会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2012年05月31日(木)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(20)
 9歳以下の小さな子弟たちが、親の世話なしに、どうしてこんな事ができたのか、不思議に思う人も多い。6歳で「什」の仲間に入り、毎日毎日、一人で訓練された結果である。会津武士の子弟はかくあるべき、という点を約束し、申し合わせたのである。藩からのお仕着せでなく、自己活動の結晶だったのだ。
 「ならぬことはならぬ」も一語こそ、会津武士道精神を最も簡明に、最も深刻に表現した言葉であった。
 筆者は千葉県内で講演する時、必ず「什の掟」を配って全員で読み上げてもらう。現在の教育に欠けているもの、それは「什の掟」である。第7条を除いて、現在の教育に求められている条項ばかりだ。
 「什の掟」は、かつてベストセラーになった藤原正彦(お茶の水女子大名誉教授)の『国家の品格』で紹介されて以来、一段と有名になった。松戸市内の中学校の校長室には、額も飾られていて嬉しかった。
2012年05月30日(水)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(19)
1、年長者のいうことに、そむいてはなりませぬ。
2、年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。
3、虚言(うそ)をいってはなりませぬ。
4、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ。
5、弱い者をいじめてはなりませぬ。
6、戸外で物を食べてはなりませぬ。
7、戸外で女の人と言葉を交えてはなりませぬ。
8、ならあぬことはならぬものです。
 一同は什長が一ヶ条を云うたびに、丁寧に礼をする。八か条の申し合せ、則ち「お話」が済むと、什長は「昨日から今日まで、お話に背いた人はなかったか」と一同に聞く。
 八か条のどれかに背いたことが明らかになれば、お互いに制裁した。最も軽い処罰は「無念」ということで、「私は会津武士の子として、あるまじきことをなし、会津武士の名誉を汚したこと申し訳ない。誠に無念であります」と謝る。
 最も重い制裁は「派伐り」で、仲間外れ、絶交であった。10日ほどして派切りされた子の父兄が子供を連れてお話の場にやってきて什長に平身低頭お詫びし、仲間入りを願った。
2012年05月29日(火)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(18)
 まだ日新館の素読書に入学しない9歳以下6歳までの、藩士の子弟は集団をつくっていた。10名前後で、通称「遊びの什」といって、年長者を什長といった。「什」というのは、古代中国の10人単位の軍隊用語。
 この仲間は、午前中は適当な先生のところに行って素読(漢文の読み)や習字を習い、午後には、仲間の家に集まって勉学に励んだ。集まる家は順番で、その家では、夏は水だけ、冬は白湯だけを出すことになっており、菓子や果物などを出すことは許されなかった。
 子供達は長幼の順に一列に正しく坐り、什長は次の申し合せを1か条ずつ申し聞かせていた。
 8条ある什の誓い(または掟)は明日に書き込む。
2012年05月28日(月)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(17)
 出席者は長男が30歳まで、次男以下が21歳までで、毎年一回考査を行って進級させ、階級を上・中・下の三等に分け、中等に進んだ者の中から有能な子弟を江戸の昌平黌に3年期限で留学させた。
 一方、武学は、兵法が長沼流で、実技は弓術が日置(へき)流道雪派、同流豊秀派、及び日置流の三流。
 また馬術は大坪流、槍術は大内流、宝蔵院流、高田一旨流の三流だった。このうち、宝蔵院流は特に、幕末にかけて盛んになり志賀重方、重則親子や野矢常方などの名人が現われ、會津の槍術の名声は全国に広まった。
