河野十四生の歴史ワールド
■ 2014年06月

●プロフィール

▼連絡先メールアドレス▼
河野十四生
toshiok@beach.ocn.ne.jp

トップ
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月

・2011年
3月7日〜12年4月26日
 歴史小説鶴ヶ城物語
4月28日〜6月4日
 検証 福島原発
・2012年
4月27日〜5月9日
 日本の電気事業
5月10日〜6月1日
 家訓15か条と什の誓い
6月2日〜6月21日
 靖国神社と会津藩士
6月22日〜7月3日
 江戸湾を守る
7月4日〜11月9日
 軍都・若松
11月10日〜12月17日
 昭和天皇
12月18日〜12月27日
 新島八重
12月29日〜13年2月19日
 論語
・2013年
2月21日〜6月1日
 北越戊辰戦争
6月4日〜8月26日
 幕末維新に燃えた會津の女たち
8月27日(上、中、下)
 奥羽越列藩同盟
8月30日〜11月17日
 箱館戦争
11月20日〜14年2月19日
 若松町役場の会津藩士
・2014年
2月20日〜3月4日
 幕末、木更津は会津藩領だった
3月5日〜3月12日
 木更津異聞
3月13日〜4月23日
 若松町役場の会津藩士
4月24日〜5月10日
 竹島問題
5月11日〜6月27日
 若松町役場の会津藩士
6月28日〜7月7日
 般若心経
7月9日〜7月16日
 尖閣諸島
7月17日〜8月20日
 會津藩士の蝦夷地移住(上)
8月21日〜12月8日
 會津蕃大窪山墓地に
   眠る藩士たち
12月9日〜15年2月18日
 會津藩士の蝦夷地移住(下)
・2015年
2月19日〜2月22日
 近藤勇の首
2月23日〜6月14日
 幕末の剣豪 森要蔵
6月15日〜7月17日
 日本女帝物語
7月18日〜11月20日
 戦国武将便覧
11月21日〜12月15日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第1章
12月16日〜12月19日
 會津身不知柿
12月20日〜16年6月13日
 不撓不屈の武士・柴五郎
 第2章〜第10章(最終章)
・2016年
6月14日〜6月30日
 会津の間諜 神戸岩蔵
7月2日〜7月23日
 奥羽越列藩同盟
2014年06月30日(月) 般若心経(3)
 ◇舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是
 舎利子よ、目に見えるものの本姓は空であり、空の本姓は目に見えるものである。目に見えるものは空と異ならないし、空は目に見えるものと別のものでない。目に見えるものは、そのまま空であり、空はそのまま目に見えるものである。これと同じことで、感覚=感受も表象も意思も知識もすべて空である。
 「空」とは、無我のことである。自我があるからと言って、この自我に囚われて生きている。だから苦しいのだ。
 しかし、実際に、この自我には実体がない。あるように見えるけれど、実際はないのだ。自我イコール無我なのである。そして無我こそが、則ち、本来の自己、即ち 心性本清浄なのだ。
 これが色即是空のいわんとするところだ。自我が無我になった時、自我が現成するという、つまり、無我はそのまま自我、本来の自己がそのまま自我であるという。
 現在の自分がそのまま「仏」であるという、宗教経験の思想が込められている。
2014年06月29日(日) 般若心経(2)
 菩薩とは、仏様ではなく、一歩手前の修行する者、道を求める者をいう。大乗仏教では、さらに転じて、一度仏になった後に凡夫が苦しんでいる娑婆に戻って、凡夫を救ったり、地獄に落ちた人を下りてきて救う人まで菩薩という。
 お前自身が観音様になり、深い智慧の実践の完成を行じなさい。行すれば、五蘊は皆空であるという悟りが開けて人生の一切の苦悩が解消されるのだ。
 五蘊とは、五つの構成要素で、「色」、「受」、「想」、「行」、「識」を指す。自然(小宇宙)も世界(大宇宙)つまりこの世を構成しているものは、すべて、この5文字で構成されている。
 この世は、肉体及び物質たる「色」と、精神である「受」(感覚、感受)と「想」(表象、理念)、「行」(意識、欲求)、「識」(知識、意識)からなり、すべて「空」である。
2014年06月28日(土) 般若心経(1)
 般若心経とは、迷いを離れ、事物の真相を見抜く本当の知恵=般若経の心髄を簡潔に説いた262文字の短い経典をさす。
 観自在菩薩が深い知恵の完成の行を実践し、悟りに至ったその内実を釈尊の高弟舎利子尊者に説いた、深刻な智慧の経典である。
「仏説魔訶般若波羅蜜多心経」の説明に移る。 
 ◇観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
観自在菩薩は、深い智慧の完成という行を実践した時、存在する五つの構成要素はすべて空だと見極めてすべての苦しみを救った。
 「魔訶」は梵語(古代インド語)の漢字で、大きな、優れたーの意。
 「般若」は悟りの智慧の意。いわば仏の智慧。
 「波羅蜜多」は完成、彼岸に至る意。
わが身におけば、本心が本来、清浄であるとはいっても、それを見失い、現実には、煩悩や妄想に翻弄された自己中心的な心で生きている。
 そこで、本来の「清浄無垢の心」を現実に実現し、完成しなけらばいけない。心の本性は本来清浄なものであるという自覚、すなわち智慧こそが般若であり、その完成が般若波羅蜜多である。
2014年06月27日(金) 若松町役場の会津藩士(最終回)
 読者の片桐さんからメールが届いた。当人は片桐家12代目で、7代目片桐嘉寿(文化8年〜明治16年)は160石の上士で郡奉行、8代目嘉則は宮内庁歌人、10代目嘉靖が昭和10年ごろまで若松市栄町560番地に住んでいたーという。
 原簿を調べたが、何故か「栄町560番地」は欠番で、片桐氏の存在は確認できなかった。この原簿は、旧藩士でありながら、「平民」扱いにしてしまった例があり、全面的に信用できない面もある。
 片桐さんの先祖は代々天文暦学家で、4代と5代は会津若松市の大窪山共同墓地に眠っている。以前、サルサル日記のブログをしていた時、片桐さんからメールがあって奇縁を感じた。
 片桐さんは某新聞社勤務で、時たま、先祖の墓参に會津を訪れ、先祖と対面している。今回で「若松役場〜」は終了し、明日から、「般若心経」をはじめ、なかなか行けない会津若松市の菩提寺の河野家の墓に眠る両親らの霊を弔いたい。
2014年06月26日(木) 若松町役場の会津藩士(131)
    若松町案内(最終回)

