会津の歴史
河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2013年03月31日(日) 北越戊辰戦争(39)
 「不貞の奴というほかない。会いに来るなら会いに来る来方というものがある。朝命で命じたはずの軍資金と藩兵の差し出し、この二つを持ってきて始めて会うということになるのに、あの男の眼中には朝廷も官軍もない。砲弾を浴びせて目を覚ましてやる以外に方法のない男だ」
 「追うのでございますな」
と、報告者は云った。
      ◇   ◇   ◇
 会津若松市の県立若松商業高校の在京同窓会から講演の依頼が飛び込んできた。房総半島会津藩士顕彰会の会員である近藤さんが同窓会役員をしており、大河ドラマで会津藩が登場したので、郷里の勉強をーということになったようだ。
 山本八重を中心に会津藩の生い立ちや幕末の政治情勢などを講演しようと思っている。予想に反して低視聴率に低迷しているドラマに喝を入れたい。
2013年03月30日(土) 北越戊辰戦争(38)
 後年、岩村男爵は、この当時の事を回顧してこう語っている。 
 「河井は幾度となく、本陣の門にやってきて面会を乞い、ついに深夜にいたるまで門前の辺りをうろつき、しきりに取り次いでもらうことを乞うた。しかし、衛兵はこれをきかなかった。このことを今日になって考えてみると、河井にはあるいは彼が云うように戦意がなかったのかもしれない」
 どういう態度かと岩村は聞いた。報告者は、路上の継之助の様子を詳しく述べた。
 「態度は、ひどく慇懃でございます。ところが耳なきがごとく、帰れ、帰れといっても、聞こえぬそぶりで立ち尽くし、時々月を眺めて傲然としていたり、その辺りを歩き回ったりしております。せめて焚き火にでもあたれ、と申しましてもわずかに頭を下げるだけで、火には寄り付きませぬ」
 「追うのだ」
と岩村は云った。
2013年03月29日(金) 北越戊辰戦争(37)
 連中とは、長岡藩領の民間有志といわれている勤王派の者たちで、彼等は布団の上に座し、口々に云った。
 「騙されるな」
ということであった。
 「それは継之助の擬態であろう」
という。
 「彼は希代の剛愎人で、官軍を軽蔑し、合わせて官軍の様子を探ろうとしているのだ」
と云った。
 軍監の岩村高俊も起きた。行灯に火を入れさせて事情を聞いた。
 「いつ頃から立っている?」
と聞くと、報告者は「もう半刻(一時間)以上も前からでございます」
(気味の悪い奴だ)
と思った。
2013年03月28日(木) 北越戊辰戦争(36)
 「嘆願書なら、先刻の仁にも申した。軍監はお取り次はなさらぬ、と」
 継之助は、無言でいる。
 衛兵のいうことなど、耳に入らなかったような様子で、立っていた。衛兵の一人が
 「引き取られよ」
と、大喝したが、継之助は、
 「どうあっても引き取ることは出来ぬ。この場所に立っていることが、不都合ならば、銃をもって拙者を始末されよ」
と云った。
 そのまま、半刻ほど立っていた。衛兵の一人がたまりかねて屋内に入り、一室で寝ていた連中を揺り起こして相談した。
2013年03月27日(水) 北越戊辰戦争(35)
 継之助は、さっさと歩いて行く。松蔵の提灯がそれを追って行く。 
 やがて官軍の軍門に近づいた。軍門の周りには10人ばかりの衛兵が焚き火をたいて談笑していたが、営中は既に寝静まっているのか、灯下も消え果てていた。
 「誰だ」
と衛兵が怒鳴った。継之助は無言で近づき、やがて腰を屈め、
 「長岡藩家老河井継之助でござる」
ーまたか。
という表情で、衛兵たちは顔を見合わせたが、一人が、
 「嘆願書かね」
と百姓らしい面つきで云った。長州藩奇兵隊であるようであった。
2013年03月26日(火) 北越戊辰戦争(34)
 「もはや、万事休すでございます。この上は、嘆願などやめ、藩に帰り、藩を擧げて西軍に抗戦すべきでございましょう」
 「虎三郎」
 継之助は麻裃をつけながら云った。
 「短気は、止めやい」
