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2012年07月31日(火) |
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軍都・若松(27) |
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大正元年(1912)、清朝滅亡後の中国では、各地に私兵を抱えた軍閥が群雄割拠していた。国民党の指導者蒋介石は、各地の軍閥と戦って国内統一を目指した。昭和3年(1928)、蒋介石は北京を抑えて新政府を樹立したので、その勢力は満州にも及ぶようになった。
国内統一が進行する中で、不平等条約によって中国に権益を持つ外国勢力を排撃する動きが高まってきたのは当然の帰結であった? 暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受けたため、過激な性格を帯びるようになり、日本製品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になって来た。
一方、日本国内では、大正末期から昭和の初めにかけて政党による政党内閣の政治が定着し、英米と協力し、中国のナショナリズムにも同情をもって寛大な態度をとって来た。これに対して、軟弱外交として批判する声が強くなってきた。 |
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2012年07月30日(月) |
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軍都・若松(26) |
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ここで大正時代から昭和初期へかけての世界の情勢に目を向ける。第1次世界大戦(1914年)の後、世界一の経済大国になったアメリカで、昭和4年(1929)10月、株価が大暴落し恐慌が起った。アメリカは自国産業保護のため、外国からの輸入品に極端に高い関税をかけた。
このため1年半にわたって貿易は半減し、世界恐慌に発展した。アメリカへの輸出に頼る日本経済は大打撃を受け、大量の失業者が街にあふれた。世にいう昭和恐慌である。農村ではアメリカ向け生糸の輸出額が半減し、昭和6年(1931)の東北地方を襲った凶作が二重苦となった。親の借金の肩代わりに娘を都会に売るーという家庭まであらわれた。
政府は充分な対応をしなかったため、政党政治に対する信頼が揺らぎ、この経済的困難を打開するため注目を集めたのが中国の東北部にある満州だった。 |
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2012年07月29日(日) |
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軍都・若松(25) |
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昭和13年(1938)7月15日、牡丹江省掖河に移駐し、同地区付近の警備を担当、その後、馬橋河周辺を警備していたが、翌14年8月29日、ノモンハン事件の戦闘に参加するため、ハイラル経由で現地に向い、急行軍で敵機の襲撃を受けながら昼夜兼行で進軍した。
9月7日、将軍廟に到着して配備につき、ソ連軍と対陣中の9月16日、日ソ停戦協定が成立して9月23日、現地を出発し、駐屯地の掖河に帰還した。
ノモンハン事件参加の29聯隊の編成は聯隊長佐藤半七大佐、副官井上精一大尉、第1大隊長遠藤重助少佐、第2大隊長渡辺勝利少佐、第3大隊長吉井忠雄少佐で、ソ連軍はジューコフ大将指揮下の狙撃師団5ヶ師団、機械化7ヶ旅団、外蒙騎兵3ヶ師団、極東空軍の大部分であった。
昭和15年(1940)10月20日、現地警備を交代して同月31日、衛戍地若松に帰還した。 |
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2012年07月28日(土) |
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軍都・若松(24) |
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石黒隊の自動車郡は炎上し、全滅の危機に瀕した。しかも29聯隊の主力は後方65キロにあった。
「石黒隊苦戦」の知らせを受けた聯隊主力は21日午後2時、無線連絡をうけて直ちに新庄を出発。昼夜兼行の強行軍で翌朝9時に現場に到着した。江口小三郎少佐率いる第3大隊は兵団の予備隊であったが、急行軍で戦場に向い、22日午後9時に到着した。
戦闘は22日午前9時から23日午後3時まで続き、激戦となったが、敵魏楼軍はようやく敗走し、石黒隊はことなきを得た。
◇ ◇ ◇
ロンドン五輪が28日開幕した。開会式は午前5時から始まり、目覚ましをかけてテレビのスイッチを入れたが、時間がかかるので一旦、ベッドへ。午前8時過ぎ、再びスイッチを入れ、ようやくセレモニーの最高潮を観た。最後はポール・マッカトニーの登場で盛り上がった。
4年前の北京五輪を思い出した。口パクの偽者を登場させる架空式典に空しさを感じたものだ。「みせかけ」を演出してまで五輪を招いた中国の後進国ぶりを感じ、あの国は世界の一流国の仲間入りするのは20年早い、とつくづく思った。 |
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2012年07月27日(金) |