 夜道になれば当麻町、 御手明町の隙をみて

 畳表は融通寺町、   新丁越えて横丁の

 北に見ゆるは半兵衛町、泊りを急ぐ烏橋

 御旗町から柳原、   片原町をうち過ぎて

 草履の切るる河原町、 松坂柱細目まで

 積み重ねたる材木町、 柳堤より日光へ

 急ぎ申し候  あなかしこ(完)

2014年06月25日(水) 若松町役場の会津藩士(130)
   若松町案内(2)

 名子屋町まで急ぎきて、 流るる汗は滝沢町

 上り下りの諸荷物を、  競いつけ込む馬喰町

 地乗り駆け乗り馬場町や、緞子縮緬一之町

 甲賀町より二之町の、  三,四之竪や五之町の

 角より見ゆる札の辻、  火の見櫓も大町の

 道場小路がちと過ぎて、 虫のいた寝も原の町

 針谷町にて顔の色、   少しはなおる赤井町

 遊び過ごして七日町、  踊り浴衣も紺屋町

 暑さをしのぐ北小路、  たびもならわぬ名子屋町

 お前と俺の仲町を、   老町主の案内で

 大和町より桂林寺、   町の南は諏方四ツ谷(以下続く)

2014年06月24日(火) 若松町役場の会津藩士(129)
 最後に、明治時代初期に若松町城下で流行った詩がある。會津図書館に和紙で閉じられて保存されているので、紹介する。

   若松町案内(1)

