会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(17)◆
多賀谷勝之進

著者/河野十四生
 多賀谷勝之進も戊辰戦争殉難者です。白河城が西軍の手に落ちた慶応4年(1868)5月19日、西部戦線でも、越後長岡城が西軍の手に落ちました。
 長岡藩家老・河井継之助と会津藩家老・佐川官兵衛は、長岡城を奪回すべく6月1日加茂を出発します。勝之進(450石)は、朱雀土中隊佐川隊の副隊長として、先頭に立ちました。翌2日、会津兵、長岡兵は三方から長岡城下に攻め入り、悪戦苦闘20日間の末に、一時は長岡城を奪還するのですが、この戦いの中で勝之進は戦死します。
 注目したいのは、この戦いで西軍の中に、尾張藩が混じっているのです。徳川御三家のひとつ、尾張藩がなんと西軍なのです。半ば強制されたとはいえ、実に情けない話ではありませんか。黄泉の家康もさぞや嘆いたことでありましょう。
 墓石は、子孫が昭和11年(1936)に建立したもので、鶴ヶ城郭内二之丁の屋敷で自刃した祖父勝右衛門はじめ、一族8名の殉難者名も刻まれています。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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