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軍都・若松(23) |
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29聯隊は若松に帰営後、姑くは静養と訓練に明け暮れたが、やがて支那事変勃発とともに満州再派遣命令が下った。昭和12(1937)年4月18日、若松を出発、朝鮮経由で満州に到着、三江省通河付近の警備に任じた。
翌13年4月28日、ハルピンに移駐、さらに5月10日、急遽北支派遣命令があり、ハルピンを出発し、6月21日、徐州会戦に参加した。
29聯隊は覆面部隊として第2師団第3混成旅団に組み入れられ、田村元一少将の下、飯島信之大佐の29聯隊の他、第4聯隊や野砲2個大隊などが加わった。
戦闘は5月19日から開始された。第1大隊の石黒攻隊は先遣隊として帰徳攻撃準備の為、30台の車両編成で魚台を出発し、帰徳東方の劉提圏駅を目指した。
20日この駅の敵を鎧袖一触、21日朝には同駅を出発し、前進中に敵と遭遇、攻撃をしたが、敵は兵力を増強して反撃に転じ、21日午後に、石黒隊は敵に包囲されてしまった。 |
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2012年07月26日(木) |
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軍都・若松(22) |
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この後、29聯隊は哈市東方の反吉林軍に対する作戦や、奉天警備、さらには吉林警備を担当し、奉天付近に8月18日夜半、来襲した5〜600名の匪族を撃退して掃討作戦を実施。9月25日には、吉教線警備を歩兵第30聯隊と交代することになり吉林を出発。吉林ー蚊河間の警備を担当、各隊は数名〜数十名に分散して駅や橋梁の守備と沿線に策動する匪族を撃退しつつ、鉄道の運行の安全を確保した。
29聯隊は、渡満以来、満州の広大な地域にわたり戦闘に、警備に掃討作戦に寧日なく奮闘し大きな足跡を果たした。昭和7年(1932)12月24日、内地帰還の命令を受け、吉林を出発して奉天に終結。
12月31日、思い出多い奉天を満州国民、在留邦人の熱狂的な歓送を受けて出発し、朝鮮経由で翌8年1月3日、釜山から乗船して1月6日、懐かしい衛戍地若松に帰った。
満州事変での29聯隊の戦死者は将校2名、下士官兵52名、負傷者は将校5名、下士官兵153名であった。 |
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2012年07月25日(水) |
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軍都・若松(21) |
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昭和7年(1932)初頭から反吉林軍丁超指揮下の部隊は、哈市付近にあって勢力を強め、このため同地区の反日感情は悪化し、居留邦人は危険に陥った。第2師団は邦人救助と丁超軍討伐の為作戦を開始した。
29聯隊は1月29日、奉天を出発して長春に集結した。そして2月1日、自動車輸送で出発、双城堡を経て哈市に向い、前進した。敵と交戦しながら撃退して5日、哈市に入城。領事館に籠城して戦っていた邦人を救出した。
3月1日、満州国建国の宣言があり、9日、建国記念日の祝典が行われた。世界に悪名を広めた支那進出の代名詞が満州国建国で関東軍の傀儡政権が誕生したのだ。
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今年の高校野球千葉県大会で、24日木更津総合高校が優勝した。しかし、今大会ほど盛り上がりに欠けた大会は記憶にない。準決勝から行われたマリン球場の外野席はガラガラ。まったく知名度の低いチームが勝ち上がってきたのが原因だ。柏日体、専大松戸、松戸国際はまったく知らなかった。
銚子商業、習志野、成田、市船など伝統校が出れば、外野は満員、球場が盛り上がるのは勿論だが、県内もヒートアップするのだ。それがなかった。辛うじて木更津総合が勝ってよかった。甲子園での活躍を祈る。 |
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2012年07月24日(火) |
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軍都・若松(20) |
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聯隊は第2師団の左追撃隊の本隊として11月18日午後1時、頭站を出発、夕刻には東支鉄道を越えてチチハルに向い、不休の追撃を続行して翌19日午後3時半、チチハル南大営に入った。
この作戦は烈風10数メートル、零下20数度の寒さに対して実施され、日本軍の防寒具の不備は、敵弾よりも兵力を消耗し、聯隊の凍傷患者は167名に達した。こうした劣悪の状態の中、爾後、聯隊はチチハル付近の警備にあたり、12月3日、ようやく奉天に帰還した。
満州事変勃発当時、張学良は北平にいたが、奉天を失うと、錦州を反攻拠点として吉林、黒龍江両省の首脳と連絡をとることに努める一方、東北辺防軍の残存部隊を錦州付近に集結させ、日本軍の占領地域に対してゲリラ戦を指導しつつあった。
