会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2013年07月31日(水) 幕末維新に燃えた会津の女たち(57)
   ◇籠城の婦人たち(下)
 八重の話は続く。
「籠城婦人は何れも、多少なりとも怪我をして他の厄介になるようでは、男子の戦闘力を削ぐようになるから、其の時は自刃をしようという覚悟で脇差か懐剣を持たぬ人はありません。私も介錯する人を頼んでいました。
 こんな訳で支度も身軽にし、帯なども決して解けぬよう、細紐で確り結んでいました。
 そんな風に何れも今日か明日か、最期の時は見事に死に際を立派にしようと、決心していましたから、木の枝にかかって死んだ夫人があるなどということは、大変な間違いだと思います。
 妄りに文飾するから真相を脱するのであります。ご承知の如く、何れの家庭にも戦死者、負傷者を出しています。弟の三郎(21歳)は正月3日、伏見で、父の権八(61歳)は9月17日、一ノ堰で戦死しています。籠城中の婦人は、大概、こんな境遇の人ばかりであるから、何れも死に花を咲かせようと決心して居ったのであります」
 死を覚悟した婦人たちの活躍ぶり、覚悟のありようが目に浮かぶ。そして会津藩は徳川幕府に最後まで忠誠を誓って滅んでいったのである。
2013年07月30日(火) 幕末維新に燃えた会津の女たち(56)
   ◇籠城の婦人たち(中)
 「守城以来、屡(しばしば)に落下し来たりし焼弾は径6寸(18センチ)許(ばかり)の円弾に孔あり。此れより火を噴出して殿屋を焼かんとして、水を注ぐも消滅せず。是に於いて衣類を以て之を覆ひて水を注げば忽ち消滅す。
 奥殿に仕えし老女伊藤牧野以下の侍女力を尽くして綿衣或いは布団の綿を出し、毎に之を水中に湿し、此の弾の落下する所は、婦人等馳せ参じて集まり、之を覆ひて消滅せしむるを常とし、危険を感ぜざるに至れり」。
 また、籠城中の子供らの様子について、前述の山本八重は
「籠城中、子供たちは凧を揚げて遊んでおりました。凧は春風昇天などといふて専ら子供らの春の遊びのみと思ふて居りましたが、被弾がくると、争ふて之を拾い、お握りと交換して貰ふて喜んでいました。随分危険でありますが、馴れきって巧みに之を消し止め、再び、城中の用に供してくれました」
と平石弁蔵著『会津戊辰戦争』の中で語っている。
 凧上げの少年の中に、後年、日露戦争の日本海海戦で活躍し、聯合艦隊司令長官になる出羽重遠の若き姿があった。
2013年07月29日(月) 幕末維新に燃えた会津の女たち(55)
   ◇籠城の婦人たち(上)
 8月23日から9月22日まで1か月に及ぶ鶴ヶ城での籠城に入った婦人たちは500〜600名であった。
 連日、城内に撃ち込まれる砲弾は、1日で最高2700発に達した。特に小田山の中腹からの砲撃が始まった9月以降は、死傷者が続出した。
 藩士は徒に死することをよしとせず、砲弾の落下地点を懸命に避けていた。だが、婦女子は最初から死を覚悟して入城しており、砲弾を畏れる者はおらず、藩士の砲弾を畏れる様をみて冷笑したほどであった。
 籠城中、婦女子は炊き出しから負傷兵の看護、さらに撃ち込まれた砲弾に濡れた布団をかぶせて爆発を防ぐなど、一心不乱に尽くした。
 白虎隊士だった山川健次郎(後に東京帝国大学総長)は、婦人たちの活躍ぶりを、その著『会津戊辰史』の中で、次のように述べている。
2013年07月28日(日) 幕末維新に燃えた会津の女たち(54)
   ◇飯沼貞吉を助けた印出はつ(下)
 そこで、はつは三本住庵という町医師に来てもらって貞吉の傷口を縫ってもらい、薬を付けて甲斐甲斐しく世話をした。はつにとっては、戻ってこなかった息子代わりだったに違いない。
 少し回復した数日後、ここにも西軍の追手の気配が濃くなって隠れ通すのは難しくなってきた。
 二人は地元民の案内で、さらに北の方角、喜多方町外れの田付村に逃れて山中の不動堂に隠れ住んだ。ここに、連絡を受けてやってきたはつの叔父もと3人になり、はつも心強くなった。