 武技の中心となる剣術は、一刀流溝口派、真天流、安光流、太子流、神道精武流の諸派があり、幕末、京の街で土佐の坂本竜馬を斬った佐々木只三郎は神道精武流の達人であった。
 この他、柔術、居合術、水練があり、水練は向井流が採用された。このように、會津藩の武術教育は学問教育と並んで重視され、且つ、その教化が徹底された。
 會津日新館は幕末に姿を消したが、昭和62年(1987)、会津若松市の当時、会津若松商工会議所会頭だった高木厚保さんが自費3億円を投じて河東町に12万5千坪の敷地に2万6千坪の建物を往時そっくりに再現させた。
2012年05月27日(日) わが家の家宝
 本日は、来月3日の会津藩士慰霊祭に先立って、富津市竹岡の松翁院と延命寺の墓掃除をしてきた。松翁院では、住職夫妻の温かいおもてなしを受けたが、「一つ余っているのであげましょう」と会津藩縁りの「釘隠し」を戴いた。
 同寺の古い本堂は幕末、江戸にあった会津藩下屋敷の道場を譲り受けたのだが、本堂を建て直した際、それまで使用していた「釘隠し」を外して客間に使用している。
 銅製で、葵の葉がニ枚、横に重なった形。松平家の紋章・会津葵とは違うが、江戸時代、徳川葵を崩した「双葉葵」で、什器や羽織りなどにデザイン化されて流行していた、という。客間には横14センチ、縦九センチのものが9枚飾られている。
 有難く頂戴して来たが、これから精神込めて磨き上げ、わが家の家宝にするつもりだ。江戸常詰め会津藩士が毎日、腕を磨いていた、と思うとぞくぞくする。
 とにかく嬉しい。新聞連載から始まった顕彰会立ち上げ、そして毎年の慰霊祭とこれまで苦労とも思わない運動が結実した一面であろう。飯野藩士の子孫の慰霊祭初参加といい、実に爽やかに6月を迎えられる。
2012年05月26日(土)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(16)
 『会津藩教育考』には、諸藩で優秀な藩校として、養賢堂(仙台)、弘道館(水戸)、知道館(土佐)、身教館(佐賀)、明倫館(萩)、時習館(熊本)、演武・造士館(薩摩)などを上げ、互いに一優一劣はあるものの、「その徳義を育するの親切なるに至りては三百藩中恐らくは我藩に及ぶものはあるまい」と自画自賛している。
 さて日新館は享和元年(1801)10月に完成し、会津藩の藩士教育の体制は整った。これと並行して江戸・和田倉、芝の屋敷にも成章館、孝興館をそれぞれ設けた。
 また町講所である甲賀町、花畑通りの学舎は青藍社、友善社とそれぞれ命名し、身分の低い者や足軽同心などの子弟を通学させた。
 日新館の運営責任者として学校奉行を設け、以下の役人を任命した。
2012年05月25日(金)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(15)
 寛政年間(1789〜1800)になると、藩政の立て直しも漸く順調になり、これに伴って学校の施設も充実されていった。学習の内容も素読から大学までの段階があり、教授の種目も文武・和漢と多岐に分かれ、専門科するようになると、従来の藩士の私邸を改修増築した講所では、狭くて不便になった。 
 このため容頌は寛政11年(1797)4月、新たに日新館の造営に取りかかった。校名は、書経湯盤名の「日日新而叉日新」や易経の「聖徳謂之日新」からとった。完成したのは享和元年(1801)10月。
 鶴ヶ城の西、追手前で東西120間(210メートル)南北60間(110メートル)の一大学舎であった。東塾に三礼塾、毛詩塾、書学塾など、西塾には尚書塾、二経塾、医学寮、礼式算術天文方の教室があった。
 中央に水戸中納言治保筆の大成殿の扁額を掲げ、儀式礼法執行の場所となった。武学寮は三か所あり、弓、槍、剣、柔術、馬術の稽古場、また西塾の西に水練のための大きな池(プール)も設けた。
 日新館の規模を当時の全国諸藩のそれと比較するのは、史料から困難であるが、米沢藩の「興譲館」が安永5年(1776)設立で最も古く、次いで弘前藩の「稽古堂」が寛政9年、秋田藩の「明徳館」の寛政元年(1789)の順。