この敵に対して第2師団は軍命令により12月末、作戦行動を開始した。第2大隊は12月23日、奉天を出発、野砲歩兵第2聯隊長の指揮下に入り、牛荘城付近の匪族掃討戦に参加。聯隊主力は12月26日、奉天発營口に至り、第2大隊と協力して微弱な敵を掃討しつつ前進し、昭和7年(1932)1月元旦を北寧線で迎えた。 |
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2012年07月23日(月) |
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軍都・若松(19) |
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わが国の利権鉄道の兆昂線と江橋の橋梁は、黒竜江軍(馬占山軍)によって破壊され、修理のため出動した歩兵第16聯隊の支隊は、11月4日から馬占山軍の優勢な部隊の攻撃を受けて苦戦となり、29聯隊の第1大隊は同支隊救援の命を受け、翌5日未明から北上して戦闘に参加し、6日大興に進出して同支隊の架橋援護に任じた。
当時、馬占山は周辺に陣地を構築し、チチハルの間に大兵力を集中して戦備を整えつつあった。第2師団は、この敵に対して、その兵力を大興付近に終結するよう命令を受け、聯隊主力は13日、鄭家屯を出発して北進し、15日、大興に到着、第1大隊と協力して三間房付近の敵陣地に対する攻撃の準備を開始した。
17日夜、聯隊は左翼隊の第1線として、日没とともに行動を開始、敵前1000メートルに展開した。北満は寒気が厳しく凍土は尺余(30センチ)に達し、将兵の行動は困難を極めた。翌18日午前9時、攻撃を開始し、40分には敵の三間房付近の主陣地を突破して正午には、頭站に進出した。 |
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2012年07月22日(日) |
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軍都・若松(18) |
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9月23日、29聯隊は朝鮮から派遣部隊と、奉天付近の警備を交代し、25日、長春に前進した。次いで29日には鄭家屯に転進し、同地と遼河鉄橋の警備に就いた。
当時、この付近の匪族の邦人に対する危険が迫っており、警備を厳重にする必要に迫られたのである。12月28日、わが第2大隊主力は、四逃線方面にある7、800名の匪族を掃討するために出動し、第5中隊は1時間の激闘を展開し、中隊長栗原信一郎大尉以下3名が戦死、下士官と兵3名が負傷、満州事変で最初の戦死者を出した。 |
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2012年07月21日(土) |
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軍都・若松(17) |
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昭和6年(1931)9月18日午後10時25分、柳条溝で1発の爆発音が響き、これをきっかけに独立守備隊第2大隊と支那の東北軍の衝突となり戦闘が開始された。満州事変の勃発であった。
わが歩兵第29聯隊は奉天城攻略の命令を受けて直ちに出動、迅速果敢な行動によって第1大隊は敵の第1、第3営追撃砲廟を、第2大隊は奉天城を占領した。翌19日午前6時には、平田幸弘聯隊長は奉天城頭高く軍旗を掲げて東天を拝し、陛下に戦勝を奉上した。
次いで第2大隊は奉天内城の警備につき、その他の部隊は遼陽から到着した歩兵第16聯隊と連係して東大営を攻撃して午前11時40分、これを占領。わが聯隊が全満州の政治経済の中枢張学良の牙城であった奉天城を迅速に占領したのは、敵の戦意を失わしめ関東軍全般の作戦を有利ならしめたのである。 |
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2012年07月20日(金) |
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軍都・若松(16) |
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昭和6年(1931)4月9日、若松29聯隊の渡満部隊は聯隊本部と第1、第2大隊、機関銃隊、歩兵砲隊、山砲小隊で編成され、留守部隊と袂を分かち盛大な歓送のうちに若松を出発。同月16日、在留邦人の熱狂的な歓迎と大きな期待を受けて奉天に到着した。
当時、満州における対日感情は、日に日に悪化の一途を辿り、万宝山事件や中村大尉事件をはじめ排日、侮日事件が続出、日支両軍の衝突は日時の問題として懸念された。
関東軍の兵力は、駐屯師団5千、独立守備隊6千の計1万1千。その配置は満州鉄道沿線の1千キロに分散されていた。
これに対して在満支那軍は総数50万に及び、兵力差は甚だしく、有事の時に全満在留邦人20万余の生命、財産を守るのは困難な情勢であった。 |
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2012年07月19日(木) |
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軍都・若松(15) |
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大正14年(1925)1月、29聯隊は仙台から若松へ移駐することになった。軍都の誕生である。兵舎は鶴ヶ城の前、郭内と呼ばれた武士の住む一角だった。戊辰戦争で焼け野原となっていたが、明治になって「栄えて欲しい」という願いが込められて栄町と命名された。
