河野十四生の歴史ワールド
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・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2015年02月28日(土) 幕末の剣豪 森要蔵(5)
 攘夷も不可能、さらに開国要求を撥ねつける力のないことを知った徳川15代将軍慶喜は、慶応3年12月13日、政権を朝廷に返上することを決め、翌14日、大政奉還を上奏する。徳川250年の歴史にピリオドを打った瞬間だった。
 しかし、「討幕」で意思統一を図っていた薩摩、長州藩は幼帝の勅命によって幕府を討つーという勅書を13日に用意して、薩摩藩主・島津久光宛ての「討幕の密勅」が大久保利通に手渡された。
 同時に、元治元年(1864)の禁門の変以来、「朝敵」とされてきた長州藩主・毛利敬親、定広親子への「朝敵赦免」状が同藩士、広沢真臣に手渡された。
 これで対面を回復した長州藩に翌日には、討幕の密勅が届けられた。
2015年02月27日(金) 幕末の剣豪 森要蔵(4)
 自分たちの思うようならない天皇を殺害してまでも、自由になる天皇がどうしても必要だった。
 大久保利通や木戸孝允らにとっては、
「玉を我が方へ抱えることが、千載の一大事。もし、幕府に奪われては、三藩の滅亡だ」
という、強い思い入れが凶行に及んだのだろう。
 孝明帝を毒殺した岩倉一派は慶応3年(1867)10月14日、「偽の討幕密勅」を発動する。これこそ、岩倉が仕組んだ陰謀の最終目的であった。
 孝明天皇崩御の後、徳川幕府の命運は坂道を転げ落ちるように急落した。
     ◇   ◇   ◇
 本日の読売は朝日に抜かれっぱなしの紙面だ。環境相への政治献金疑惑を抜かれ、今、注目されていた川崎の中学生殺しでも「少年3人逮捕へ」をすっぱ抜かれた。
 読売の取材体勢がほんとうにダメになってしまった。こんな新聞が売れるはずがない。1000万部を金科玉条にしていたが、940万部に減少し、新聞離れは止まらない。これもそれも、すべて○○せいーとは言えないが、お粗末な新聞にOBとして恥ずかしい。
2015年02月26日(木) 藩士墓地に案内板完成
 千葉県富津市の正珊寺と長秀寺に會津藩士墓地の案内板が完成し、ようやく一人前になった。
 特に西川の正珊寺は、墓石が倒されたままで、藩士に申し訳ない状態が長い間、続いてきた。會津ファンの近くに住む多田さんが墓石を一基ずつ立てて、立派に改葬してくれた。
 案内板は、會津藩士顕彰会の役員、鈴木登美子さんが浄財で市内4か所の會津藩士墓地と飯野藩剣術指南、森要蔵の墓がある浄信寺の併せて5か所に設置していただいた。お二人に感謝あるのみ。
正珊寺案内板
2015年02月25日(水) 幕末の剣豪 森要蔵(3)
 孝明天皇は本心は攘夷を熱望していたが、政治体制を根底から変革することには反対だった。こうした中、激動の嵐が吹き荒れた。
 坂下門外の変、寺田屋騒動、生麦事件、8月18日の政変、禁門の変、長州征伐、将軍家茂急死、薩長連合と目まぐるしい事件が続いた。
 宮中も騒然とした雰囲気の真っただ中にあった。孤独であった孝明帝は公武合体で、この難局を切り抜けようとしたが、慶応2年(1866)12月25日、崩御された。36歳の若さだった。
 朝廷は同月29日、孝明帝が疱瘡で崩御されたーことを明らかにした。しかし、実際は岩倉一派による毒殺だった。何のために毒殺されたのか?