 3人は、会津藩が降伏し、鶴ヶ城が開城になった後の9月25,6日まで隠れ住んだ。貞吉はその後、藩に戻ることができた。
 印出はつの、その後の消息は不明だ。貞吉の逓信省での活躍も、飯盛山外れの墓地に埋葬されたことも知らずに亡くなったようだ。
 貞吉らが隠れ住んだ不動堂は、喜多方市から裏磐梯に抜ける国道450号線を右に入った所で、10年ほど前、会津に戻っていた頃、クレソンを採りに出かけた。清流が流れ、クレソンが密集していた。若松から10数キロも離れており、傷ついた体で、よく歩いたものだと感心したのを覚えている。
2013年07月27日(土) 幕末維新に燃えた会津の女たち(53)
   ◇飯沼貞吉を助けた印出はつ(中)
 はつは、タンスや布団を貞吉にかぶせて3日3晩、寝ずに看病したが、岩屋が城下に近いこともあり、時折、西軍兵士がやってきては、
「賊(会津兵)はおらぬか」
などと言って家探しをするようになった。
 このため、貞吉を安全な場所へ移すことになり、佐平らと話し合った。とりあえず、少しでも城下から離れた場所、ということで、はつと佐平は夜半、貞吉を岩屋から連れ出し、会津藩士を捜索している西軍の警備の間隙を縫って滝沢街道を北に横切って山沿いを北に向かって進んだ。
 若松城下を出たところで、佐平は貞吉をはつに任せて若松を引き返していった。その後は、はつと傷ついた貞吉はようやくのことで、塩川村の入り口東側にある近江屋という宿屋に辿り着くことができた。
2013年07月27日(土) 幕末維新に燃えた会津の女たち(52)
   ◇飯沼貞吉を助けた印出はつ(上)
 印出はつは、会津藩足軽印出新蔵の妻。8月23日、倅が鉄砲を担いで出ていったきり帰ってこないので、消息を尋ねて慶山村の百姓佐平の隠れ家を訪ねた。
 佐平はこの朝、薪採りに近くの山に出かけていたが、飯盛山の南八ヶ森に1丁(110メートル)ばかり入った所で、倒れている少年を見つけた。びっくりした佐平は岩屋に隠れていた家族に知らせるため戻っていたところであった。
 はつは、「もしや」と思い、佐平の長男の嫁むめと現場に駆け付けた。息も絶え絶えの少年は
「本三之丁、飯沼家の次男貞吉、16歳」
と名乗った。
 むめは、持っていた手拭いで貞吉の喉に突き刺した傷口を縛って包帯をし、岩屋に運び込んで介抱を続けた。
       ◇   ◇   ◇
 昨日からOCNのメール情報が漏れているのでパスワードを替えてーの知らせに替える作業をした結果、メール接続が不能に陥った。OCNに電話してもつながらず、回復するのに丸2日かかってしまった。
 おかげでブログ更新が遅れてしまった。些細なことで接続不能になるIT機器の弱さを実感した。しかし、気が狂いそうであった。
2013年07月25日(木) 幕末維新に燃えた会津の女たち(51)
   ◇飯沼貞吉の母ふみ(下)
 9月22日の降伏後、60歳以上の老人と15歳以下の男子、それに婦女子は塩川の謹慎所にまとめられることになり、ふみたちは関弥一行と再会できた。
 この間、飯盛山で自刃しながら蘇生した次男貞吉は、城下外れに逃げた後、猪苗代に謹慎した。赦免後、静岡の林三郎の塾生となり、最後は逓信省の役人として仙台で人生を終えるが、家族の許には二度と戻らなかった。蘇生したことが一生の重荷になったのであろう。
 ふみは明治30年(1897)8月、68歳の人生を終える。病室に、会津の婦女子教育に捧げた会津藩家老海老名季昌の妻りんを招き、代筆を頼んで辞世の句を詠んだ。
「今さらに なげかるるかな つゆのゆく 道とはかねて思ひしれとも」
 大家族の世話に追われ、次男の白虎隊士貞吉が自刃後、蘇生するという数奇な運命を辿ったふみの人生を如実に示す辞世の句である。
2013年07月24日(水) 幕末維新に燃えた会津の女たち(50)
   ◇飯沼貞吉の母ふみ(中)
 8月21日、白虎隊に出陣の命が下った。ふみは貞吉に対し、
「人に遅れをとってはなりませぬぞ」
と戦場における心得を諭した後、
「梓弓 むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武夫(もののふ)の道」