その正門が今に残る市立2中前の赤門である。名残りはもう一つ。正門に向って右に蒼い2階建ての木像建物がある。憲兵隊の兵舎である。元会津史談会会長の故大塚実さんは、「昭和の近代遺産として残すべき」と主張していたが、そのままになっている(はずだ)。
昭和初期の日本は、対外的には軍縮問題、世界同時恐慌などがあり、対外外交は行き詰まり、困難な問題が重なった。こうした中にあって、日露戦争の結果、獲得した満州の特殊権益の擁護が経済不況打開のため、国防の隊一線として重要視されてきた。
以上の情勢下で第2師団は昭和6年(1931)、満州へ渡ることになり、聯隊の将兵は欣喜雀躍し、まだ見ぬ満州の大陸に思いを馳せ、渡満前の1年間、猛訓練に明け暮れた。 |
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2012年07月18日(水) |
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閑話 |
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このところ、民主党から離党する議員が相次いでいる。大飯原発再稼動に対する決定への不満、消費税増税への反対、尖閣諸島に対する丹羽中国大使を更迭しない党への不満など、ヒラ議員だけでなく前原政調会長さえオスプレイの沖縄配置に対して米の言いなりの野田へ苦言を発するなど、もはや政権党の態はなしていない。
原発問題は最も注目される。作家大江健三郎が呼び掛けた「さようなら原発東京10万人集会」には17万人も集まり、原発の地元福島から参加した被害町民が切々と原発の恐ろしさを訴えたし、毎週金曜日の首相官邸のデモにも数万人が集まるようになった。マスコミに関係なく、ネットの呼び掛けというのが特徴だ。
これよりも怒りたいのは、政府主催のエネルギー政策の意見聴取会に電力会社の社員が平然と参加して「福島原発事故の放射能で死亡した人はいない。10年たっても同じだ」と被害住民の神経を逆なでした発言だ。
放射能汚染で故郷を失って生活基盤を奪われ、家族バラバラでアパート暮らしーの住民。中には、将来に悲観して自殺までした人がいるのだ。原因発生者を参加させるのは「やらせ」以外何物でもない。
仙台、名古屋の集会は民主党政府の恥部を露呈した。17日ようやく政府は電力会社の社員の参加は認めない、と発表したが、すでに遅かった。
国民を馬鹿にしている民主党政権、一日も早く退場せよ! |
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2012年07月17日(火) |
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軍都・若松(14) |
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日露戦争後は、ロシア極東のデカストリー(泥港)に於ける赤衛軍(パルチザン)の横暴は、略奪、虐殺が相次ぎ、大正9年(1920)3月31日、日本守備隊に対して武装解除を要求し、これに応ぜざる時は武力に訴えるーと4月1日までの回答を突き付けて来た。
守備隊長石川少佐は日本領事及び海軍側と協議の上、同日午前2時を期して夜襲をかけることを決めた。石川少佐は兵士60名と機関銃1丁で敵の本部を掃討し、海軍無線電信隊はカプサンの家周辺の敵砲を奪取し、陸軍部隊の攻撃に協力することになった。
予定通りの行動に移り、各部隊は奮戦して12日朝までにパルチザン首領トリヤピーチンを負傷させ、参謀長以下多数を瀕した。この後の戦闘は激しさを加え、続々増加する敵パルチザンの数は4000を超え、石川少佐以下300余名は名誉の戦死を遂げた。この間、敵に捕えられた日本兵120余名は5月24日、敵の毒刃にかかって亡くなったことが判明した。
泥港事件後の平定のため、歩兵第3旅団の編成が下令され、極東守備の大任を帯びた29聯隊長中川茂雄大佐は決意を胸に秘め、大正10年6月24日、女川港から輸送船で任地に向い、広大な地域に分散して守備に徹し、約1年余の勤務を全うし、大正11年(1922)7月、山形歩兵第32聯隊と交代して帰郷した。 |
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2012年07月16日(月) |
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軍都・若松(13) |
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満州軍左翼方面の包囲作戦は進捗し、当面の敵は退却を開始したので8日、29聯隊は第2師団の前衛として進撃に移り、9日、渾河右岸に進出した。そして10日夕、撫順北方高地を占領、敵に大きな損害を与えて敗走させた。
この時、奉天陥落の知らせが届き、連日の激戦に休養睡眠共に不足し、身体綿のごとくであったが、志気凛然、「万歳」の声は天地を揺るがした。
爾後、敗走する敵を追撃し、15日、長駆して鉄嶺を占領した。この時、聯隊の全力は僅かに500に過ぎなかった。
10月16日、ロシアの敗北で平和が回復し翌明治39年(1906)1月1日、すべての凱旋を終り、4日、復員を完了した。戦役を通じ29聯隊の損害は戦死ー将校31名、下士卒621名、負傷ー将校93名、下士卒2444名。
歩兵第29聯隊には第1軍司令官男爵黒木為禎から感状が贈られた。