 「これが短気でございましょうか。これ以上、受取ってもらえぬ嘆願書をもって、西軍の門前でうろうろすることなど戦怖しの臆病沙汰というものでございます」
 「俺が?」
 継之助は首をひねった。
 「臆病かな」
 そのまま松蔵ひとりを連れて外へ出た。天には、錐のように鋭い月がかかっていた。
2013年03月25日(月) 北越戊辰戦争(33)
 酔っているのか、と思い、二見は腹を立てて紙障子を開けると、広い座敷の真ん中で只一人、継之助はこわい顔でそれを歌っていた。既に酒器はその辺りになく、継之助はすこし首をかしげ、節回しに合わせて振っている。
 「不調でございました」
と二見虎三郎が報告すると、継之助は無言で何度も頷き、やがて
 「自分が行ってみよう」と、腰を上げかけた。
 二見はそういう継之助の態度にそろそろ業を煮やし始めていたから、
 「無駄でしょう」
と、不機嫌にそう言った。
 二見があれほど諸陣屋を駆け回って、しかもどの陣屋も相手にしてくれなかったのに、継之助が行ってうまくゆくかどうか。敵は家老が立ちん坊に来たと云って同情はせぬであろう。
2013年03月24日(日) 北越戊辰戦争(32)
 二見虎三郎は、その点が官軍の心証を悪くしたのだろうと思っていた。しかし、それを継之助に注意する気はなかった。継之助は二見にも
「ひたすらに下手に、ひたすらに謙って懇願せよ」
と注意したように、当人にすれば精一杯下手に出ている積もりであったろうからである。
 二見は、宿に入った。足を洗い、充分にぬぐい、そのあと奥座敷にゆくべく廊下を進んだ。唄が聞こえてきた。
 四海波でも
 切れるときゃ切れる
 三味線まくらにチョイト
 コリャコリャ二世(にせ)三世(さんぜ)
という継之助が上機嫌の時に歌うあの唄である。
      ◇   ◇   ◇
 わが家にある銘酒2本のうちの1本に手を出した。親父が存命中、外国で購入したレミーマルタンだ。大砲の形をした飾り物。わが家にあって20数年以上になる年代物だ。数万円はする。もう1本のナポレオンを象ったブランディは大事に保存中。  
 「とっておいても仕方がないでしょ」という妻の誘惑に負けて封を切った。実にうまい!ほんのりと香しい匂いが伝わる。
 食前酒に妻と二人で楽しんでいる。桜を愛でながらー。
2013年03月23日(土) 北越戊辰戦争(31)
 (河井さんは、どれほど落胆するか)
と二見は思ったが、これ以上の努力は無駄だと思わざるを得なかった。帰路は、暗くなっていた。
 (河井さんも、よくない)
と、二見は足を運びながら思った。官軍軍監岩村高俊と交渉していた時のあの態度である。二見は、あの時、隣室に控えていたから光景は見てはいないが、言葉や声の調子はありありとこの耳に聞こえた。
 (河井さんはあれほど謙っている積もりだったのだろうが、聞いていると、それどころか、威圧を加えているようだった)
 二見虎三郎はそう思ったが、当の交渉相手である官軍軍監岩村高俊も実は、その点で不快だったらしく、後年、
 「河井はもとより嘆願にきたものである。それは分かっている。ところが、その態度たるや実に傲然としており、あたかも官軍が悪いかのように論破する勢いがあり、その気焔は甚だ揚がっていた」
と語っている。
2013年03月22日(金) 北越戊辰戦争(30)
 その間、二見虎三郎は官軍のあちこちの宿舎を回った。大抵は、寺か民家に泊まっている。薩長の宿舎だけは除き、加賀藩、松代藩、富山藩、高田藩、飯山藩などの宿舎を訪ね、
 「どうか、仲介して頂きたい。なにも和睦の仲裁をしてくれと頼むのではない。嘆願書を提出するための仲介の労さえとっていただければいいのです」
という旨のことを言って回った。
 ところが、どの藩からも拒絶された。
ー後難が恐ろしい。
という顔つきを、どの藩の幹部もした。薩長に疑われ、
「長岡と通じているのではないか」
といわれることが、怖かったのである。
2013年03月21日(木) 北越戊辰戦争(29)