 千載栄うる鶴ヶ城、   東は小田垣桜馬場

 天寧寺町浄光寺大日堂、 御薬園御徒町願成就寺

 南は小田垣天神橋、   年貢町御弓町古川御殿

 成願寺弘真院、     南町大橋十八蔵

 北は聖堂八角の社、   日数も最早や六日町

 お棟上げの大工町、   連れの支度を三日町

 とんと心も槻木町、   寒さに水を行人町

 紫雲たなびく阿弥陀町、 鐘の響きも寺町の

 お鼻の高い愛宕町、   くたびれ足に横町を

 のぼりつめたる台の町、 下に見えるが野伏町(以下続く)
2014年06月23日(月) 若松町役場の会津藩士(128)
 小生は母親の介護で一時、会津に戻っていた平成13年(2001)に有力者や自治会長、学識経験者などに呼びかけて「歴史的町名を復活させる会」を立ち上げた。消えた町名のうち「甲賀町」を復活させたいと運動を始めた。
 ロータリークラブやライオンズクラブ、町内会などで講演し、地名の大切さを訴えた。ところが、消滅して35年以上経過しているため、市民の反応は鈍かった。
 それでも全国で唯一町名を復活させた金沢市から関係者を呼んでシンポジウムを開いたりして運動を盛り上げようと努力した。
 市議会では甲賀町復活の地区の請願を採択してくれたが、市の対応は冷たかった。職員に市内出身者が少なく、周辺町村からの出稼ぎ者が多かったためだ。
 これら無知な職員のいうままになった市長菅家君は責任は大。その後、代議士になり、會津学などというおかしな講演をしているようだが、地名の大切さもしらない人間が何をいうか、である。
2014年06月22日(日) 若松町役場の会津藩士(127)
 会津藩士は、戊辰戦争で敗れた後で斗南へ流された者、さらに蝦夷地へ渡った者、上京して中央で活躍した山川健次郎など、散り散りになった。
 が、しかし、書き込んだ894人は會津に戻っていた。焼け野原になった郭内を再び整地して住み始め、往時を偲んだことであろう。
 894人のうち70歳以上は23人、高齢者ベスト3は、桂林寺町の元島幸次郎が文化2年8月生まれ84歳でナンバー1。明治時代の84歳は珍しいのであはなかろうか。2位は川原町の赤羽庄三郎で文化4年10月生まれの82歳。3位は東名子屋町の窪田里右衛門で文化5年11月生まれの81歳。
 若松城下には、上記のような由緒ある、歴史的町名がが第2次大戦後の昭和39年ごろまで続いていた。蒲生氏郷が會津入りし、黒川の里と言われたのを若松と変えて「町割り」して以来、470年余も続いていたのだ。
 これが、昭和38年の住居表示に関する法律によって姿を消してしまった。人口10万人以上の都市で、アメリカ式の街区方式で区割りしたのだ。
 我が国で続いてきた「向こう3軒両隣」がなくなり、向いの家はよその町内会になったのである。
2014年06月21日(土) 若松町役場の会津藩士(126)
 ◇栄町
神尾勝次郎(安政5年11月生まれ) 31歳
大場 義衛(慶応2年8月生まれ)  23歳
山田忠次郎(嘉永3年7月生まれ)  40歳
木野 源六(安政元年5月生まれ)  36歳

 ◇南町
須田新九郎(天保9年12月生まれ) 51歳
佐藤  乾(文久元年正月生まれ)  29歳

 ◇方柳町
吉川伊之吉(天保12年3月生まれ) 49歳

 ◇七日町
斎藤 松吉(弘化元年7月生まれ)  46歳

 ◇阿弥陀町
大束 三郎(万延元年2月生まれ)  30歳

 ◇西名子屋町
佐藤 熊次(嘉永3年4月生まれ)  40歳

 ◇屋敷町
古澤 四郎(嘉永5年8月生まれ)  37歳

                合計42人
                総計894人

(旧町名、戸数は『若松市史』下巻を参考にした)
2014年06月20日(金) 若松町役場の会津藩士(125)
▲追加分

 ◇槻(つきのき)町
北見徳之助(文久3年3月生まれ)  27歳

 ◇大町三
只木 四郎(安政3年3月生まれ)  34歳
沼田 茂助(慶応2年12月生まれ) 23歳 以上2人

 ◇当麻町
安味 義衛(明治12年8月生まれ) 10歳

 ◇材木町
神子四郎次(天保元年8月生まれ)  59歳
高橋 太郎(天保10年12月生まれ)50歳 以上2人

      ◇   ◇   ◇
 ようやくメンテナンスが終了した。9日から19日まで11日間は本当に長かった。ブログ中毒に罹っていたようで、毎日、ヒマを持て余していた。
 人生、終わりが近くなっても、自分の場合は、会津藩士顕彰会の慰霊祭や会報発行、それに毎日のブログで結構、忙しい毎日を送っていた。
 これだけではない。モノカキの端くれとして、『會津人群像』への原稿提稿もあり、楽しみながら、結構、忙しい日々なのだ。終わることのないー人生、とは言えないが、ぎりぎりまで楽しみながら、やり甲斐のある時間を送っていこうと思う。
2014年06月10日(火) お知らせ
Seesaaブログのメンテナンスのため『歴史ワールド』を19日まで中断致します。
連動して、『会津の歴史』のこちらの記事も休載させて頂きます。
2014年06月09日(月) 若松町役場の会津藩士(124)
 ◇日吉