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昨夕、目の前の公園でセミの初鳴きを聞いた。あの暑い夏がやって来た。大木が多いので、毎年、セミの鳴き声がうるさい程だ。普段は静かなマンションも夏だけは喧しい。
しかし、片輪の身にとっては、寒さが禁物、暑さは歓迎なのだ。痺れが続く左足は「暑さよこい」。 |
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2012年07月15日(日) |
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軍都・若松(12) |
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聯隊長以下幹部の殆どを失って指揮の統一を欠いた聯隊は、隊伍混乱したけれど、全将兵は聯隊長の壮烈な戦死に奮起して午後5時20分、果敢な突撃を繰り返し同堡塁を奪取した。
島田聯隊長没後、田中館少佐が代わって聯隊を指揮し、数次の敵の逆襲を撃退して堡塁を確保し、爾後の攻撃を整えつつあった。
この頃、満州軍左翼の戦況は進展し、当面の敵が退却の兆しがあったので、敵の任意退却を阻止するため、田中少佐は残兵を糾合して前面の敵堡塁に対し奮戦陣頭で突入、堡塁を占領したが、後続隊がなく、敵の猛火に遭って全滅するに至った。
この時、長尾少佐が代わって聯隊を指揮し、無謀とも思える攻撃を続行したが、喜入少佐以下多数の兵力を失い、且、弾薬が欠乏したため遂に命令に拠って高台嶺東南陣地の戦線で部隊の撤収に努めた。時に4日未明であった。 |
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2012年07月14日(土) |
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軍都・若松(11) |
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渾河ー沙河間、50里(200キロ)に亘る戦線において、2月下旬、奉天会戦は開始された。日本帝国満州軍は東部山地方面右から鴨緑江軍第1軍、第2軍、第3軍とし行動を開始した。
敵の主力を東方山地方面に牽制して左翼方面から包囲して、敵の退路を遮断しようとする壮大な作戦であった。(この会戦は司馬遼太郎の『坂の上の雲』に詳しい)
3月2日、全線に亘る攻撃が開始され、29聯隊は集団の中央隊として敵の主陣地である高台嶺東南方地区の敵を攻撃すべき命令を受け、同日早朝から432高地及び高台嶺東南高地の敵堡塁に対して攻撃し、午前9時、432高地を占領した。が、高台嶺東南堡塁攻撃の部隊は、敵の猛反撃に遭って全将校を失い、兵士の過半数が死傷する惨憺たる情況であった。
島田聯隊長は苦戦の状態を目撃したが、軍全般の情況に鑑み、悲愴な決意を以て第一線の先頭に立ち、白刃を振るって敵堡塁に迫り、聯隊の志気は大いに上がった。
敵も守備兵を増強して防戦に努め、29聯隊の損害は益々大きくなった。このため、島田聯隊長は全身に敵弾を受け、壮烈な戦死を遂げた。 |
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2012年07月13日(金) |
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軍都・若松(10) |
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29聯隊主力は、10月11日夕刻から三家子攻略の為、夜襲を決行した。数百メートルの平野を猛烈な砲火の中、躍進し、午後7時30分、三家子部落の一角を占領し、支那部落の家屋土壁を利用して堅固に守備する優勢なロシア部隊に対して、部落内で戦闘を展開し、突撃に突撃を重ねて凄惨な戦闘を続行した。
午後10時頃には、敵を撃退することができた。翌12日、聯隊長の指揮する聯隊は上焼達溝北高地の敵を攻撃し、午後7時、同高地を占領した。この日の戦闘で第2大隊長は次々倒れ、三度交代するほどの激戦であった。
13日、敵は全面的に撤退を始め、わが各隊は追撃戦に移った。翌年まで戦闘は続き、2月20日、第2師団は廟爾溝北方高地から虎盤山付近に亘る間を占領して沙河左岸の敵と対峙するに至った。 |
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2012年07月12日(木) |
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軍都・若松(9) |
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満州の広野は、既に朔風寒く、薄氷も張ろうとしていた。10月初旬、遼陽で敗れたロシアのクロパトキンは、総反撃を決意し、優勢な兵力で攻勢に出て来て、日本軍の最右翼梅沢旅団方面に殺到して来た。梅沢旅団は危機に瀕した。
日本軍はロシア軍が運河左岸に兵力を集中しないうちに機先を制してこれを粉砕しようと全線で活動を開始した。前面の敵は10月9日、いよいよ活発になり、全線にわたって攻撃を開始してきた。
11日、第2師団は下焼達溝付近の敵を攻撃すべき部署を定められ、同日払暁から攻撃を始めた。第3大隊は師団の右翼隊として上葉河匈付近の敵を攻撃、14日朝、朝仙零の要地の奪取に至る間、松永旅団長の指揮下に入り奮戦した。
聯隊主力は初めは師団の予備隊であったが、10月11日、師団の三家子攻撃にあたり、島田聯隊長は第2大隊第1中隊を率いて第一線の参加を命じられた。 |