 薩摩、長州藩や岩倉ら下級公家にとって、幕府と一体になって攘夷を譲らなかった孝明帝は大きな障害であったのだ。
2015年02月24日(火) 幕末の剣豪 森要蔵(2)
 文久2年(1862)12月14日、京都守護職の會津藩主松平容保は藩士千余人を率いて堂々と京の町に乗りこんだ。そして守護職の本営を金戒光明寺に設営した。
 新しい役職を作って會津藩主を据えるーという考えは、幕藩体制を維持するのは、會津の武力に頼るしかないというのが、幕閣たちの考えだった。
 蝦夷地防備をはじめ江戸湾防備での実績があり、徳川250年の歴史を守るための、いわば最後の”切り札”であった。
2015年02月23日(月) 幕末の剣豪 森要蔵(1)
 幕末、京の町は尊王攘夷を叫ぶ浪士たちが闊歩して治安は乱れ、京都所司代や京都町奉行所の取り締まりでは手に負えない無政府状態が続いていた。
 宮中では、下級公家が暗躍し、自分たちの思うようにならない孝明天皇を毒殺して幼帝を擁立した。
 さらに偽の討幕密勅を出したり、錦の御旗を勝手に作るという、真に畏れ多い陰謀が実行に移された。一連の陰謀の主役は岩倉具視だ。
 日本中を揺るがした戊辰戦争前夜のどさくさに紛れて実行され、一種の革命ともいえる騒動の中に埋没し、史実は歴史の彼方へ消え去った。
2015年02月22日(日) 近藤勇の首(最終回)
 閏4月15日の夜、大嵐になった。誰も近づく者はいなかった。
 僅かの隙に近藤の首が消えうせた。以後、どこからも発見されることはなかった。
 その近藤の墓は現存するものが3か所。三鷹の龍源寺と板橋駅前、それに会津若松の天寧寺だ。龍源寺には胴体が埋まり、天寧寺には件の首級が埋葬してある、という。天寧寺のそれは、新撰組副長土方歳三が函館に落ち延びる前に埋葬した、という。
 天寧寺の墓碑の戒名は、「純忠誠義」と刻まれている。(完)
     ◇   ◇   ◇
 明日から、幕末の剣豪、森要蔵を連載する。要蔵は、上総国飯野藩2万石の剣術指南。戊辰戦争で、全国の諸藩が會津征討へ向かう中、「大義は會津にあり」と會津藩救援に藩士の子弟、門弟ら20数人を率いて會津へ。
 慶応4年(1868)奥州の玄関口、白河城攻防戦で西軍と激しい戦いを展開し、壮絶な戦死を遂げた。
 江戸の千葉周作道場四天王と謳われた剣豪が非業の最期を遂げるー。
2015年02月21日(土) 近藤勇の首(3)
 京の三条は、近藤にとって思い出の地である。連日、討幕の浪士たちを殺戮し、島原、祇園の郛に登楼して女を抱いた〜。
 わずか半年足らずのうちに、時勢は大変動して梟首された近藤の胸中は、よもや黄泉の人となっても察するにあまりがあろう。
 周りを取り巻く群衆の中から、罵詈雑言の雨。
「ざまあみろ」「悔しかったら戻ってきいや」。唾や馬糞をぶつけられた。
     ◇   ◇   ◇
 昨日のニッポン放送で、生出演した元プロ野球選手、清原和博が思いのたけをぶちまけた。昨年離婚し、現在は一人暮らしだそうで、月2回、小3、小5の息子と会うのが楽しみだとか。
 「涙もろい」人間といい、一番の思い出は、巨人ー西武の日本シリーズで、巨人を破り、日本一になった試合で、思わず涙が出たことー。実際は週刊誌に書かれたような人物ではなかった。
2015年02月20日(金) 近藤勇の首(2)
 近藤勇の処刑が決定して、刑場まで護送したのは、岡田粂之助という元幕府旗本岡田将監の嫡子の銃隊30名で、執刀した横倉喜三次もその家臣であった。旗本でありながら機を見るに敏く寝返って官軍の手先になっていた。
 板橋の庚申塚刑場で3日間、梟首された近藤の首は、次いで、京へ送られた。護送は、やはり岡田隊で、首桶に焼酎を満たして首が漬けられた。途中、3度焼酎を換えたので、京の三条河原へ梟された時も、容貌は変わらなかった。
2015年02月19日(木) 近藤勇の首(1)
 慶応4年4月25日、近藤は下総・流山で官軍に縛され、板橋刑場で斬首され、刑場の露と消えた。
 その首級は獄門台の上に梟され、脇に立札がたてられた。それには、次の罪状が記されていた。
「近藤勇
右ノ者元来浮浪之者ニテ、始メ在京新撰組ノ頭ヲ勤メ、後ニ江戸ニ住居致シ、
大久保大和ト変名シ、甲州並(ならびに)下総流山ニ於テ手向イ致シ、