 松蔵は次室にいる。その松蔵に対し、駕篭かき人夫40人の代表者がやってきて、
ー長岡に戻らせてほしい。
と交渉しているのが、継之助の耳に聞こえた。人夫たちは、戦争を畏れていた。帰路は悉く戦場になるのではないかと心配している様子であった。 
 「悪くゆきゃ、死む。帰(きゃ)らせて下せえ」
と、代表は言い続けた。たまりかねて松蔵が継之助の部屋にやってきてその旨を取り次いだ。
 継之助は
 「明日まで待て。弾丸(たま)の音が怖くても今晩はこらえろ」
と言った。継之助は今夜かかっても粘るつもりであった。
 やがて酒がきた。
 継之助はそれを飲み、人夫を安心させる為か、さも面白そうに唄をうたいはじめた。
  お山の千本松 花は咲く
  なる実は一つ、九百九十九はソリャむだの花
2013年03月20日(水) 北越戊辰戦争(28)
 「そのように申すのでござるな」
 「いま一度、御引見下され、と。あくまでも下手に、あくまでも丁寧に言ってくれ」
 二見は宿には入らず、そのまま官軍陣営の方に行った。継之助は宿に入った。
ー亭主、酒を一合、持たせてくれぬか。
と、出迎えの亭主の七郎右衛門にそう命じ、奥の座敷に通った。
 郊外では、まだあちこちで散発的な戦闘が続いているらしく、銃声が北方や西方で聞こえた。 
 「どうも、会津はねばっている」
と、継之助はつぶやいた。この会津兵の執拗さから察して、ひょっとするとこの会談に対する示威的な戦闘ではないかと継之助は思い始めた。
2013年03月19日(火) 北越戊辰戦争(27)
 「加賀や松代のやつらはだめです。薩長を怖がって仲介の労をとろうとしません。」
 「そんなものか」
 継之助は、歩き出した。ぶらぶら歩いてゆくが、背後に未練があるらしく、何度も足を止めた。ー戻って、再び願おうか。という様子であった。しかしいつの間にか自分の宿の前まできてしまった。
 「二見、御苦労だが」
と継之助は言った。
 「いま一度。使いをしてくれぬか。長岡藩家老河井継之助はなお諦めきれずに宿で待っていると」
     ◇   ◇   ◇
 江戸城の天守閣を360年ぶりに復元しようという動きが持ち上がっている。NPO法人「江戸城再建を目指す会」の小竹直隆さん(80)が中心になって計画を進めている。
 大手旅行会社の役員だった小竹さんは「首都にはシンボルが必要」と、復元図を作成し、現在の天守台を利用して高さ60メートルの天守閣を再現したいーと近く署名運動を始め、建設費の募金もスタートするそうだ。
 天守閣は1657年の「明暦の大火」で焼失したが、時の4代将軍家綱の補弼役保科正之(会津藩主)が「天守再建より民衆の生活再建が先と、玉川上水などを先行させて天守閣再建は見送られた。武断政治から文知政治への切り替えのスタートだった。
2013年03月18日(月) 北越戊辰戦争(26)
 継之助は、悪罵に耐えている。知らぬ顔で立っているのだが、癇癪もちのこの男にすれば、これは大事業であった。顔が引きつって来るのが、自分でも分かった。
 「旦那様、参りましょう」
と、若党の松蔵がたまりかねて袖を引くようなそぶりをした。
 「二見が戻るまで、待て」
と、継之助はこわい顔で言った。やがて二見虎三郎が戻ってきた。
 「河井さん、だめです」
と、二見が小声で言った。
      ◇   ◇   ◇
 今日は会津藩家老佐川官兵衛の136回忌である。西南戦争には、「戊辰の役の敵討ち」と参戦し、阿蘇山麓で壮烈な戦死を遂げた日だ。
 地元熊本の佐川官兵衛顕彰会の興梠二雄さんらは碑前祭を行ったが、このところ、記念館の参観者がぼつぼつ増えていると言う。大河ドラマで中村獅満演じる官兵衛が活躍する場面が待たれる。
 この大河ドラマだが、視聴率は15%前後で「いまいち」の感だ。それはそうだろう。戊辰の敗戦後、会津藩は歴史上から抹殺されたのだから。妻は昨日、江戸東京博物館の八重の特別展を観てきたが、同伴した福女の同級生は、ドラマは観ておらず、八重も知らなかった、という。
 薩長藩閥政治は今もって断じて許せない!