2012年05月24日(木)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(14)
 藩主容頌は建議を裁可し、会津藩の藩政改革は軌道に乗る。改革の重要部門として実施されたのは天明8年(1788)の学政刷新だった。
 従来の郭内講所の敷地を広げて東隣の井深重郎左衛門の屋敷を収め、居宅を改修して学舎にし、文武両道の学習が一か所でできるように整備された。そこには孔子像を祀り、盛大な落成式が行われた。
 11歳から18歳までの藩士の子弟は必ず講所で就学することを命じられた。就学を命じたのは初めてであった。学校の目的は「孝悌を本とし(略)国家有用の人物をなすべきこと」を基本とし、11歳から素読科に入り、13歳で書学、14歳で弓馬槍刀を、16歳で会読及び講釈、17歳で随意に兵学を学ぶ。
 18歳が素読科の年限であり、それぞれ10人組単位で什を組織して什長の引率で登下校することになっていた。
 さらに、19歳になると組から卒業、各人が文武の芸一、二を専修して己を磨き、22歳以上は出席は自由となった。こうして藩皆学の制度が実現した。
2012年05月23日(水)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(13)
 正容は享保16年(1731)63歳で没し、容貞が4代藩主になったが、学事的には事跡もなく、寛延3年(1750)27歳で死去するが、晩年には猪苗代方面で金曲騒動という百姓一揆が勃発するなど、学問を奨励する余裕はなかった。
 5代容頌(かたのぶ)が七歳で襲封した当初は、2度の大恐慌があり、藩財政は極度に困窮化した時期であった。藩財政が危機に直面した、この時期に藩政改革に乗り出したのが、田中三郎兵衛玄宰であった。
 彼は天明元年(1781)若年寄になり、次いで同年10月には家老に進んだ。この頃、諸藩でも藩政改革の努力がなされ、特に、肥後・熊本の細川藩では、名君といわれた重賢の指揮で大きな治績をあげていた。
 玄宰はかねて細川藩の内政改革について深い関心を寄せ、同藩の老臣堀平太左衛門と交わっていたが、彼の勧めで同藩の儒臣古屋から経義の教授を受けた。
 そこで玄宰は、細川藩の藩政改革の成功は殖産興業の奨励と文武両道の振興、つまり産業と教育を同時並行で奨励、実施したことだと知り、天明7年(1787)2月、藩政改革の建議八か条を奏上した。
2012年05月22日(火) 慰霊祭
 房総半島会津藩士顕彰会主催の第6回會津藩士慰霊祭を6月3日、富津市竹岡の松翁院で行うが、参加者がほぼ確定した。今回の”主役”は飯野藩士(富津市下飯野)花沢金八郎の子孫が参加することだ。東京・国立市で拳法の師範をしている人物だ。
 先祖は幕末、親藩にあたる會津藩救援に向い、白河城を巡る戦で壮烈な戦死を遂げた勇士だ。その血を受け継いだのか、拳法を学び、師範となって海外で指南し、幅広く活動している。
 筆者のブログや書物から連絡をとってきたが、現在、指導しているウズベキスタンの仲間も一緒だ。彼はウズベクでは貴族階級の出身らしく、日本の武士の先祖を弔う儀式を体験したいーと希望したとか。
 さらに三浦半島会津藩士顕彰会からは、新選組副長助勤、斉藤一の子孫が出席し、わが顕彰会からは會津藩家老西郷頼母の子孫も参加する。
 斉藤一は、戊辰戦争で鶴ヶ城籠城戦を戦い抜き、蝦夷地へ逃れた土方歳三らと分かれて最後まで會津藩と運命を共にし、斗南に流された。墓地は会津若松市七日町の阿弥陀寺にある。
 話題豊富な3人の子孫には、思いのたけを充分に話してもらうつもりだ。盛り上がること間違いなし。歴史は生きているのだ。
2012年05月21日(月)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(12)
 正之は、藩士の教育にも力を注いだ。寛文4年(1664)横田俊益らを招いて藩士だけでなく、庶民も入れる「稽古堂」を建てた。鶴ヶ城城下町全体を教導しようという広大な目的だった。