の歌をしたためた短冊を手渡した。
 23日、西軍は若松城下に殺到した。五つ刻(午前8時)、入城を告げる早鐘が乱打された。飯沼家には、ふみと長女ひろ、三男関弥に80歳を超した美濃、60歳の幸に下男下女しかいなかった。年寄二人と下女に背負われた関弥は一足先に三の丸に向かった。ふみとひろは、若党の藤太と共に後を追って家を出たが、敵は鶴ヶ城近くまで迫ったと見え、銃声や歓声が物凄くなってきた。
 その騒ぎの中で、ふみは関弥らとはぐてしまった。関弥たちは2週間ほど、城中にいたが、足手まといになるばかりでいたたまれず、縁故を頼って城を出て、高田村に落ちて行った。
2013年07月23日(火) 幕末維新に燃えた会津の女たち(49)
   ◇飯沼貞吉の母ふみ(上)
 ふみは西郷十郎右衛門(300石)の三女で、飯沼時衛(400石)に嫁いだ。飯沼家には、祖母美濃はじめ父米之進、母幸、弟友次郎、友三郎のほか、下男下女の大家族であった。
 時衛は物頭として江戸勤番が長く、留守がちで、一家の切り盛りはふみに任された。ふみは源八、貞吉、ひろ、関弥の4人の子供をもうけ、その教育もふみの役目だった。
 戊辰戦争が勃発すると、時衛と友三郎は白河方面に出陣したが、友三郎は右肩に銃弾を受け、家に戻って静養していた。しかし、介護の甲斐なく没してしまう。
 長男源八は越後方面に出撃、次男貞吉も白虎隊に編入された。
 戦況は日に日に不利となり、ふみは、他の藩士の妻と同じく、野戦病院になった藩校・日新館で各地から運ばれてくる負傷者の看護に従事しつつ、9歳になったばかりのひろや6歳の関弥に死ぬ時の心得を教えていた。
2013年07月22日(月) 幕末維新に燃えた会津の女たち(48)
   ◇有賀ひで親子の受難
 慶応4年8月25日、籠城3日目。和田やすは、食料が不足がちのため、敵の目を避けて城外に出た。
 本二之丁の西端のわが屋敷に入ろうとした時、門の石段に若い婦人が倒れているのを発見した。見れば、顔見知りの有賀惣左衛門(250石)の妻ひでだった。すでにこと切れており、腕の中には嬰児が縋り付く格好で死んでいた。
 親子は、23日早朝、早鐘で入城しようとしたが、遅れて叶わず、河原町口郭門か融通寺町郭門に向かう途中、流れ弾に当たって倒れた、と推測された。嬰児は二日二晩雨露にされされながら、母親の乳房を求めて泣きつかれ、母の後を追ったのだろう。
 「ひで殿〜」あまりの切なさにやすは泣き崩れた。ひでの夫、惣左衛門は青龍隊士中一番隊の中隊頭で、9月14日、諏方神社付近の戦いで討ち死にする。夫婦は近くの場所で亡くなっており、ひで親子の魂が夫を呼び寄せたに違いない。
       ◇   ◇   ◇
 参院選は自民党が圧勝し、民主党は結党以来の大敗を喫した。予想通りの結果だ。今後3年間、安倍政権は盤石の上に立って、政策を進めることが出来る。経済面では消費税引き上げが当面の課題だ。麻生副総理は「来年上げる」とタンカを切ったが、時期を間違えば政権の命取りになる。
 負けた民主党の海江田は代表を辞任しない意向だ。責任を取らない政治家に大事な政治は任せられない。
2013年07月21日(日) 幕末維新に燃えた会津の女たち(47)
   ◇間瀬家の女たち(最終回)
 慶応4年9月22日朝、遂に鶴ヶ城大手門に白旗が上がった。城内に残っていた負傷者用の白布を縫い合わせたもので、「降参」と書かれてあった。、籠城した約4500人の藩士のうち200名が逃亡したことは、多く語られることはなかった。8月29日、藩士1000名を率いて城外の長命寺で戦い、前夜、酒をを飲みすぎ夜明け前の出陣に遅れたため敗れた佐川官兵衛は、開城後も戦い続け、藩主容保の特命で停戦した。
 さて間瀬家だが、南御山の肝煎小林藤吾宅が割り当てられた。飯盛山で自刃した源七郎の遺体を探すことが残された。翌春、雪解けを待って、みつ、のぶ、つやの3人が現地に行き、半ば白骨化し、変わり果てた源七郎の遺体に縋り付いた。衣服の家紋から判明したのだ。3人は丁寧に骨を拾い集め、菩提寺に葬った。
        ◇   ◇   ◇