或ハ徳川ノ内命ヲ承リ候ナドト偽リ唱エ、不容易(よういならざる)企二及候段、
上ハ朝廷、下ハ徳川ノ名ヲ偽リ候次第、其罪数ウル二暇(いとま)アラズ、
仍テ死刑ニ行イ梟首セシムル者也。
四月」
2015年02月18日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(最終回)
 史料集めや写真を提供して頂いた余市町水産博物館の学芸員浅野敏昭さん、余市郷土研究会会長、駒木野恵蔵さん、黒松内町企画調整課の桜井淳一さん、藩士墓地を掘りあてた北村英芳さんらに感謝したい。
 元余市郷土研究会会長の前田克己さんには高齢にも拘わらず、取材の本筋を教授していただいた。
 会津史談会では、文化史講座の一環として、平成6年(1994)以来、4回も余市を訪れて墓参したり、地元民と交流してきた。が、それ以降、相互の民間交流は実現していない。(完)
     ◇   ◇   ◇
 幕末の不思議の一つ、新撰組局長「近藤勇の首」を連載する。下総・流山で斬首され、京で晒された首は、その後、行方不明になった。
 近藤の墓は会津若松市の天寧寺など3か所にあるが、首は?その謎に迫れるか。ご期待!
2015年02月17日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(101)
 會津藩士の蝦夷地移住を書くきっかけは、平成12年(2000)10月26日付け読売新聞福島版で「開拓リンゴ里帰り」の記事を見たことだった。
 戊辰戦争で敗れた會津藩士が蝦夷地へ渡り、苦労の末、明治12年(1897)我が国初のリンゴ栽培に成功し、昭和30年代までは皇室に献上されていた高級品種である。
 会津史談会が現地を訪問し、藩士の子孫が経営する農園から里帰り、したのだ。
 これまでの會津藩士の蝦夷地移住は余市町ーと限られていたが、史料を各方面から集めたところ、余市以外にも移住していたことを突き止めた。
2015年02月16日(月) 會津藩士の蝦夷地移住(100)
 これまでに北村さんが発掘した會津藩士の墓は次の5家11基である。
@山下家一族 山下条之助墓ー旧會津藩士 
                     明治4年未10月23日
          山下多喜衛ー(同じ墓)明治13年辰6月28日
          山下喜平之墓ー明治27年4月1日
A黒河内家6基ー明治14年1月2日
B佐久間家一族 墓碑不明の3基。1基は香炉に佐久間、
          横に星○○女24歳、旧會津藩、明治15年季
          2基目に明治28年3月12日 同じ墓に明治29年6月
              右横に「昭和52年6月12日 野田律子建立」
C小川家一族の墓4基 
        1基は明治7年5月19日
        2基目は小川弾治の墓ー明治24年7月23日
        3基目は小川勝三郎ー没年なし
        4基目は左横に「秋山紅月信女墓」
              右横に大正元年9月12日
D小川精次郎ー土葬で墓碑はなく、小さな地蔵が南向きで安置
          されている。神葬のため熊野神社の相殿神(福伸)
          として御霊が祀られている。
2015年02月15日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(99)
 明治16年(1883)10月、父求真が死去した。義母や兄弟は函館の兄精一を頼って有戸を去った。
 残った精次郎は、その後も農業の傍ら医業を続け、大正9年(1920)、自分の所有地を作開村社の熊野神社の財産として寄進したのである。
 昭和35年(1960)8月、氏子一同は精次郎の功績を讃えて神社横に顕彰碑を建立した。
 北村さんが発掘した、この史実は平成22年(2010)11月26日付けの北海道新聞で大きく取り上げられた。
2015年02月14日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(98)
 小池一家は明治3年(1870)斗南移住により一家で斗南へ。