岸 喜平次(天保7年7月生まれ)  54歳
長谷川留三郎(文政3年3月生まれ) 70歳
舘岡亥之助(安政4年5月生まれ)  33歳
和田又四郎(安政元年8月生まれ)  35歳
長澤 佐市(天保8年正月生まれ)  53歳
谷川 九郎(天保8年4月生まれ)  53歳
井深宅右衛門(天保元年正月生まれ) 60歳 (註)
相馬五早三(安政2年7月生まれ)  35歳
                以上8人
(註)井深家は会津藩士の中で名門9家の一つ。宅右衛門は500石、藩校・日新館学校奉行。長男梶之助は明治学院大の創立者。一族にソニー創業者の井深大、自刃した白虎隊19士の石山虎之助と井深茂太郎がいる。
2014年06月08日(日) 若松町役場の会津藩士(123)
 ◇南町(下)

塩田辰次郎(文化12年9月生まれ) 74歳
佐々木市四郎(文久2年正月生まれ) 28歳
鈴木 春衛(天保3年10月生まれ) 57歳
角田 彦八(明治10年6月生まれ) 13歳
垣内千代松(安政元年4月生まれ)  36歳
山村 全八(慶応2年3月生まれ)  24歳
斎藤 新吾(文久2年2月生まれ)  28歳
                以上17人
(郭内の南にあったので地名に。蒲生時代においたといわれるが、不詳。戸数117戸。文禄元年=1592=南町を改称して堅町、中町、中横町、西横町、西町とした。湯川に大橋=小田橋=が架かる。長楽寺、明栄寺、福泉寺などがあり、旧家に刀工三善藤四郎がいたが、子孫は堅三日町に移った。この町から融通寺町に通じる斜めの道路は明治19年に開通。南町、湯川町、城西町、錦町、城南町と細かに分割、変更)
2014年06月07日(土) 若松町役場の会津藩士(122)
 ◇南町(上)

上野源四郎(天保2年3月生まれ)  59歳
石川 七蔵(明治2年4月生まれ)  21歳
林  文洞(安政6年10月生まれ) 30歳
加藤竹次郎(慶応元年3月生まれ)  25歳
楡井安三郎(慶応元年正月生まれ)  25歳
小日山徳三郎(万延元年12月生まれ)29歳
遠藤 仁吉(文政2年4月生まれ)  71歳
大橋豊次郎(安政4年4月生まれ)  33歳
長尾八十八(天保9年10月生まれ) 51歳
鈴木 武輔(嘉永元年9月生まれ)  41歳
2014年06月06日(金) 若松町役場の会津藩士(121)
 ◇栄町(最終回)

小坂 濱吉(安政5年12月生まれ) 31歳
沖津 貞松(慶応2年7月生まれ)  23歳
高田 正八(文久2年2月生まれ)  28歳
                以上155人
 (維新前は武士が住んだ郭内。鶴ヶ城の北出丸から北へ甲賀町通りが城下町まで走り、東西に本一之丁、本二之丁、本三之丁、本四之丁、五之丁、六之丁があり、外堀の内側に屋敷が連なっていた。現在は、甲賀町の日本一本店から馬場通りは常陽銀行支店から内側。当然、会津若松市役所も含まれ、人馬が通れる幅11間=20メートル=の広い道だった。
 維新後、「将来に向かって栄えるように」と町名が付けられた。1〜4丁目まで。昭和初期までは戸数923戸。地裁若松支部、若松税務署、県立若松商業、会津工業、会津女子高、第一尋常小学校、興徳寺などあり。町名変更で、城前、城東町、追手町、山鹿町、米代などに姿を変えた)
2014年06月05日(木) 若松町役場の会津藩士(120)
 ◇栄町(20)

酒井 伝蔵(天保6年10月生まれ) 54歳
江川 多平(天保7年8月生まれ)  53歳
赤塚八次郎(嘉永6年2月生まれ)  37歳
渡辺 次郎(天保9年3月生まれ)  52歳
福沢伝次郎(天保2年10月生まれ) 58歳
佐藤 平八(文久元年6月生まれ)  29歳
渡邊 丈徳(安政3年6月生まれ)  34歳