 私事だが、間瀬源七郎の子孫と名乗っていた国語担任の先生に、市立2中時代に世話になったことは、以前にも書いた。懐かしい思い出である。昔話のひとつでもーと思ったりしたが、無駄口はたたかず、笑顔も見せない人だった。
2013年07月20日(土) 幕末維新に燃えた会津の女たち(46)
   ◇間瀬家の女たち(4)
 瀬山部屋は8畳敷きで、3尺(90センチ)に2間(3,6メートル)の押入れがあった。そこに、間瀬家の7人と赤羽家の2人、さらに河村丈五郎ら3人の負傷者が一緒で12人の相部屋は混雑を極めた。
 その後、小田山からの西軍の砲弾の破片が長男の妻ゆきにあたった。浅手ではあったが、赤子を抱えていたので、母子は奥の配慮で藩主容保の御座所であった御休息の間に移された。
 不幸は続く。夫岩五郎は8月29日の長命寺の戦いで戦死し、舅新兵衛も9月14日、城内で敵砲弾にあたって亡くなるという、悲運に遭い、赤子は父親知らずの状態になった。
2013年07月19日(金) 幕末維新に燃えた会津の女たち(45)
   ◇間瀬家の女たち(3)
 みつが残した戦争体験の日記風覚書『戊辰後雑記』によれば、
「二十二日終夜、猪苗代方面処々に火の手が見え、砲声の音絶え間なく聞こえ候事故、二十三日朝飯も夜明け前に仕り候内也」
「二十三日、奥よりお指図にて、手すきの者は手負い看病に出申し候。私は結び握りに出候様につき、黒米御結びに固まらず、手拭いに絞り固め候事」
とあり、西軍の若松城下侵攻が予想外に早かったため、朝飯は夜明け前にすませたこと、籠城中、御結びを握るのに、黒米(多分搗く前の玄米ではないか)では、手では握れないので手拭いを使ったーなどの苦労話が載っている。
 一方、城中では、臨月のみつが入城翌日、即ち24日に産気づき、小書院から奥女中の瀬山部屋に移された。中森重次郎の妻が助産婦役を務めてくれ、同日朝に、女子を出産した。周りの者たちは手を取り合って喜んだ。
 この日、夫の赤羽恒之助は城内にいたので、やかんに酒を入れ、小魚の田造りをつけて持参、赤子に「はつ」と命名して、ささやかなお祝いをした。
 これから始まる、長い籠城戦で、唯一のおめでたであった。
2013年07月18日(木) 幕末維新に燃えた会津の女たち(44)
   ◇間瀬家の女たち(2)
 そこへ城内から戻ってきた槍持ちの下男に戦況を尋ねると、
「戸ノ口原では、御味方が優勢で、敵を追いまくっております」
ということだった。
「やはりわが藩兵は強いのじゃ」
とひとまず安心していたところ、突然、入城を知らせる早鐘が打ち鳴らされ、家族は慌てふためき大騒ぎになった。
 女たちはすぐに支度して貴重品を入れておいた場所に行ってみると、若党の小吉や下女までが逃げてしまっていた。
「世話をしてきたつもりであったが〜」
と悔やんでみても後の祭り。一同はかねて指示された鶴ヶ城の三の丸に入り、みつ、のぶ、つやの3姉妹は多少の危険を覚悟しつつ、屋敷と鶴ヶ城を往復して荷物を運んだ。
2013年07月17日(水) 幕末維新に燃えた会津の女たち(43)
   ◇間瀬家の女たち(1)
 慶応4年(1868)8月23日朝、西軍が若松城下に攻め込んできた時、本二之丁にある間瀬新兵衛(300石)邸は、妻まつ、娘みつ、のぶ、つや、ゆうと長男岩五郎の妻ゆきとその子清吉(生後5か月)がいた。
 長男岩五郎は朱雀足軽隊中隊頭として戦っており、次男源七郎は白虎士中2番隊として出陣し、この日、戸の口原の戦で敗れ、飯盛山に退いて、見事自刃して果てた。
 間瀬家の隣、赤羽家には、五女きよが嫁いでおり、臨月の身で実家に戻っていた。母まつは、
「鶴ヶ城の早鐘で入城する際、きよはどうしたらよいか」
と赤羽家に相談していた。
 赤羽家から、
「実家の方々と一緒に立ち退いてもらいたい」
と返事が返ってきたので、入城の準備を始めた。
2013年07月16日(火) 幕末維新に燃えた会津の女たち(42)
   ◇小田山からの砲撃
 鶴ヶ城での籠城戦で、会津藩がもっとも苦しんだのは、東南1,5キロにある小田山からの西軍のアームストロング砲による砲撃であった。一日に最高で2千数百発の砲弾が天守閣はじめ城内各所に落ちてくるのだ。