 藩祖の遺志を受け継いだ3代正容(正之の四男)は藩士の教育を対象に「講所」を元禄元年(1688)に設置し、翌年には甲賀町口東北角に、庶民を対象の「学問所」が開設された。これらは「稽古堂」を発展、拡充したもので、藩士が対象の郭内講所と庶民が対象の町講所が出来上がった。郭内講所には、孔子像を祀った聖堂も完成し、ほぼ学問所としての形態が完成した。
 正容は父正之を深く尊敬し、神道を研究して極意に達し、正之の精神を遵奉して政治を執ったから、文武両道の奨励に熱心であった。元禄15年(1792)には講所全集の掟を定めたのを初め、吉村朝実を講所付きに、松本重文を講所指南役に召し出して講所の充実を計った。
2012年05月20日(日)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(11)
 後に正之は、四男正経(二代藩主)や家老たちに、この家訓の主旨を懇切に説明したという。寛文12年(1672)12月18日、享年62で死去する前に、病床でおまんの方に対して、
「吾が没後、汝必ず政事をいふなかれ」
と口出しを禁じ、家訓を末代まで伝えようと、家族一同に申し渡した。
 以来、これが会津藩の伝統になり、家老に昇格した者は、その末尾に記名血判するという風習があり、毎年正月11日と8月朔日(1日)には、本丸御殿で学校奉行(儒者)が家訓を朗読し、藩主以下が頓首して拝聴するのが例であった。
 このように、家訓は會津武士の魂を養う金科玉条として、幕末まで藩主や家臣に強い感化を及ぼした。
2012年05月19日(土)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(10)
 おまんの方は四男正経(後の二代藩主)の母親だから成敗はしなかったが、正之は、この時以来おまんの方を遠ざけ、決して継室としては扱わなかった。この事件が、10年後に制定する「家訓15ヶ条」の第4条となったのである。
 後に米沢藩上杉家30万石がお家断絶の危機に晒された時、正之は15万石の減封で助けてやったのも、上記の事件があって正之が”借り”をつくっていたからであった。おまんの方の愚かな行為で、正室媛姫を失った上杉綱勝に対し、「申し訳ない」と思い続けていた正之のせめてもの償いであったろう。
      ◇   ◇   ◇
 最近、筆者のブログを探しあてた読者から、6月3日の第6回會津藩士慰霊祭への参加申し込みやら問い合わせが続いている。ネットの重要さを今更ながら実感している次第。筆者のブログは會津に関するものだけに留まらず、時事問題、政界の話題など幅広く、自分で思ったこと、腹立たしい民主党政権への苦情ををそのまま掲載している。
 それにしても「會津」という言葉、文字は、正に全国区であることだ。会津若松市では意外に知られていないのが実情だ。寂しく、廃れゆく感じの駅前や中心商店街を見るのは実に忍びない。何とかしてほしい、何とかしたい、できないか、自問自答の日々である。
2012年05月18日(金)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(9)
 要するに、おまんの方は、自分が産んだ媛姫が米沢30万石へ嫁したのに、お国御前のおしほの方の娘松姫は、何と加賀100万石に輿入れすることに、猛烈な嫉妬心をおこしたのだ。
 彼女は嫉妬のあまり、自分付きの奥女中たちに命じて松姫の御膳に毒を盛らせたのである。
 しかし、松姫付きの老女野村おきさの機転で、松姫の膳は媛姫のそれと取り替えられた。その結果、おまんの方は、実の娘である媛姫を毒殺してしまったのである。
 事の真相を知った正之は激怒し、おまんの方の意を汲んで働いた老女三好以下18名を処刑したのである。
2012年05月17日(木)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(8)
 さらに、『松平小君略伝』の該当部分が詳しい。
