立後、7年が経過した。この間、年間会費2000円を未納の会員20名ほどを除名した。その後、会の活動を小生のブログなどで知った方が新たに参加してくれた。会津藩の支藩飯野藩士の子孫も連絡が取れた。
活動の広がりを求めて、母校会津高校の同窓会報43号に寄稿した。新聞連載(千葉日報と福島民友)から会の立ち上げー慰霊祭と経過をのべて「後輩諸君の救援を求める」と題する一文である。
会津藩の貴重な史実を後世に伝えるため、是非とも後輩の協力が欲しいのだが〜 |
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2013年10月05日(土) |
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箱館戦争(34) |
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一方、軍艦回天は、闇の洋上で、刺客のように潜んでいる。艦長甲賀源吾は、すべての砲に砲弾を装填させた。
歳三は、陸兵、乗組員を真っ暗闇の後甲板に集め、繰り返し接舷襲撃の方法を説明した。
「敵甲板へは一斉に躍り込む。ばらばらに飛び込んでは討ち取られるだけだ」
甲鉄艦には、ガットリング砲(野戦速射砲)という新兵器が積んである。六つの砲口から1分間に180発の銃弾が飛び出す新型兵器だ。
「これを抑えれば、こちらの勝ちだ」
と歳三は云った。
回天は闇の中で錨を上げ、機関を低速運転し、襲撃すべき宮古湾に向かって洋上をすべりは始めた。 |
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2013年10月04日(金) |
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箱館戦争(33) |
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間もなく、石井海軍参謀と中島艦長が戻ってきた。黒田は艦長室にあった2升入りの大徳利を呑み終えていた。黒田は酔っており、
「海軍ちゅうのは、斥候(ものみ)をせんのか」
と云った。
中島は長州人であり、陸海対立だけでなく、薩摩人に対して抜きがたい憎しみもある。
「時には出すが、しかし、この艦の加賀谷大三郎に火事じゃと申されたそうだが、火事はどこにある」
「火事どころか、敵艦が鮫村まで来ちょるこつを知っちょるか」
「黒田さん、ここは南部領だ。先頃まで奥州連盟に加わっていた藩だけに、虚報はそからから流れたのであろう」
黒田は、椅子を蹴って立ち上がったが、なにぶん、酔っていたので陸海軍の話し合いはここで決裂した。 |
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2013年10月03日(木) |
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箱館戦争(32) |
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石井というのは、肥前佐賀藩士石井富之助。艦隊参謀の職にあった。甲鉄艦の艦長は長州藩士中島四郎、乗員士官は主に肥前佐賀藩士で、それに宇和島などの他藩士も交じっており、いわば雑軍で、士風もゆるんでいる。それが陸軍の黒田の癇にさわった。
「石井、中島を呼んで来い」
「陸軍参謀が御命令なさるのですか」
と肥前なまりの若い3等士官がむっとした。
「お前の名前は?」
「肥前佐賀藩士加賀谷大三郎です。甲鉄艦の3等士官です」
「俺(おい)は黒田じゃ。ここに家がある。水を持て来い、といった。それが命令か?命令じゃあるまい。早う、石井、中島を呼んで来い」
云うだけ言って艦長室へ入った。 |
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2013年10月02日(水) |
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箱館戦争(31) |
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しかし、新政府軍にも眼のある男がいた。海軍の士官ではなかった。陸軍部隊を指揮する黒田了介(薩摩藩士、後の黒田清隆)である。
黒田は沿岸漁村の名主の家を本陣としていたが、その日の夕方、鮫村方面から流れてくる風聞を耳にした。
「なに、菊章旗を掲げいたと?」
と、黒田は部下に念を押した。
「はい、漁民はそう申しております。軍艦は3隻だったそうです。新政府軍の軍艦でしょうか」
捨ててはおけない。黒田はすぐ大小を差し、漁船を出させて港内に浮かんでいる甲鉄艦を訪ねた。
甲鉄艦には艦長以下、ほとんどの士官も居残っていなかった。
「石井はいるか」
と黒田は若い兵士を捕まえて怒鳴った。
「陸(おか)です」 |
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2013年10月01日(火) |
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箱館戦争(30) |
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夜明けとともに風はやんだ。回天は陸地に向かって走り出した。何と、朝焼けの山田湾の入口に高尾が居座っていた。流された方が早かったのだ。
回天、高尾の2艦は偵察行動に移った。宮古湾に新政府軍艦隊が入港している、という情報がもたらされた。
その日、3月24日、宮古湾では、新政府軍の甲鉄艦、春日、陽春など8隻が錨を下ろしていた。
日没前、海軍士官はほとんど上陸した。襲撃艦回天は燈火を消し、洋上で刺客が息をひそめて闇に潜む格好で、明朝早暁の突入を準備しつつ、宮古湾外の洋上に浮かんでいた。港内の艦隊は気づかない。 |
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