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2012年07月11日(水) |
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軍都・若松(8) |
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しかし、第2軍は31日、首山堡の堅塁を突破したため、敵は続々と退却を始めた。この間、29聯隊は大石門嶺を死守していたが、宝浄山を守っていた歩兵第15旅団は、敵の頻繁な回復攻撃を受けて全滅の恐れがでてきたため、9月2日、宝浄山の守備に協力せよーとの命令を受けて協同で敵を撃退した。
9月4日、聯隊は遼陽を攻撃する地点まで進出し、翌日、第2師団もまた追撃に移って聯隊は同夜、遼陽北方の鉄道線路に沿う肩身付近に進出、敵地を占領して奉天及び大東山保方面に対する警戒に任じた。
この会戦で29聯隊は弓張嶺の敵の要衝を突破した後、力戦奮闘10余昼夜、島田聯隊長の負傷を始め、多大の損害を蒙りながらもその任務を全うし、日本軍の作戦に絶大な功績を挙げた。
第2師団の弓張嶺の夜襲のように、師団が全力を挙げての戦例は古今東西になく、世界戦史上に燦然として光彩を放つものであった。 |
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2012年07月10日(火) |
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軍都・若松(7) |
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8月22日、第2師団は26日黎明までに弓張嶺、次湾南標高639高地間の敵を攻撃すべき、という軍命令を受け、29聯隊は弓張嶺付近の敵に対して攻撃すべしと師団命令を受けた。
聯隊はできる限りの攻撃準備を整えて、25日午後7時30分、敵に対して攻撃を開始した。
前面の敵は断崖絶壁に拠って固い守りであったが、聯隊の将兵は一列側面縦隊で岩間をよじ登り、少しずつ敵塁に迫って攻撃した。翌午前3時30分、敵は月明かりでわが聯隊を発見し、猛烈な射撃を開始した。
聯隊は、一列縦隊だったので躊躇すれば甚大な損害を受ける恐れがあったため、各部隊は一挙に全員突撃を敢行した。接戦格闘の結果、付近一帯の高地を確保し、頑強に抵抗する敵陣地へ昼夜の別なく攻撃を続行。29日には大石門嶺に進出した。
わが第2師団の中央突破によって第1軍は敵を撃退し、逐次太子河右岸に進出しつつあったが、満州軍主力方面においては、敵は第2線陣地を固守し、30、31日の戦闘は激烈を極めた。 |
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2012年07月09日(月) |
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軍都・若松(6) |
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遼陽は日露両軍ともに決戦地として主力を集中した。ロシア軍は付近に日本軍を誘い込み、一挙に撃破しようとする作戦を立て、所謂予定の退却を続けた。この間、集結した兵力は20万、火砲650門を越えた。
これに対して日本軍は兵力は13万人で、分進合撃の態勢で遼陽に迫った。第1軍は8月1日、遼陽の外郭である様子嶺などを次々占領し、第4軍は既に折木城を抜き、第2軍は8月3日、海城を破って敵を遼陽の主陣地に圧迫し、遼陽攻撃の態勢を整えた。そして8月15日総攻撃の作戦行動を開始するに至った。
遼陽付近のロシア軍陣地は3月以来、防御工事を急ぎ、遼陽を半月形の堅固な堡塁線を築いて囲み込む作戦だった。
第1軍前面の敵は、寒破嶺、弓張嶺などの線を占領し、日本軍の兵力を遥かに凌駕する優勢な部隊であった。 |
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2012年07月08日(日) |
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軍都・若松(5) |
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遼陽は、南満州の政治経済の中心地奉天に至る戦略上の要地で、日露戦争緒戦の決戦地とされた。第2軍は5月8、9日遼東半島に上陸、第10師団は5月26日、第1、第2軍の中間大狐山に上陸し、逐次、ロシア軍を撃破しつつ北進。第1軍はこれに呼応して遼陽の決戦場へ向った。
第1軍は6月30日、草河沿、北分水嶺、摩天嶺から八盤嶺を占領し、29聯隊は第2線部隊として連山関付近にあった。敵は陣地回復を狙って次々と攻撃を仕掛けて来たが、留守部隊はこれを撃退しつつあった。
しかし、ロシアの軍団長ケルレル中将の2個師団は、摩天嶺に殺到し双方、激しい砲撃戦となった。
このため29聯隊は急援の命を受け、第4代聯隊長島田繁大佐は、第3大隊を率いて急行し、敵の猛反撃を退けた。この戦闘で敵将ケルレルは戦死した。 |
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2012年07月07日(土) |
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軍都・若松(4) |