 翌年、廃藩置県により北海道斗南藩領の歌棄郡有戸村(現寿都町有戸)へ父と3人で移住した。(母は斗南で死亡)3人は、會津藩士や地元民の診療にあたり、間もなく、精次郎だけが、藩士28戸135人が先に移住した作開村(現黒松内町作開地区)に寄留して農業も始めた。
 明治13年(1880)、兄精一は寿都病院の吏員に採用され、後に北海道開拓使医官となり、第8公立病院(島牧村)で勤務、その後、長万部、函館へ転居した。
     ◇   ◇   ◇
 千葉県富津市内に眠る會津藩士の慰霊祭を今年も6月7日(日)、西川の正珊寺で行うが、現地に素晴らしい案内板が完成した。
 顕彰会会員の鈴木登美子さんが浄財をだして4か所の他に、飯野藩剣術指南、森要蔵の墓地がある浄信寺の併せて5か所に案内板を作っていただいた。
 鈴木さんは、白虎隊士の生き残り、飯沼貞吉の子孫の縁者で、顕彰会には尽力してもらっている。倒されたままの墓石を立て直したことに合わせて案内板設置になった。慰霊祭に参加されたら、これまでとは一新した正珊寺墓地が皆さんをお迎えする。嬉しい限りである。
正珊寺案内板
2015年02月13日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(97)
 関係町村役場の証言にも関わらず、北村さんの調査で眠っていた史実が掘り起こされてきた。
「明治15年ごろで旧會津藩士は開拓に失敗して他所へ転出していった」
のではなく、墓石から大正の初めまで生活していたことが判明した。
 斗南藩からの移住者のうち、『黒松内町史』に載っている小池少斎(精一)と弟の精次郎の開拓後の姿が浮かび上がってきたのが、顕著な例である。
 小池兄弟の父小池求真は近習で、御側医。18人扶持で、兄弟は藩校・日新館の医学寮生だった。戊辰の役後、父は越後・高田へ、兄弟は母と塩川の謹慎所へ移された。
     ◇   ◇   ◇
 今年こそ、と思って6月7日の會津藩士慰霊祭への参加を呼び掛けていた会津若松市長の室井君が、心配してとおり、「むつ市で140年記念事業があるので」と参加を断ってきた。
 就任以来、参加を要請してきたが、こちらの意気込みは通じなかった。
 今後、室井君の参加を求めることはやめる。「来たくない」人間を無理に「来い」というのもおかしなものだ。
2015年02月12日(木) 會津藩士の蝦夷地移住(96)
 北村さんは、小さい頃から
「作開村(黒松内町の前身)には、昔、會津藩士が移住してきた」
という話を父親から聞かされてきた。 
 たまたま、平成22年(2010)8月、町内に會津藩士、小池次郎の墓を発見したのをきっかけに調べ始めた。
 電気工事関係の会社を定年になってから調査に打ち込み、独力で會津藩士の墓を次々発見し、會津藩士の足跡が少しずつ明らかになってきた。
 北村さんは、仲間を集めようと、
「作開の地に眠る斗南藩士を語り繋ぐ会」
を立ち上げて道内に参加を呼びかけている。
2015年02月11日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(95)
 ところが、
「會津藩士の墓が町内にあったといいますが、今では、なにもわかりません」(八雲町教委)
「會津藩士の子孫などの情報はありません」(黒松内町役場企画調整課)
「藩士のことを調べている人はいません。開墾に失敗して、どこかへ移って行ったのだと思います」(せたな町役場)
と、この地域では、會津藩士が入植したという史実は消え去っている。
 こうした中にあって、前述の黒松内町に住む北村英芳さんの調査で少しずつ史実が掘り起こされてきた。
2015年02月10日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(94)
 八雲町には、明治4年当時、オクツキナイという所に7戸18人、長万部町に4戸14人が、瀬棚村に18戸43人が、それぞれ移住した。
 しかし、土地が悪いため開墾することができずに開拓は失敗。明治15年(1882)頃には、他へ転出して官吏や牧師、警察官などになった。(八雲町教委)
 ただ、明治10年頃、三井計次郎という者が、オクツキナイの戸長をしていた記録が残っている。
2015年02月09日(月) 會津藩士の蝦夷地移住(93)