2013年03月17日(日) 北越戊辰戦争(25)
 「いずれの藩の方でござる」
というと
 「長州」
という声が跳ね返ってきた。その部隊の後ろの方で、
 「河井、なにをぐずぐずしておる」
という怒りを含んだ声が上がった。
 「早く長岡へ帰って戦支度をしろ」
というのである。
 官軍の長岡藩に対する態度が兵士の端に至るまで変化してしまっていることがこれでも明らかであった。
 兵士たちの感情は、片貝村の戦場で会津兵が遺棄した長岡藩旗から触発されたものであるようだった。
2013年03月16日(土) 北越戊辰戦争(24)
 「頼むのでござるか」
 「おお、頼む。頼んで頼みぬく。恥も外聞もなく頼んでくれ。官軍の首脳は薩長土かもしれないが、脇の藩も大勢来ている。例えば加賀藩、信州・松代藩などだ。加賀や松代の重役を見つけて、それらに薩長土への仲介を頼んでくれ。わしは」
と継之助はいう。「わしは」と繰り返し、「門前にいる」といった。この場におれない以上、門前に立っているしかない。
 継之助は二見を残したまま玄関に引き返し、草履をはき、境内へ出た。風が、境内の土ぼこりを播い上がらせている。継之助は、山門を出た。
 その辺りに官軍の小部隊が警備している。
2013年03月15日(金) 北越戊辰戦争(23)
 思案をしている。
 やがて思いを決したのか、いま一度、慌ただしく廊下へ戻った。廊下にはたまたま官軍の応接役らしい武士がいた。継之助はその者へ
「いま一度、岩村殿に御引見願いたい」
と申し出た。その者はかぶりを振り、
「お取り次ぎ致すわけにはいかぬ」
という。なぜでござる、と継之助がいうと、なぜでもなんでもそのように指示されている、と相手は答えた。
 「頼み入る」
と継之助は頭を下げた。武士はー加賀藩士であったらしいがーかかわりあいを畏れるがごとく足早に去ってしまった。
 「二見」
と、継之助は添役の者を呼んだ。二見虎三郎が寄ってくると、
「まだ諦められぬ。いまの仁、加賀藩の人のように思うが、後を追っていま一度頼んでくれ」
2013年03月14日(木) 北越戊辰戦争(22)
 後年の岩村の回顧談では、
「余はもはや、これ以上聞く必要なしとして座を立ったが、河井がさらに余の裾を捉えて訴えた。しかし余は直ちに振り放って奥へ入った」
 三方が、転がった。
 藩主の嘆願書が、畳に落ちた。継之助が頭を上げた時には、既に岩村はいない。
 兎に角、岩村軍監は席を払って立ってしまった。この時刻はー岩村の記憶ではー午後2時頃である。談は30分ぐらいでしかなかった。
 継之助は、とりつくしまを失った。主人が去った以上、客がこれ以上居るわけにもいかず、やむなく玄関に出た。若党の松蔵が草履をそろえた。
「どうなされました」
と松蔵が声をかけようとしたほど、継之助は凝然としている。式台に立ったまま、土間に降りようとせず、草履を穿(うが)とうとせず、目を空にこらし、息を詰めているようであった。
2013年03月13日(水) 北越戊辰戦争(21)
 松蔵は背を丸め、顔を伏せながら、
(旦那様は、いつ弾けなさるか)
と継之助の気性を知っているだけに身の縮む思いがした。しかし、松蔵にとって不思議なことには、継之助の声はあくまでも低く、あくまでも冷静で、あれほどの大声の人が、なにをいっているのか聞き取れぬほどであった。遠い波の音のように、継之助の言葉が微かに漏れてくるだけである。