 「清光院殿(媛姫)は姉君ながら加州(加賀藩)と較べて家格も禄も遥かに劣りつる上杉侍従綱勝朝臣に嫁し給ひしを、御母の聖光院殿心に深く嫉み給ひつれば、其気色を其の方の者どもさとり知りて、何をかなとたくらみ(略)其月26日(松姫の)御婚礼あるなれば、前日の25日清光院殿御見立て(送別)に芝の奥へ御出有りしかば、松巌院殿(松姫)御対面有りて後、御二方直ちに其座にて御膳を召すことになりつれば、聖光院殿方の者共、此の時を過さじと計りて松巌院殿の御膳部の中へ毒を入れ置き奉りける。
 野村是を見て進み出で姉君に先立ち御膳にすはらせ給ふことあるべからずと申し、御膳を自ら取り上げ、清光院殿の御膳を松巌院殿へ居(おき)直しつれば、其の計らひいたずらになりける」。
2012年05月16日(水)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(7)
 ところが、その夜から媛姫は「少々御虫気」状態になり、中屋敷のうちに養生することになった。
 初めは「深き御容体にもこれなく」見えたが、松姫の婚礼から2日後の7月28日の朝寅の刻(4時)に至り、にわかに急変。薬石効なく、18歳にして変死してしまったのである。
 このような自家に都合の悪い怪事件は、大名家の歴史では、「故ありて死す」などと書いて済ますのが普通であるが、會津藩では、事の真相を最後まで突き止めている。『家世実記』には、当日の項に愚直なまでに真相を伝えている。
 「お媛様は聖光院様(おまんの方)のお腹に候ところ、上杉家へ入らせられ、お松様は、御大家の方へ御縁組の段相妬み、奥において毒殺成してたてまつり候催しこれあり。その段、お松様老女野村耳に入れ候故、心をつけをり候へば、初めにお松様へお膳を居き候間、お媛様は御姉君の儀、(お松様は)御妹の御身として、お先に為(すす)め立つらるべき訳これなきの由、野村強ひて申し上げ、次のお膳をお松様に差し上げ候ところ、お媛様それより御病気につかせられ候よし申し伝え候」
2012年05月15日(火)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(6)
 事件は万治元年(1658)7月に起きた。おまんの方が産んだ長女媛姫は明暦元年(1655)米沢藩主上杉綱勝に嫁いでいたが、3年後の万治元年に側室おしほの方に産まれた四女松姫が、将軍家綱じきじきのお声掛かりによって加賀藩主前田綱紀に輿入れすることになった。
 会津の国許で育てられていた松姫は11歳で、国家老今村伝十郎や老女の野村おきさと共に會津を明暦4年(1648=7月23日に万治と改元)6月22日出立し、江戸・芝新銭座の會津藩中屋敷に入ったのは7月2日であった。
 翌日、将軍家綱自らが祝金一万両を下賜、加賀藩でも、将軍補弼役の正之の縁続きになることを大喜びしたから、会津藩中屋敷は、それこそ華やいだ雰囲気に包まれた。
 婚礼を翌日に控えた7月25には、腹違いの姉媛姫も米沢藩江戸屋敷からお祝いに駆け付け、松姫と一緒に夕食を楽しんだ。
2012年05月14日(月)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(5)
 第13条に「法を犯す者は、宥すべからず」とあるのは、武断政治から文治主義の政治へと切り替わるべき時代の流れに棹さした人物の言であろう。
 さらに面白い(興味を引く)条項は第3条である。「婦人女子の言、一切聞くべからず」というのだ。
 事件は10年前に起きた。正之の正室は寛永10年(1633)に娶った磐城平藩の藩主内藤左馬助政長の娘菊であった。しかし、寛永14年(1637)20歳で逝去してしまう。その1年後には、長男幸松も夭折し、悲嘆にくれた正之は、京都・上加茂の神主の娘おまんの方を継室つまり後妻とした。おまんの方は多産の質で、四男五女を産み落とした。
 さらに正之は側室として3人を召し抱えた。このうち、おしほの方は京都生まれで保科家に奉公するうち、正之の寵愛を受け、三女菊姫、四女松姫を出産した。
 正之は寛文12年(1672)12月18日、62歳で波乱に富んだ人生を終えるが、併せて5人の女性に合計15人の子供を産ませており、かなりの好色家ではなかったろうか(羨ましいなあ!)