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九連城のロシア軍陣地は、天険の山岳を占め、前面には鴨緑江の合流を臨み、防備おさおさ怠りなく難攻不落を思わせるものであった。第一軍は5月1日を以て総攻撃を敢行することになり、第2師団は九連城を攻撃目標と定められた。
4月30日夜、行動を開始した諸隊は粛々として鴨緑江に架した軍橋を渡り5月1日未明、左岸に展開した。河は幅120メートルに過ぎないが、急流矢のごとく、その上、寒気は厳しく時々、氷塊が流れ来る有様であった。
部隊の将兵は、攻撃命令と共に遮断物さえない砂地を敵銃砲火を浴びつつ躍進し、次いで深さが肩までに達する濁流に身を投じた。水中で倒れる者多数に達したが、午前9時、第一大隊は渡河の先鋒となって敵陣地に突入した。
次いで九連城一帯の高地を奪取し、潰走する敵に対して猛烈な追撃射撃を加えた。
既に聯隊主力もこの付近に進出して隊伍を整え、同夜、安東省を占領した。このごとく聯隊は、日露戦争の緒戦において、その面目を発揮したのである。鴨緑江河畔の大勝を得た第一軍主力は5月13日、鳳凰城付近に進出し、爾後の作戦に備えつつあった。 |
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2012年07月06日(金) |
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軍都・若松(3) |
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これより先の2月5日、仙台の第2師団に動員令が下り、3月2日、仙台から出征の途に就いた。広島で第1軍司令官黒木大将の指揮下に入り、19日、宇品港で乗船して韓国の上陸地鎮南浦に向った。
3月25日、上陸を完了。第1軍は降雨泥濘の悪路の中を北進し、4月末、鴨緑江左岸に到着、対岸の九連城付近のロシア軍とにらみ合った。第2師団の、歩兵29聯隊の幸運は、203高地攻略を目指し、無謀な正面突撃を繰り返して数万の将兵を無駄死にさせた第3軍の乃木稀典大将の指揮下に入らなかったことだ。
鴨緑江の渡河作戦は満州に進撃するための戦略を左右し、緒戦の勝負は全軍の志気に影響するのみならず、全世界に対する外交上、極めて重要な作戦であった。
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若松聯隊は昭和20年8月15日の敗戦まで存在し、敗戦と同時に、聯隊の兵舎は、新しい学校教育制度で発足した若松市立第2中学校の校舎に様変わりした。筆者も鶴城小学校卒業後に2中に進んだが、校舎は薄暗く、つぎはぎだらけ。使わない周囲の兵舎は引揚者の住宅になり、現在は市営住宅となって、鶴ヶ城の目の前ながら、汚い姿を曝け出している。何とかならないものか、と通るたびに思う。 |
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2012年07月05日(木) |
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軍都・若松(2) |
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さて、歩兵第29聯隊は、明治29年(1896)11月16日仙台市で編成に着手し、同31年11月1日、全聯隊の創設を完了した。同年3月24日、宮中において大元帥陛下(明治天皇)は聯隊のために軍旗を親授され、翌日、宮城野原練兵場で軍旗授与式が行われた。
日清戦争(明治27、8年)の結果、わが国の領土になった遼東半島は露独仏の三国干渉によって清国へ返還させられた。しかし、ロシアはそれから間もなく旅順を占領し、さらに北清事変(義和団の乱)に乗じて満州を占領、朝鮮に向って侵略の手を延べ、直接、わが国を脅威するに至った。
わが国は東洋の平和のためロシアと協商したが、ロシアは少しも誠意を見せず、徒に交渉を引き延ばし、その間に極東における兵力を増強してわが国を威圧しようとした。
このためわが国民の憤りは絶頂に達し、明治37年(1904)2月10日、ロシアに対して宣戦の詔勅を発し、遂に日露戦争となった。 |
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2012年07月04日(水) |
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軍都・若松(1) |
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戦前、若松は軍都であったことを御存知であろうか。日露戦争に動員され、輝かしい戦果を治めた歩兵第2師団29聯隊が仙台で編成されたのは明治29年(1896)11月16日。日露戦争で明治37年(1904)に動員命令が下され、遼陽の戦闘や、沙河の会戦、黒溝台付近の会戦、奉天の大会戦など歴史に残る戦いに参戦し、凱旋した名誉ある聯隊である。
大正14年(1925)1月に仙台から若松に移駐となり、以後、満州事変から太平洋戦争の敗戦まで若松に。
もう一つの部隊は歩兵第65聯隊だ。こちらは明治41年(1908)10月22日、仙台で編成され、翌41年9月、若松の営舎に入た。こちらも支那に派遣され、南京攻略や徐州会戦で活躍した。
さらに昭和14年(1939)3月、29聯隊の守備隊の中に歩兵第214聯隊が臨時に編成され、南方に送られて無謀なインパール作戦に動員され、ビルマで終戦を迎えるなど苦しい時代を経験した。
筆者の母校会津若松市立2中の校門にある赤い門柱は聯隊本部の正門の名残りだ。生まれた甲賀町角の日本一本店前に憲兵隊があり、「豆双葉」と可愛がられたーと祖母や母がよくいっていた。御用商人だったので軍人が出入りしていた。