 本堂では、継之助は、さらに請願し続けている。が、岩村軍監は業をにやした。
「何度申せば分るのか」
 跳ね上がるように立ち上がり、他の三人のも顎で促してこの場を去ろうとした。継之助は座を滑り、去ろうとする岩村に接近し、その陣羽織の裾を捉えた。
     ◇   ◇   ◇
 昨日、今日と二日続けて衆議院予算委員会で維新の小熊慎司君が質問に立った。わが会津高校の後輩で市議時代から知っている。原発の風評被害に苦しむ福島県民を代表し適格な質問だった。
 観光面で風評被害に苦しむ地元業者、中学生の学年旅行が激減している実情は、大河ドラマで復興しようとする会津若松市にとって救いの神には至っていない。
 小生はこれまで、千葉県富津市や松戸市の中学校で会津の歴史について講演し、勉強になる会津の歴史を説明してきたが、しかし、今では会津旅行はなくなった。
 放射能を心配する父兄の声が大きく影響しているという。原発と会津は直線で100キロも離れ、関東と違いはない。が「福島」というだけで敬遠されているのだ。風評被害に苦しむ現地の声を吸い上げてくれた小熊君に声援を送る。
 答弁した根元復興相とも親しく、石原環境相は大学のゼミの後輩と、身内同士のような質議を感心しながら聞いた。
2013年03月12日(火) 北越戊辰戦争(20)
 継之助は頷き、この若僧のような男の気分をほぐしてやるべく、わずかに片頬で微笑した。
 「そのとおりでござる」
 「そのとおりならば、何故おとなしく引き取らぬ、もはや用はないはず」
 「問答は御無用とおおせられること、そのお怒りの旨、ごもっともの次第でござる。ただせめてこの嘆願書を」
 「取次がぬ」
ーこいつ。
 と癇癪持ちの継之助は、普通ならばこのあたりで相手に飛びかかって拳を上げているであろう。しかし、継之助は耐えた。気持を沈め、再び言った。
 「お怒りはごもっともでござる。しかしながら」
 「しかしもなにもない。先刻から申しておるではないか。あとは砲煙の中で相見えるだけのことだ」
 その声が、土間に控えている河井家若党松蔵の耳にまできんきんと響いた。
2013年03月11日(月) 北越戊辰戦争(19)
 継之助は、顔色も変えない。
「ご激昂はもっともなことながら」
と、上座の岩村軍監を見上げる目つきをしたが、なにぶん表情が沈毅であり、眼光が尋常でなく、それが継之助の地のままであるとはいえ、若い岩村を圧迫するはめになった。
 「岩村殿」
と言った。岩村は返事も出来ず、浮き上がろうとする自分を抑え、抑えようとするがために再び、甲高い声を発せざるを得なかった。
「時日をかせ、など、手ではないか」
「さにあらず」
と継之助の声は、畳を這っている。さにあらずという意味を説明しようとすると、岩村の声はいよいよ高くなり、
「もはや問答無用である」
といった。
      ◇   ◇   ◇
 3.11東日本大震災からちょうど2年。死者、行方不明者1万8000人余、全国47都道府県への避難者31万人という数字は、今も続いている。原発事故が追い討ちをかけている。
 被災者に気の毒だったのは、当時が民主党政権だったことだ。安全神話に支えられて自民党が進めてきた原発政策は行き詰まっている。廃炉への道筋もまだだ。永久的に放射能の危険に晒される住民の怒りはぶつけようがない。
 「責任」を肩に背負って自民党は復旧、復興に取り組め!