 黒松内町は、石狩湾に面した余市町と積丹半島を挟んで反対側に位置している。同町に住む無職北村英芳さんの調査によれば、明治3年から4年にかけて會津藩士(当時は斗南藩士)は28戸135人が北海道後志国歌棄郡外三郡に移住した。
 『黒松内町史』上巻や郷土史家で元中学校長前田克己さんによれば、
「瀬棚郡瀬棚村へ10余戸40人、歌棄郡作開村に28戸135人、
山越郡山越村に10余戸30人」
併せて約50戸、約200人が移住した。その時期は斗南藩が消滅した明治4年2月から10月にかけてと思われる。
2015年02月08日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(92)
 @の瀬棚村は現在の久遠郡せたな町、B山越村は二海郡八雲町に Aの別手村は斗南藩士の移住後、間もなく「新しく開く」という意味を込めて作開村にそれぞれ改称された。
 そして明治12年(1879)作開村と熱郛村兼務で戸長が置かれ、大正4年(1915)熱郛村に統合、その後、昭和30年(1955)に黒松内村と樽岸村、熱郛村が合併して三和村になり、同34年(1959)町制施行で黒松内町になり、現在に至っている。
     ◇   ◇   ◇
 本日の読売新聞日曜版で「蒙古襲来」を取り上げた小説家白石一郎を紹介している。2度の蒙古襲来で忘れてならないのは、我が河野家の先祖、伊予の戦国大名河野氏だ。いわゆる河野水軍である。
 襲来で奮戦したが、参陣に際して瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山祗(おおやまずみ)神社に奉納した太刀や兜は国宝に指定されている。
2015年02月07日(土) 會津藩士の蝦夷地移住(91)
 余市町と会津若松市は相互交流を続けており、平成20年(2008)には第5回会津若松市民参加の手作り演劇「緋の衣の詩〜北のりんご花咲く〜」が會津風雅堂で演じられ、市民にも広く知られている。
 実は、會津藩士は余市町の他にも、周辺の町村に集団で移住していたのだ。『新選北海道史』や『黒松内町史』、冒頭で記した前田克己さんの調査によれば、余市移住の他、明治4年(1871)の廃藩置県によって斗南藩士が同年2月から10月までに
@瀬棚郡瀬棚村に10余戸40余人
A歌棄郡別手村に28戸135人
B山越郡山越内外外1村に10余戸30数人
が、それぞれ集団で委譲した記録が残っている。
2015年02月06日(金) 會津藩士の蝦夷地移住(90)
 明治33年(1900)7月、北海道に初めて一級町村制度による16か町村が誕生した。山田町、黒川町も個数3218戸、人口12、596人を数え、戸長制を廃して「余市町」に昇格した。
 『32年12月 土地三町歩以上所有者調』によると、総計は83名で、うち會津藩士は
 山田町では
三宅権八郎 13町3反2畝 川俣友次郎 11町4反2畝
中野新太郎 11町4反2畝 百瀬葉千助 6町6反9畝
上田 イシ 5町2反6畝 水野生太郎 4町7反9畝
小原俊三郎 4町7反 伊藤 隆治 4町5反
小原真津三 3町9反4畝 石山亀次郎 3町6反9畝
渡部 久助 3町2反3畝 黒河内辰巳 3町3畝
水野、高山、石山(3人で)17町2反7畝
 黒川村は
富永 広治 8町2反10畝 青木丑之助 4町1反J畝
細谷 伴助 3町4反7畝 古澤武太郎 3町3反
の19名だ。會津藩以外の者は、すべて漁業経営者である。
 會津藩士が明治4年以降、営々として開墾してきた農地も次第に資本力のある漁業経営者の手に渡ってゆく。
2015年02月05日(木) 會津藩士の蝦夷地移住(89)
 虎次は昭和20年(1945)5月、86歳で若松で亡くなった。宗川一家は現在の会津坂下町に戻ってきたのだが、明治20年(1887)7月25日現在の『旧會津藩士人名簿 若松町役場』によれば、「栄町660番地 宗川虎次 平民」と記されている。
 城下町外れの坂下町では、寂しかったのだろう。自分たちの家族が住んでいた郭内は、かつての面影はなく、焼け野原になっていた。
 それでも、思い出が詰まった場所に住みたかったのだろう。「栄町」という地名は明治になって「栄えるように」との願いを込めてつけた町名だ。