 「会津は渡さねえ」
の合言葉をかけながら奮戦する会津藩士と、婦女子ら約5千名。
 実は、小田山の砲撃陣地を西軍に手引きしたのは、極楽寺の坊主だった。これを知った会津側は切歯扼腕したが、後の祭り。
 しかし、1か月の間、西軍の攻撃に耐えた会津藩も9月22日、1か月ぶりに籠城を解き、降伏する。極楽寺の坊主は越後の津川に逃れるのだが、敗戦後、会津藩士武田宗三郎は坊主を追いかけ、復讐のため斬殺した。
 戊辰戦争から遡る260年余、会津の領主になった上杉景勝は、この鶴ヶ城の欠点は、東南の小田山から近すぎるーとして慶長5年(1600)平坦部の神指地区に神指城の築城をはじめた。これが関ヶ原合戦の引き金となった。会津の歴史は、日本史である証左だ。
小田山からの砲撃で無残な姿になった鶴ヶ城の天守閣
2013年07月15日(月) 幕末維新に燃えた会津の女たち(41)
   ◇日向ゆき(下)
 探して間もなく、祖母の実家加須谷家の竹藪で、日向家の家紋をつけた羽二重を発見、付近で変わり果てた父の首と対面し、ゆきは泣き崩れた。
 その後、兄の部下だった男から、兄の最期の模様を聞き取り、その場所を探したところ、村人から
「犬が首をくわえてきたので、処置に困って小川に捨てた」
との話を聞き、ようやく、小川の下流で兄の首を発見した。ゆきは、涙ながらに菩提寺で二人を葬り、肉親捜しは終わった。
 やがて会津藩は斗南(青森県)に流刑となり、日向家も野辺地に向かった。明治4年(1871)廃藩置県後は北海道へ渡り、ゆきは翌年、開拓使内藤兼備と結婚し、会津へは二度と帰らなかった。昭和19年(1934)まで長生きした。
2013年07月14日(日) 幕末維新に燃えた会津の女たち(40)
   ◇日向ゆき(中)
 新太郎はやむなく、尻もちをついたまま射撃を続けたが、間もなく肩を射抜かれて銃を持つこともできなくなった。
 「無念じゃ」部下に命じて介錯を求めたが、敵兵に囲まれてそれもできなくなり、部下は新太郎の首級を斬って、近くの稲田の稲わらの中に隠して退却した。
 籠城戦は9月22日まで続き、結局、親子二人の首は行方不明のまま新しい年を迎えた。元号は明治と改元され、雪が解けてから、ゆきは二人の首級を探し始めた。
       ◇   ◇   ◇
 連日の猛暑が続く中、8月の広島原爆廃絶運動に向かって共産党系のグループが周辺をデモ行進していた。「原発再稼働」とリーダーの掛け声に「ならぬものはならぬ」と唱和していた。
 大河ドラマの影響だろう。会津人としては、うれしいような感じがしないでもないが、しかし、視聴率の低さは相変わらずだ。
 読売新聞テレビ欄に「八重の戦いぶりに感動」などの声がある一方で、「会津の悲劇を初めて知った」横浜市の主婦がいるように、戊辰戦争の実態を知らない人が多いのは、実に情けない。
2013年07月13日(土) 幕末維新に燃えた会津の女たち(39)
   ◇日向ゆき(上)
 日向左衛門(400石)の次女。8人兄弟の3番目として生まれた。32歳で死去した母の兄は飯沼時衛で、その次男が白虎隊士中2番隊の生存者貞吉。母の姉が西郷頼母夫人の千恵子。
 戊辰戦争の時は17歳だった。8月23日五つ刻(午前8時)早鐘が乱打され、追手門に駆けつけたが、城門はすでに閉ざされて入城できず、祖母や義母、弟ら6人とともに敵砲弾をかいくぐって城下はずれに逃げ、御山の肝煎栗城伝吉の家に世話になった。
 この間、父左衛門は大町口郭門の戦で重傷を負い、母の実家加須谷邸で、
「もはや、これまで」
と言い残して自刃した。
 兄新太郎(20歳)は、遊撃2番隊の半隊頭を務め、城下各地で転戦、9月8日の朝、濃霧の中、材木町南橋の柳土手で銃撃戦となり、胸に銃弾を受けて立つことが不可能になった。
2013年07月12日(金) 幕末維新に燃えた会津の女たち(38)
   ◇中野優子の回想
 先に書き込んだ中野竹子の妹。8月25日、竹子たちは城外で依田まきらと一緒になり、照姫を警護しようと坂下に向かうが、誤報と分かって鶴ヶ城へ引き返す途中、涙橋付近で長州、大垣藩兵と遭遇。敵味方入り乱れての乱戦となった。