 原発のない時代に巻き戻してみてはどうだろうか。テレビは昼間は放送をやめ、屋外広告塔は中止、自販機撤廃など、やることはいろいろあるだろう。
2013年03月10日(日) 北越戊辰戦争(18)
 岩村軍監は両膝の上に置いた手を握りしめ、肩を怒らせた。
ーーーなめるな
と叫びたい心情が、その表情に表れている。すぐ声を発した。
「お取次ぎはできぬ」
続けて言った。
「嘆願書を差し出すことすら無礼であろう。これまでの間、一度でも朝命を奉じたことがあるか?誠意はどこにある。日時をかせ、嘆願書を取り次げ、などとは何事であるか。その必要いささかもなし。この上は兵馬の間に相見えるだけだ」
 岩村は物馴れぬせいであろう、自分の言葉に興奮し、すざまじい形相になってしまっている。
      ◇   ◇   ◇
 本日、千葉の空はまっ黄色だ。南風が吹き荒れている。洗濯物も可哀想だ。本当に嫌になって来る。お陰で散歩もできやしない。
 とはいっても北海道の暴雪風に比べれば、いいとするか。小樽地方の、余市周辺の方々、前田さん、駒木野さん、浅野さん、北村さん、お見舞い申し上げます。
 でも春はすぐそこでしょう。頑張って下さい。
 3月10日は東京大空襲の日だ。68年前の昭和20年のこの日、米軍の航空機による無差別爆撃で死者は10万人を超えた。
 真珠湾の奇襲攻撃に対する口惜しさが東京大空襲になり、広島、長崎の原爆投下に繋がった。北朝鮮の金には、この苦しさは分るはずもないか。
2013年03月09日(土) 北越戊辰戦争(17)
 「わが長岡藩のこれまでの振舞いは、天朝から御覧あれば不都合なることが少なくありますまい」
 「ただ藩内二つに分かれて藩論一定せず、さらに会津藩、桑名藩、米沢藩の兵が城下に入り来たり、もし薩長に応じるならば長岡と開戦すべし、などといい、あれやこれやで、今日に至ったものでござる」
と申し述べた。
 岩村軍監は
(なにをほざいておる)
である。岩村にしてみれば、戦備、戦術を整えるための小細工としか映らなかった。
 継之助は、懐中から書状を取り出し、三方に乗せ、岩村の方に押しやった。「願書でござる。すべてこの書面に詳しく書き連ねてござるゆえ、ぜひお取次ぎ下され」
 官軍軍監である公卿に奉って欲しい、と願った。
      ◇   ◇   ◇
 本日は春らしい日和となった。気温が20度にも上がり、公園の子供達は半袖である。もうすっかり春だ。しかし、である。空を見上げれば、西の方が赤い。支那大陸からの黄砂である。おまけにPM2.5も流れてきている。
 それに杉花粉が加わってトリプルの悪夢だ。散歩して妙に目元がしっくりこない。こんなのははじめてだ。妻の花粉症が移ったのか?