聯隊長が馬に乗って先頭で行進したのも懐かしい思い出だ。若い連中にはわからない軍都若松をレポートしよう。 |
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2012年07月03日(火) |
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江戸湾を守る(最終回) |
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敗れた林軍は4月27日、全軍箱根山中を退却し、新政府軍の受けて多数の戦死者を出しながら、十国峠を越え、熱海を経て網代港にようやく到着した。休む間もなく 申七つ(午後8時)に出航、館山港に向った。
この戦で新政府軍の主な墓地は小田原市板橋の宗福院に、林軍の墓は同市十字町の浄土宗大連寺や湯本早雲寺、宮ノ下の常泉院などに残っている。
林軍は28日未明、館山港に入港、30日まで滞留して身体を休め、この間、病人や老衰者には暇を取らせ、飯野藩、前橋藩その他の藩士は大部分が帰藩した。
しかし、飯野藩士の隊長であった大出辰之助らは会津藩の鶴ヶ城の戦にも参加し、その後、奥州各地を転戦して10月5日、仙台で新政府軍に降服した。(完)
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自民党は北海道9区の次期衆院選に堀井学道議(40)を擁立する。この選挙区は、鳩山由紀夫元首相の地盤。鳩山にオリンピック銀メダリストをぶつけるのだ。非常に面白い。
「トラスト・ミー」と宣うて普天間問題をこじらせ、民主党の政権能力のなさを露呈した鳩山。「首相を辞めれたら次の選挙には出ない」と公言しながら口も乾かないうちに前言を翻す馬鹿さぶり。消費税増税反対の投票をしながら「離党はしない」の浅ましさ。情けない男は絶対に落とさないといけない。
リレハンメル冬期五輪男子500メートル銀メダリストの勝利を祈る。 |
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2012年07月02日(月) |
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江戸湾を守る(10) |
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4月19日、林軍は香貴を出立し、箱根の山中村に本陣を置き、そこから出撃して箱根関所を攻撃した。2日間にわたり激しい戦闘を繰り広げて関所を占拠した。そして林軍は、新政府軍の軍監中井範五郎を斬殺して気勢を揚げた。
ひと休みして小田原藩と交渉に乗り出し、金1500両、米200俵、酒20駄の他兵器と弾薬を手に入れた。
その武器を携えて26日、危急をきいて駆け付けた新政府軍の長州、鳥取、岡山、小田原、藤堂藩兵と湯本、山崎方面で激戦を交えたが、林軍は敗れた。
この戦いで伊庭八郎は左手切断の重傷を負うなど、林軍の戦死者は35名、行方不明15名、負傷者20名の大きな損害を受けた。その大部分はこの日、一日の戦で受けた損害であった。
中でも勝山藩士は戦死5名(あるいは15名とも)、行方不明5名を出し、最も大きな損害を出した。
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関電大飯原発が再稼動し、再び原発に火が灯った。福島原発が収束せず、原因も特定できないままでの原発再稼動である。反対運動が起きるのは当然だ。現地の抗議行動は当たり前だが、毎週金曜日、首相官邸近くで開かれる「再稼動反対」の抗議行動は日に日に参加者が増えているようだが、読売新聞には登場しない。ナベツネが原発賛成で社内に反対の声が封殺された。馬鹿な編集委員は「原発必要論」を書いている。誰か、反対の声を上げないか?勇気のある記者はいないのか。現役時代、筆者は成田空港反対を「大義は農民にあり」と訴えたが、そうした記者は? |
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2012年07月01日(日) |
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江戸湾を守る(9) |
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ところで、4月3日、林軍は富津陣屋を襲う途中、飯野藩(2万石)に対しても助力を要求した。このため、飯野藩では、大出辰之助(70石)を隊長に服部左源太、山下広之助、本田梅之助、大出熊次郎、樋口謙蔵、玉置銑之透助、深沢弥三郎、冨樫紀一郎、小野金平、野間銀次郎、小野悦之進ら20名を参加させた。
野間銀次郎は道明(60石)の長男で26歳。講談社の創立者野間清治の伯父にあたる。降伏後、飯野藩士を代表して斬罪に処せられた。
飯野藩士は館山藩士と共に第五軍に属し、箱根の戦では後方を守備していたため大部分が帰藩したが、大出辰之助(註)、小野悦之進、伊藤波三郎の3人は行方不明となった。(註 大出辰之助の辰は金へんに辰であるがパソコンにないため辰にした)
さて林軍は5月1日、甲府に入ろうとして出立したが、中止し、再び黒駒に戻って来た。翌日、黒駒を出立して川口、須走を経て5日、沼津城の東、香貴(かんきー駿東郡揚原村)の霊山寺に駐屯した。これまでに駿府、岡崎両藩の脱藩者が加わって総員は300余名に膨れ上がった。 |
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