会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(15)◆
家老 横山常徳

著者/河野十四生
 幕末の江戸家老、横山常徳は、代々家老職の700石の家に生まれ、主税を名乗りました。安政元年(1845)若年寄に登用され、翌年、江戸常詰家老となって100石加増されます。当時、江戸には「3家老」がいるとされました。水戸藩の武田伊賀守、宇都宮藩の戸田大和守、そして会津の横山主税常徳でした。
 文久2年(1862)7月、越前藩主、松平慶永(春嶽)は突然、常徳を招き、藩主、松平容保に京都守護職を受けるよう申し入れます。常徳は、松平容保に復命しますが、同時に、京都守護職は重大任務であり、現在の会津藩の立場を考慮し、地の利や世相などから辞退すべきである―と具申します。松平容保も同じ意見であり、再度、常徳を越前屋敷に遣わして京都守護職は辞退する―ことを伝えました。
 これに対して慶永は、会津藩に伝わる「家訓十五力条」を持ち出し、将軍補佐役の一橋慶喜らと共に受託を迫ります。国家老、西郷頼母らも江戸に上って辞退するよう、松平容保に進言しますが、容保は、やむなく引き受けるのです。
 文久2年12月、常徳は秋月悌次郎らを率いて京都守護職につく容保に従って上京。翌3年、有名な「天覧の馬揃」を陣将として、孝明天皇の御前で披露します。
 同年12月、常徳は京在勤の功により200石を加増され、同4年4月、第14代将軍、家茂より、手代木勝任らと共に二条城に召され、時服(季節の服装)を賜わる光栄に浴します。
 元治元年(1864)5月、病が重くなって帰国を願い出て会津に戻りますが、37日間の闘病生活の末、死去します。享年64歳でした。戊辰戦争で白河口の戦いで壮烈な戦死を遂げる副総督、横山主税は子息です。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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