2013年03月08日(金) 北越戊辰戦争(16)
 前記、今泉の著書には、河井継之助に幼児、可愛がられた良運さんの息子小山正太郎の文章も載せている。
 「岩村なる者、何たる白痴(たわけ)ぞ」
と、激越な文章から始まる。要約すると、
「河井氏の人物を知らなかったというが、げんに面談しているではないか。それに岩村は長岡に探索を入れて藩の実情を探っていたという。河井氏の藩政改革は農民や商人にも評判が良く、婦女子といえども彼の業績を知らぬ者はいなかった。門閥の馬鹿家老と思ったとは、常識ある者のいうところではない」
 岩村は数え24歳で、しかも田舎書生ではじめて世の中に出て、最初にやらされたのが軍監であった。未熟さが指摘されるのである。
 継之助の申し述べた口上というのは、彼の持論であり、本心であった。
2013年03月07日(木) 北越戊辰戦争(15)
 越後長岡の旧会津藩士今泉鐸次郎はその著『河井継之助伝』の中で、晩年の「男爵岩村高俊(後年変名)氏の談話」というものを採録している。
 「河井の経歴や人物については、後年になってはじめて知った。当時(談判当時)はもとより知るよしもない。封建時代の常として各藩の重役はみな藩の門閥家のみ。いわゆる馬鹿家老であり、河井もそういう尋常一様の門閥家老であろうと思った」
 事実、岩村は信州の各藩の家老たちを率いて戦に参加している。彼等は悉く岩村に言わせれば「馬鹿家老」であった。継之助の対してもそれらと同様と思ったのである。
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 昨年12月の衆議院総選挙の「一票の重み」は違憲ーとの高裁判決がでた。選挙前から言われたことで、現在、自民、公明、民主の3党で定数削減について話し合っている。が、党利党略が先に立って見通しは暗い。
 そんな瑣末な事で解決する話ではあるまい。学者、学識経験者ら中立的な人たちで選挙制度改革を話し合い、権限を持たせた結果を国会で決めるべきだ。かつて小林与三次・元自治事務次官から読売新聞社長が中心になった調査会で選挙区割りなどを決定した。
 ここで問題が指摘される。現在の小選挙区比例代表制では、小さな区割りの一人区であり、冠婚葬祭などに気を使うため、国、国際といった大きな問題を素通りする傾向にあることだ。大きな目を持つ政治家が育っていないのだ。
 この制度はやめて、元の中選挙区制度に変えたらどうだろうか。政治家(と思っている)連中に直接聞きたいものだ。
2013年03月06日(水) 北越戊辰戦争(14)
 岩村は当時、24歳、若僧であった。が、最上位の軍監である。この時の河井継之助の岩村に対する第一印象は、「いやな奴だな」であった。
 継之助が深く頭を垂れ姓名を名乗って挨拶したのに対して、岩村はとって投げるような甲高い声で
「軍監岩村精一郎」
と名乗った。両眼がメダカのように飛び出して、絶えず動いている。
 人を小馬鹿にしたようにして上座から継之助を見下ろしている。臆病ではなさそうで勇気はありそうだが、その勇気も権力を掴んだ時に表れる型らしく、目元がひどく癇走っている。
 (相当な増上慢だ)
と継之助は思った。
 後年、こんな男が男爵になるのである。
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 大河ドラマ「八重の桜」は順調なスタートを切っている。スタート直後の5回の視聴率は18%以上を維持していた。最近は17、5%から15%とやや下がったものの、ベスト10前後だ、
 なにはともあれ、毎回、2度も観ているのは初めてだ。孝明天皇と松平容保の強い信頼度、御宸翰を賜わる場面など、じわり瞼がうるむ。
 この先、戊辰戦争に突入していけば視聴率は当然、跳ね上がるだろう。なんといっても会津弁のシャワーを浴びるのは気分がいいものだ。
2013年03月05日(火) 北越戊辰戦争(13)
 午後1時になって、宿舎で待機していた河井継之助に呼び出しがあった。談判場は、小千谷陣屋ではなく、寺町の慈眼寺の奥の一室であった。
 そこには、西軍の軍監、土佐の岩村精一郎と薩摩の淵辺直右衛門、長州の杉山壮一と白井小助がイスにふんぞり返っていた。継之助は入り口に坐り、目付の二見虎三郎は次室に控えた。