2012年05月13日(日)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(4)
 第一条が會津藩の精神を端的に示す条項といえる。現代語に訳せば、「徳川将軍家に対して一心に忠義に励むべきで、他藩と同じ程度の忠義で満足してはならない。もし将軍家に対して逆意を抱くような會津藩主が現われたら、そんな者は我が子孫でないから、決して従ってはならない」というのだ。
 秋霜烈日というほどの徳川家への一途な思いがこめられているではないか。徳川2代将軍秀忠が生涯で一度の浮気をした相手お静の子に生まれ、信州・高遠藩3万石の小藩主から、異母兄の3代将軍家光に見い出され、會津23万石の大守に出世した保科正之は、幕政の中心で活躍したのだが、終生、自分を見い出してくれた兄家光への恩義を強く胸に秘め、足掛け23年間も江戸に留まって幕政の柁をとり、4代将軍家綱の補弼役を努めていたのだ。
 そうした正之にとって會津藩立藩の根源を、この一条に込めたのである。
2012年05月12日(土)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(3)
1、近侍者をして、人の善悪を告げしむべからず。
1、政事は、利害を以て道理を抂(ま)ぐべからず。僉議(せんぎ)は、私意を挟み人言を拒(ふさ)ぐべからず。思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相争うと謂ども、我意を介すべからず。
1、法を犯す者は、宥(ゆる)すべからず。
1、社倉は民のためにこれを置く。永利のためのものなり。歳饑(としう)えれば則ち発出して、これを済(すく)うべし。これを他用すべからず。
1、若しその志を失い、遊楽を好み、驕奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表蟄居(ちっきょ)すべし。

 右十五件の旨堅くこれを相守り、以住(以後)、以て同職の者に申し伝うべきものなり。

 寛文八年戌申四月十一日            會津中将 印

                           家老中

2012年05月11日(金)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(2)
 『会津若松史』第三巻にある読み下しから。

1、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら拠(お)るべからず。若し二心を懐(いだ)かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
1、武備は怠るべからず。士を選ぶを本(もと)とすべし。上下の分を乱るべからず。
1、兄を敬い弟を愛すべし。
1、婦人女子の言、一切聞くべからず。
1、主を重んじ、法を畏るべし。
1、家中は風儀を励むべし。
1、賄(まいない)を行い、媚を求むべからず。
1、面々依怙贔屓(えこひいき)すべからず。
1、士を選ぶに便辟(べんべき)便佞(べんねい)の者(心のねじ曲がった者)を取るべからず。
1、賞罰は、家老の外、これに参加すべからず。若し位を出ずる者あらば、これを厳格にすべし。(続く)

会津藩家訓
2012年05月10日(木)  「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(1)
 会津藩には、「家訓(かきん)15ヶ条」と「什の誓い」があるのは有名な話だ。幕末、最後まで徳川幕府を守ろうと、薩長勢力に対抗し、やがて「滅びの美学」ともいうべき戊辰戦争へ突き進む。
 直接の引き金になったのは、勤王、佐幕で揺れ、収拾がつかず、無政府状態にあった京の町を守るため、幕府は京都所司代の上位に京都守護職を臨時に設け、会津藩主松平容保に要請したことであった。
 火中の栗を拾うようなものと藩士たちは反対したが、時の越前藩主松平春嶽が「会津藩祖土津様(保科正之)がいうたではありませぬか。他藩がいかようにあろうとも会津藩だけは格別じゃと」と口説かれて引き受けたのである。
 以後、会津藩は1000名の藩士を引き連れて京の町へ乗り込み、騒然とした街中に厳しい取締の網を巡らす。旗下の新選組の荒々しい取締が、会津藩への恨みを買い、戊辰戦争へ繋がって行く。
 以下、順を追って、会津藩の憲法ともいうべき家訓15ヶ条を説明する。
2012年05月09日(水) 日本の電気事業(最終回)