 優子も薙刀を振るって敵方を斬り殺す奮戦をみせた。姉竹子が敵弾に倒れた時、首級を持ち帰ろうとしたが、叶わず、同行した農民兵が掻き斬って坂下まで運んだ。この一連の様子を優子は「会津戊辰戦争」(平石弁蔵著)の中で回想している。
 優子らは戦闘の後、2日ほど坂下にとどまり、28日になって高久に陣していた会津藩家老菅野権兵衛が付けてくれた2人の藩士に守られて鶴ヶ城へ。敵弾をかいくぐり、大町通りから合言葉を使って西追手門を開かせた。
 以後の籠城戦では、負傷兵の看護や食糧の炊き出しに励み、再び薙刀を手にすることはなかった。
2013年07月11日(木) 閑話
   ◇会津武士道に生きた伴百悦
 歴史春秋社は、「会津武士道に生きた 伴百悦」を出版した。薩長兵の命令で、戊辰戦争後、会津藩士の遺体は路上に放置され、カラスや野犬に食いちぎられて無残な姿のままであった。
 「武士の情など知らぬのか」と怒った伴百悦は、遺体埋葬を新政府に願い出て、自らは非人に身を落として埋葬にあたり、七日町の阿弥陀寺などに千数百体を埋葬した。
 墓に「殉難の碑」の墓標を立て、付近の住民によって小さな拝殿らしきものも建てられた。ところが、時の民生局の監察方頭取兼断獄、久保村文四郎(越前藩士)が「殉難とは何事じゃ」と即刻、取り捨てることを命じた。
 500石の上士でありながら非人に身を落として埋葬した伴や高津仲三郎ら4人は、久保村が明治2年7月、役目を終えて越前へ帰国する際、坂下町の束松峠で待ち伏せし、
「会津武士の恨みを晴らす」
と斬って捨てた。
 伴は、越後に逃げたが、翌年7月、越後村上藩兵に見つかり、自刃した。
 この物語は平成2年(1990)恒文社から出版されたが、歴史春秋社の阿部隆一社長が「会津武士の典型だ」として伴を取り上げることを決意し恒文社と版権について交渉し、ようやく実現した。
 阿部社長は「一人でも多くの人に伴の生き様を知ってほしい」と呼びかけている。
作者は中島欣也
(元新潟日報編集局長)

価格は1500円プラス税

2013年07月10日(水) 幕末維新に燃えた会津の女たち(37)
   ◇神保雪(下)
 雪はその夜、斬首されることになった。偶々、大垣藩の陣営にやってきた土佐藩の隊長吉松速之助が、この様子を知り、
「会津藩の落城は目前じゃ。徒に婦女子を殺害することは無益じゃ」
と説いた。大垣藩兵は、雪や中野竹子らに痛い目に遭っているだけに進言を無視したが、吉松は反対を押し切って脇差を雪に与えた。
 すでに覚悟を決めていた雪は、裾をきっちり縛ってから脇差で喉を突いて自刃して果てた。その見事さは大垣藩兵に強烈な印象を与えた。
 一方、父井上丘隅は、雪が屋敷を出た後で、妻と長女を介錯し、自ら果てた。義父神保内蔵助も近くの土屋一庵邸で、田中土佐とともに切腹した。
       ◇   ◇   ◇
 本日は、盂蘭盆会で若松から菩提寺の清林寺の住職がきてくれ、墓前でお経をあげてくれた。7月の新盆は気分が乗らないが、住職は都内、千葉県内の檀家を廻るので仕方がない。
 聞けば、若松七日町の阿弥陀寺の住職が亡くなり、後継者がいないため無住になった、という。浄土宗の若松市内の総取締役も兼ねる古刹だ。戊辰戦争では路上に放置された会津藩士の遺体千数百体を埋葬し、鶴ヶ城にあった御三階を移築した有名なお寺だ。
 また新選組隊士斎藤一のお墓や、小生の仲人、故横山武・会津若松市長のお墓がある。由緒あるお寺も後継者がなく無住になった。近くの見性寺の住職が兼務するというが、会津の凋落を象徴するようで、嫌な気分だ。
2013年07月09日(火) 幕末維新に燃えた会津の女たち(36)
   ◇神保雪(中)
 西軍は、六日町郭門を突破して西下したため、丘隅らは退路を絶たれる形になった。丘隅の屋敷は、甲賀町郭門から100間(180メートル)ばかりの所にあり、丘隅は退路を切り開いて屋敷に戻った。
 屋敷では、妻とめ、長女ちか、三女雪が一室に集まって自刃の準備をしていた。丘隅は雪の姿を見つけると、
「そなたは神保家へ嫁いだ身じゃ、一之丁の神保家の人々と死を共にすべきであろう」