      ◇   ◇   ◇
 本日の千葉日報に富津市竹岡の会津藩士慰霊祭の原稿が掲載された、写真付きで。部数は少ないが、少なくとも官公庁ではとっているので、関係者の目に届くだろう。少しでも富津市民が読んでくれればいいが〜。 木更津の地域紙新千葉新聞にも記事を送った。 
 福島県では、民報と民友の会津版に載っているはずだ。慰霊祭からの帰宅後、自分のブログに書き込んだのをはじめ、上記4紙に原稿と写真を送るのだから、一苦労。
 舞台裏を打ち明ければ、こんな世話しい慰霊祭なのである。
2014年06月04日(水) 若松町役場の会津藩士(119)
 ◇栄町(19)

黒沢弥三郎(天保3年9月生まれ)   57歳
佐藤勝三郎(文久2年8月生まれ)   27歳
小原 忠吉(慶応2年8月生まれ)   24歳
矢嶋 重則(嘉永4年4月生まれ)   39歳
高橋 重雄(文化15年正月生まれ)  72歳
星 勇太郎(天保14年12月生まれ) 46歳
大竹久之丞(文政11年10月生まれ) 61歳
佐瀬 大蔵(文化13年4月生まれ)  74歳
安味 鶴吉(明治8年正月生まれ)   15歳
石塚善次郎(慶応3年2月生まれ)   23歳
2014年06月03日(火) 若松町役場の会津藩士(118)
 ◇栄町(18)

渡部熊太郎(天保元年4月生まれ)  60歳
鈴木 深蔵(嘉永6年正月生まれ)  37歳
新妻五郎七(文政9年正月生まれ)  64歳
早川 宇門(弘化4年12月生まれ) 42歳
松本 左門(天保10年9月生まれ) 40歳

      ◇   ◇   ◇
 昨日のデジタルフジで、石原慎太郎衆議院議員と東大名誉教授が討論した。最近の朝日新聞の左傾化が話題になり、「売国奴新聞」とまで扱き下ろされていた。
 気分がよかったのは、石原が「朝日は飲むもので、見るものではない」と指摘したこと。うまい表現をするものだ。確かに、これから飲むものだ。作家だけにボキャブラリーに富んでいる。すっきり!
2014年06月02日(月) 慰霊祭続き
 昨日の第8回慰霊祭は予想以上に盛り上がった。會津名物「赤べこと起き上がり小法師」の飾り物が富津市内4か寺の会津藩士墓地に供えられたことは報告したが、慰霊祭当日、富津市商工会の事務局長や地域活性化支援アドバイザーなる方が飛び込みで参加してくれ、「斎」では歴史の話に花を咲かせた。
 一方、プロ野球は巨人がオリックスを連破して交流戦首位に躍り出たし、東京6大学で母校義塾が宿敵早稲田を破って6シーズンぶり34度目の優勝を飾るなど、6月1日は記憶に残る1日となった。
 それだけではない。会津藩士34名が眠る十夜寺(松翁院)では、住職から、住職交代を記念して雑誌を出版する計画しているが、河野さんには富津と会津の関係などの一文を書いてほしいーと要請された。勿論、快諾したが、徐々に會津と富津の縁が富津市民の中に浸透している証拠であろう。
 不自由な体に留意して、これからも頑張ってやろう、と思う。
2014年06月01日(日) 第8回会津藩士慰霊祭
 第8回会津藩士慰霊祭を富津市竹岡の延命寺で行った。会津若松と富津市から田邊賢行、高橋恭市両副市長に會津会副会長の福田のぶ子さん、三浦半島会津藩士顕彰会の藤田佳宏さんに会員ら20数人が参加し、小生が「この活動を通して会津若松市と富津市が友好都市の縁組ができるよう礎としたい」と誓った。
 後に境内の会津藩士4名の墓地に献花、焼香し、富津市内の男性が作った「赤べこと起き上がり小法師」の飾り物を供えてきた。近くの十夜寺でも藩士墓地を墓参した。
 引き続き、「斎」にうつり、台風被害を受けた地元の三柱神社を再建するため、参加者から浄財を募り、氏子総代に4万円余を献金した。
 同神社は会津藩士が富津から竹岡まで16`を泳いだのを記念して8代藩主松平容敬が「遠泳の絵馬」を奉納した、會津とは縁が深い神社。
浄財を寄付する河野会長(左)
▼ トップページにもどる ▼
河野十四生の歴史ワールド
◆Copyright(c)2014 河野十四生 All Rights Reserved.◆