 電気料金の算定には、電力会社が設備投資や保守管理費、人件費などのコストを基に利益を上乗せして算出する「総括原価方式」を採用している。しかし、政党への献金も含めていることに、反撥する声が起きている。
 また火力発電の燃料の石油や液化天然ガス、石炭の調達価格を機械的に反映させる「燃料費調達制度」がある。
 平成23年4月から加算されている太陽光発電促進付加金は、太陽光発電の余剰電力を電力会社に買い取らせるため、費用の一部を全戸が負担する制度だ。1か月の使用量が300キロワット時の標準家庭なら電気料金は3〜21円の負担増になる。
 この夏、東電は7月から家庭向け電気料金を10.3%値上げする方針で、週内にも経産省に申請する。また関電は、大飯原発再稼動がない場合、電力供給量が14.9%不足するという見通しを示している。
 しかし、一般家庭にとって、電気量が高いーからといって他に選べる電力会社はなく、地域独占の弊害だけが表面化している。
 民主党政権は将来的に原発を続けるのかどうか、長いスパンの見通しを示すことさえ出来ず、日本の将来は暗い。(完)
2012年05月08日(火) 日本の電気事業(12)
 国内の周波数統一の声は、以前から根強いのだが、しかし、インフラを見直す大掛かりな作業になるため、設備の変更には用地買収なども含めて数十兆円単位の費用が必要ーという見方がある。統一を目指すなら、テレビの地上放送の完全デジタル化のように、政府が音頭をとる必要があるのは、いうまでもない。
 電力会社は地域独占を認められた代わりに、電気事業法で安定した電力供給を義務付けられ、料金の決め方も細かく規定されている。
     ◇   ◇   ◇
 筆者のサイトに、最近、会津藩関係の読者から問い合わせがあるので、この電気事業関係が終了したら、「家訓15ヶ条」や「什の掟」について述べてみたい。
2012年05月07日(月) 日本の電気事業(11)
 敗戦後、周波数を統一すべきと、議論が起きたが、戦後復興が急務として統一は具体化されなかった。
 ただ、東西間で電力を融通するため、周波数を変える設備は作られた。電源開発が65年(昭和40年)静岡県に、77年(同52年)には東電が長野県に、06年(平成18年)には中電が静岡市に、それぞれ周波数変換所を設けた。
 しかし、3か所で変換できる電力は100万キロワットしかなく、東日本大震災直後に1000万キロワット近くになった東電の電力不足を補うのは不十分であった。
     ◇   ◇   ◇
 今年で第6回会津藩士慰霊祭は6月3日、富津市竹岡の松翁院で行うが、例年になく話題の多い慰霊祭になりそうだ、上総国飯野藩の剣術指南、森要蔵が戊辰戦争で会津藩救援に向い、白河城を巡る戦いで戦死したのを『会津人群像』17〜19号で連載したのをきっかけに、飯野藩士花沢金八の子孫と連絡がとれ、外国で拳法を教えているという子孫に、慰霊祭への参加を呼び掛けている。
 さらに、三浦半島会津藩士顕彰会から新選組隊士斉藤一の子孫が参加する予定。福島市からは会津藩家老西郷頼母の子孫も駆け付けてくれる。
 会津藩と飯野藩は保科正之以来、親子の関係が続いており、会津と富津、それに横須賀と「江戸湾を巡る絆」がここに実現しそうだ。嬉しい!
2012年05月06日(日) 日本の電気事業(10)
 さて、目を国内に向ける。わが国の電気の周波数は、新潟県糸魚川市から静岡県の富士川を境に、東日本は50ヘルツ、西日本が60ヘルツになっている。
 筆者は現役時代、浜松支局に勤務したことがあるが、周波数が違うことで、洗濯機やレンジなど電気製品を新しく買い揃えた経験がある。関東地方の製品では、例えば洗濯機をそのまま使うと、回転数がゆっくりで、「洗濯」にならない。
 東と西の電力供給網は事実上、分断されており、電力不足の首都圏に西日本からの電力は少ししか送れないのだ。この夏、福井県の大飯原発が停止して電力不足が予想される関西に、東電などからの送電は不可能なのだ。
 周波数の違いは、明治時代、東電の前身である東京電灯がドイツ製の50ヘルツの発電機を、関西電力の前身の大阪電灯がアメリカ製の60ヘルツの発電機を導入したのが発端だ。
2012年05月05日(土) 日本の電気事業(9)
 原子力発電を推進するフランスは、電気事業の公益性を重視し、最大手のフランス電力会社(EDF)を民営化後も、政府が株式の8割を保有している。
 一方、一連の自由化は、コスト競争が激化するあまり、送電システムの管理や更新が不十分となる危険性もある。
 アメリカでは、00年(平成12年)夏からカリフォルニア州で大規模停電が頻発する問題が起きた。
     ◇   ◇   ◇