と叱りつけた。
 雪は父の教えで非を悟り、直ちに席を立って門外へ出たものの、一之丁までは西軍に押えられていると分かり、やむなく西に走って城外戦に加わることに。
 やがて中野竹子らと一緒になり、8月25日、若松の西方涙橋付近の戦闘で目覚ましい活躍をするが、大垣藩兵と乱戦の末、武運拙く捕えられてしまう。
2013年07月08日(月) 幕末維新に燃えた会津の女たち(35)
   ◇神保雪(上)
 600石、井上丘隅の三女で、家老神保修理に嫁いだ。修理は非戦論を唱え、恭順派として藩論の統一に努力していた。
 しかし、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに敗れたのは、修理が西国の諸藩に知己が多く、西軍に通じていたためと、藩士から弾劾され、やむなく藩主容保は切腹を命じた。江戸に戻った修理は2月2日、会津藩の江戸藩邸で切腹してしまう。
 雪も夫の遺志を受け継ぎ、戊辰戦争の動乱から会津を救うには恭順しかないーと家老梶原平馬らに進言したほどであった。
 時すでに遅く、8月23日、西軍は若松城下に迫り、父丘隅は幼少寄合組中隊長として滝沢口にあった。しかし、十六橋を破った西軍に追いまくられ、甲賀町郭門まで引き返した。甲賀町郭門を巡る攻防は、城下最大の激戦となり、双方に多くの死傷者を出した。
      ◇   ◇  ◇
 神保雪の最期は、7日の「八重の桜」で放映された。捕えられた雪に、武士の情けとして脇差を与え、雪は見事な最期を遂げる。この脇差を与えたのは、土佐藩の隊長吉松速之助(後に陸軍歩兵少佐)であった。
2013年07月07日(日) 幕末維新に燃えた会津の女たち(34)
   ◇柴家の女たち(下)
 五男五郎(後に会津人初の陸軍大将)は事前に 下男の家に避難させていたので、無事だった。母ふじは、柴家の家名継続を五郎に委ねたのであろう。送り出した後、女性5人はことごとく自刃した。
 暫くして五郎は百姓の姿に替えて柴家の屋敷があった焼け跡に舞い戻り、涙ながらに母らの遺骨を拾うのだが、後世残した「ある明治人の記憶」の中で生々しく描いている。
 先に述べた青木の善龍寺の「「奈与竹之碑」は昭和3年(1928)に建立され、230余名の中に刻まれている。
        ◇   ◇   ◇
 今回の参議院選挙は、各紙の世論調査で安倍自民党の圧勝を予想している。期待された日本維新の会は、例の橋下共同代表の「慰安婦発言」以来、人気はがた落ち。おまけにみんなの党との野党協力も末梢にて”受け皿”はゼロだ。
 橋下発言もよく聞けば、「河野談話」は正しかったのかーという疑問符を投げかけたもので、慰安婦の存在そのものを認めるものではないーのだそうだ。しかし、後の祭り。
 自民党独り勝ちでは、選挙そのものが面白くなくなる。困ったもんだ。
2013年07月06日(土) 幕末維新に燃えた会津の女たち(33)
   ◇柴家の女たち(上)
 集団自刃は西郷家だけではなく、郭内にあった武家屋敷では、「城中に上がれば足手まといになる」「穀潰しになるだけ」と次々に自刃した。そのうちの柴家を紹介する。
 当主佐多蔵の母つね(81)はじめ、妻ふじ(50)、長男太一郎の妻とく(20)、長女その(19)、次女さつ(7)の5人が白装束に替えて自決した。
 代々、会津武士の家庭では、女子は自刃する際の作法を教えられていた。足元が乱れないように足首をひもで結わえることが基本であった。
 男子は4男茂四郎(後の東海散士=政治小説家)は15歳で白虎隊に編入されたが、熱病の為、長く床にあった。それでも、ふじは
「柴家の男子なるぞ。父はすでに城中にあり、家名を辱しむるなかれ」
と励まして茂四郎を鶴ヶ城へ送り出した。
2013年07月05日(金) 幕末維新に燃えた会津の女たち(32)
   ◇西郷家の女たち(3)
 自刃した21人は、会津若松市門田町御山の善龍寺の「二十一人塚」に納められている。本堂脇には、千恵子の辞世の句からとった「奈与竹の碑」があり、墓参の人が絶えない。毎年5月1日には、県立葵高校の女生徒が薙刀を奉納して21人の霊を慰めてる。