 れっきとした藩士なのに平民だ。これは、一旦、蝦夷地へ渡って百姓として開拓にあたったので、平民にされたようだ。
 この旧會津人名簿は貴重な史料なので、『會津人群像』22号(平成24年12月発行)で明らかにした。
2015年02月04日(水) 會津藩士の蝦夷地移住(88)
 明治11年(1878)、虎次は父茂友より一足先に會津へ帰った、と著書『補修會津白虎隊十九士伝』に記している。この著は會津戊辰関係5大著書の一つに挙げられている。
 白虎隊士中一番隊士で、後に東京帝国大学総長になった山川健次郎が補修を加え、大正15年(1926)初版、昭和7年(1932)6版を数えている。
 著述の動機は、虎次が9歳の時、茂友が見せた白虎隊自刃の画に深く感動し、會津へ戻った当時、飯盛山の自刃の地を詣でて感激をさらに深めた、という。
 いつの日か、19勇士の伝記を書こうと心に決めたのだ。遺族や生存者を歴訪して、涙なくしては聞くことができない史実を書き遺したのである。
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 イスラム教過激派「イスラム国」が捕虜のヨルダンの空軍パイロットを鉄の檻の中で焼き殺するーという信じられない写真をネットで流した。 
 交渉中であった1月3日に殺害していた、という。信じられない蛮行だ。対してヨルダンも女死刑囚の死刑を執行するという。恨み、復讐の連鎖だ。
2015年02月03日(火) 會津藩士の蝦夷地移住(87)
 そして、茂弘は明治15年(1882)86歳で大往生した。茂友は明治37年(1904)3月8日、波乱に満ちた生涯を終えた。茂友の墓は会津若松市融通寺町(現本町)の極楽寺(無住)にある。
 一級の学者は落ちぶれても学者で、その著『御城中私記』には、藩主容保が京都守護職を引き受けた際、容保に意見書を呈上したことなど、藩を思う裂烈たる心を伝えている。
 次男虎次は文久元年(1861)6月生まれで、8歳の時に蝦夷地へ渡った。日進館、黒川郷学所に在学中、頭角を現し、学問は群を抜いていた。
 明治6年(1873)には、教育所教授方の上嶋川兵衛から、虎次ら3人が成績優秀と認められ、御褒美を賜るよう、開拓使に伺いを出している。
2015年02月02日(月) 會津藩士の蝦夷地移住(86)
 「最期は會津で終わってもらいたい」
と茂友は考えたのだろう。
 第三の理由として、虎次の将来についてである。虎次は足が不自由であったという。北海道の開拓は生易しいものではなく、農民として生きることに不安を感じていたようだ。 
 一部史料にある
「余市と藩士らを捨てた」
というのは、宗川家には気の毒だ。藩士のために苦労した宗川一家は浮かばれまい。
 會津へ戻った茂友は明治25年(1892)ごろ、會津尋常中学校の武芸教諭を委嘱されている。
2015年02月01日(日) 會津藩士の蝦夷地移住(85)
 役人として現地に残るなら、よりよい生活が待っていたはずだ。それなのに、何故、帰郷したのか?今もって謎である。
 理由として考えられるのは、第一に任務が終わった、と考えたことだ。血判者の筆頭者であり、地名選定でも宗川の一字を宛てて黒川村としたこと。さらには、入植7年目の明治10年には、開墾地が自己所有となったことなど、渡道して10年目であり、一区切りがついた、と考えたのではなかろうか。
 第二の理由は父茂弘の高齢化である。72歳という高齢で蝦夷地へ渡り、誠忠無比の茂弘も80歳になった。
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 イスラム過激派に捉われていた後藤健二さんが殺害されるシーンが本日未明、ネットで流れた。日本、ヨルダンはじめ関係各国の努力も空しかった。ご冥福をお祈りしたい。
 ところで、外務省が渡航自粛を求めているシリアに朝日の記者複数が入国した。危険なので行かないでーといっているのに、ジャーナリストだから構わない、という理論はおかしいではないか。いかに反日の朝日でも拉致されたら、後藤さんと同じに日本政府は苦労するのだ。
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