 本日、北海道電力泊原発3号機が定期検査のため停止する。現在、国内で稼動している唯一の原発で、国内の原発50基(54基と前述したが、福島第一原発の1〜4号機は廃炉が決定したため50基に)全てが止まる。
 原発すべてが停止するのは1970年(昭和45年)以来42年ぶり。関西電力大飯原発3、4号機の再稼動に向けた関電と政府の地元への訴えが続いているが再稼動ありきーの姿勢に地元や京都府、滋賀県など周辺自治体の不信感は強く、見通しは立たない。
 この際、じっくり時間をかけ、節電について話し合うべきだ。繁華街の夜間照明制約、自販機半減、テレビの昼間放映停止など大胆な提言をする。立ち止まって身の回りを見直し、時代を巻き戻すのも一つだろう。
2012年05月04日(金) 日本の電気事業(8)
 一方、海外ではー。欧州には、国営や公営の電力事業者が多かったが、90年代に欧州連合(EC)が電力の自由化を導入したため、相次いで民営化された。競争原理の導入で、電気料金引き下げが期待できるためだ。
 英国は発電と送電を独占していた国有発送電局を、発電三社と送電1社に分割民営化した。これに伴って、新規参入が相次ぐ一方、大手電力会社は、ドイツやフランスなどの大手エネルギー会社に次々と買収された。
 現在の電力の小売り市場は大きく6グループに分かれ、顧客は電力の購入先を選ぶことができる。 
     ◇   ◇   ◇
 昨日3日は憲法記念日。ラジオ放送で元共同通信記者の青山繁晴氏が「憲法記念日は誤りだ」と力説していた。日本国憲法が発布したのは昭和22年(1947)5月3日。連合国の占領下、米軍主導の英文で書かれた憲法を押し付けられた日だ。 
 祝うべきは、昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発行した日であり、さらに昭和47年(1972)5月15日、沖縄返還で本土復帰した日である、という。
 考えてみれば、その通りだ。憲法改正などで騒ぐだけでなく、本当の祝日を祝うべきなのだろうな。
2012年05月03日(木) 日本の電気事業(7)
 04年(平成16年)には500キロワット以上の中規模工場などに対象が広がり、05年からは町工場や雑居ビルなど50キロワット以上の小規模な事業所にも対象を広げた。全販売電力量の63%に相当する分野への参入が自由化された。 
 この一連の自由化で、日本の電気料金は2割ほど下がり、原油高などで上昇したイタリア、ドイツよりも安くなった。
 ただ、PPSはガス会社や商社など46社にとどまり、販売電力量は自由化部分の3%しかなく、電力10社による地域独占体制は続いている。 
 10社とは、北海道、東北、北陸、東電、中電、関電、中国、四国、九州、沖縄で、沖縄以外の九社で原発が54基ある。
2012年05月02日(水) 日本の電気事業(6)
 1990年(平成2年)代に入り、電力市場の自由化が動きだした。 バブル崩壊後の景気低迷を背景に、産業界から、欧米より2〜3倍も高い電気料金への不満が高まり、競争原理の導入を求める声が強まったためだった。
 その第一弾は、95年(平成7年)の電気事業法の改正で、電気を長期に亘って電力会社に売る卸分野への参入が認められた。阪神大震災で被災した神戸製鋼所は、この規制緩和を受け、出力70万キロワットの石炭火力発電所2基による電力卸供給(IPP)を手掛ける日本最大級のIPP事業者になった。
 電力の小売り自由化は少し遅れて2000年(平成12年)からで、最大使用電力が2000キロワット以上の大工場や百貨店などを対象に、国に届け出た事業者(PPS)であれば、自由に電気を売れるようになった。
2012年05月01日(火) 日本の電気事業(5)
 敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は、電力の国家管理が戦争遂行の遠因になったとして、日本政府に電力事業の再編を求めて来た。
 松永はすでに70歳を超えていたが、国の電気事業再編成審議会の会長に起用された。松永は、全国を9ブロックに分け、各地に民営の電力会社を一社ずつ置くことで、過当競争を防ぎながら、民間の経営手法を活かすべきと考えた。
 この案はGHQから支持され、日本発送電は1951年(昭和26年)、9電力会社に分割、再編された。
 沖縄県が1972年(昭和47年)、日本に復帰したのに伴って沖縄電力が設立され、現在の10社体制になった。
 電力9社の発電能力を補うため、52年(昭和27年)に誕生した電源開発、原子力発電事業の先導役として57年(昭和32年)に発足した日本原子力発電がこれにあたる。
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