 談判の冒頭は継之助の嘆願の言上から始まった。長岡藩の事情を述べ、西軍の長岡藩領への浸入の猶予を懇願した。その嘆願の中で、継之助は
「真の官軍ならば恭順してもよい」
と大胆不適な発言をしている。
 「我が領内での戦闘は御免蒙りたい」
と岩村軍監に告げたのである。そして「藩論が定まらないから、領内に進入されては困る」
というのだ。
2013年03月04日(月) 北越戊辰戦争(12)
 軍事総督河井継之助は、長岡藩本陣に若い隊長を集め、西軍の攻撃があった場合のみ戦う専守防衛を命令した。これにより、各隊は領内を巡邏警備した。
 会津藩家老佐川官兵衛は、この継之助の態度をいぶかり、しきりに会談を申し入れ、東軍参加を慫慂(しょうよう=そうすることが君の為だと言って勧めること)するが、継之助は会津藩兵も藩外に追い出してしまった。長岡藩士の中にも藩の方針に不明な点があると質す者も出始めた。
 5月1日、長岡藩用人花輪彦左衛門は、小千谷の西軍本陣に赴き、継之助の嘆願出頭を願い出て、許された。長岡城から5里(20キロ)ほど離れた小千谷に西軍の本陣があった。
 5月2日、軍目付二見虎三郎を従えて継之助は談判に赴いた。世に言う「小千谷談判」である。
2013年03月03日(日) 北越戊辰戦争(11)
 その間にも西軍は東上していた。戦争の足音は、次第に長岡に近づいてきたのである。河井継之助の指導で4月14日、長岡城下、中島で藩兵の大調練が行われた。
 フランス兵制による整然とした縦列行進や指揮者の号令は、藩兵に勇気を奮い立たせた。また、非常用草履を2000足発注するなど、戦争への準備は怠らなかった。
 閏4月26日、長岡藩領近くの雪峠で、東軍の援軍会津藩兵と西軍の松代藩兵らとの戦端が開かれた。
 砲声、銃声は、折からの梅雨空に木霊して長岡城にも聞こえてきた。迫りくる戦争の不安は、藩兵の召集を促し、藩境への派兵となった。
 この日、継之助は軍事総督に就任、長岡藩軍の総帥となった。
2013年03月02日(土) 北越戊辰戦争(10)
 藩中の不穏な動静を察知した老公牧野忠恭(ただゆき)は、4月23日、恭順派の巨魁本富寛居(ほんぷ・かんい)、大瀬紀利(きみとし)を別邸に招いて説諭した。
 恭順派は「これでは戦争を呼び込むものだ」と老公に諫言した。が、老公は「河井継之助を信頼して、一藩こぞってこの難事ににあたるように」と諭した。
 この時の執政継之助の態度は、薩摩・長州の野望を見抜きながらも、中立的な立場を堅持しようとしていたーという。
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 このところ、春一番だったり、激しい北風が吹いたり、春先の気候は定まらない。「三寒四温」というのは、昔人の名言だそれにしても、ラジオ、テレビは、北海道、東北地方の強風ばかり流しているが、千葉でも朝から風速15メートル以上の北風が吹き狂っている。お陰で、近くの公民館にも行けない。
 ところで、この風に乗って支那から汚染された大気がやってきている。PM2.5という微少粒子状物質は工場や排気ガスが原因だが、支那人は、その対策にようやく重い腰を上げたようだ。
 環境汚染を無視して成長を最優先してきた経済、政治体制。諸外国から指摘されてなお「そしらぬ」顔が支那の現実だ。支那の政府というより、共産党そのものの責任だ。こんな国が国連安保理の常任理事国であることが間違いなのだ。
2013年03月01日(金) 北越戊辰戦争(9)
 こうした段階にあっても、長岡藩内にあって恭順を主張する者があった。特に、藩校・崇徳館の教授らを中心に勤王論が盛んであった。元筆頭家老の稲垣平助も勤王支持者として同調していた。
 今まで長岡藩政府は徳川氏支持の方針を最初から打ち出していたので、藩内恭順派の安田鉚蔵は、慶応4年4月10日、単身で政庁に赴き、河井継之助と議論した。
 「佐幕か恭順か態度を明確にせよ。佐幕なら時勢から誤りであるから、恭順に改めよ」
と主張する安田の意見は、最後には、執政河井継之助を罵詈面辱(ばりめんじょく)するに至った。
 このため、安田は俸禄を削られ、隠居させられた。恭順派藩士は激昂し、継之助を暗殺しようという者まで出た。
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