 さて肝心の西郷頼母だが、この人物は評価が分かれる。婦女子らの自刃をよそに、籠城戦では城中で孤立し、「西郷、撃つべし」の声が藩士の間から上がり、やむなく藩主容保が親子で脱出させた。
 爾来、明治になって各地を転々とし、明治35年(1902)に最期を迎えたのは、以前、西郷家の屋敷があった裏側の二ノ丁の長屋であった。乞食のような生活で、甲賀町の森川善兵衛が面倒をみていたようだ。
 一族の婦女子21人の怨念が籠っているのか、大手門前の1等地にありながら、西郷邸跡地で商売する店は、みな潰れている。
2013年07月04日(木) 幕末維新に燃えた会津の女たち(31)
   西郷家の女たち(2)
 女たちは従容として死につく。懐剣で己の首を斬り、幼子は、その首に懐剣を射して次々、倒れていった。しかし、長女細布子は死にきれず、呻いていた。
 城下へ侵入した土佐藩の隊長中島信行は大手門前の広大な西郷邸へ踏み込んだ。が、あまりの静けさに怪しんだ。長い廊下をわたり仏間に入った時、21人の壮烈な最期に愕然とした。
 16,7歳の女子が、足音を聞いて、未だ死にきれずに起き上がろうとしたが、すでに目が見えない状態で呻吟しており、かすかな声で、
「敵か、味方か」
といった。自分は、わざと
「味方だ」
といったところ、女子は懐剣を差し出した。わしに命を止めてくれ、ということであった。見るに見かねて、涙を振って介錯して外へ出た。
 その時の様子を、中島信行は後年、このように語った。初代、衆議院議長である。会津武士の娘としての最期の姿は終生、忘れることはなかった。
2013年07月03日(水) 幕末維新に燃えた会津の女たち(30)
   ◇西郷家の女たち(1)
 8月23日早朝、会津城下に迫った西軍の侵攻は予想外に早かったため、城下は混乱した。大手門前の家老、西郷頼母邸では、夫や長男を鶴ヶ城へ送り出した後、死出の準備に入った。
 死に装束に身を固めた21人は、頼母の妻千恵子はじめ、義母、長女細布子(たいこ)に2歳の娘まで21人が辞世の句を詠みあった。
 「なよ竹の 風にまかせる身ながらも たゆまぬ節の ありとぞと聞け」
は千恵子の句だ。
 13歳の瀑布子(たきこ)は
 「手をとりて ともに行きなは迷はしよ」
と書いてハタと困った。
 姉の細布子はにこりとして「私が続けましょう」
といって、下の句をさらさら書いた。
 「いさたとらまし死出の山みち」
2013年07月02日(火) 幕末維新に燃えた会津の女たち(29)
   ◇中野竹子(最終回)
 壮烈な死に様であった。母や妹らが介錯しようとしたが、敵弾が飛来してならず、下男が泣く泣く介錯し、竹子の首級を落として持ち帰り、坂下町の法界寺に埋葬した。
 竹子は、出陣前に妹の優子とともに辞世の句をしたため、短冊に書いて薙刀に結んでいた。
  「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」
       ◇   ◇   ◇
 大河ドラマもクライマックスに至り、このブログと同時並行で進んでいる。我ながらバッチリだ。でもテレビの前で、目に涙がにじむのは、小生一人ではないはず。会津人は決して戊辰戦争を忘れないのだ。
2013年07月01日(月) 幕末維新に燃えた会津の女たち(28)
   ◇中野竹子(6)
 すさまじい白兵戦になった。竹子らは薙刀を振るって奮戦、長州藩兵の幾人かを斬り倒した。竹子ら女子が混じっているのを知った長州兵は、
「あれは女だ、生け捕りにしろ」
と、下劣な言葉を吐きながら竹子らに迫った。
 竹子や雪子は、群がる長州兵をさらに数人斬り倒した。余りの手練に恐れをなした長州兵の陣形が崩れた。
 こんどは遠巻きにしながら、一斉に銃火を浴びせてきた。竹子、雪子らが銃弾を受けて次々と倒れてゆく。
 「竹子!」、「姉上!」。母と妹が竹子に駆け寄ると、竹子は苦しい息の下から
「敵の辱めを受ける前に介錯を」
と、か細い声で頼んだ。
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