会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(14)◆
松平修理・重松信俊

著者/河野十四生
 大窪山共同墓地は会津藩士のための墓地ですが、なぜか他藩の人が2人葬られています。
 一人は、上総(千葉)佐貫藩主松平修理、2人目は伊予松山藩の重松信俊です。松平修理は高家品川高如の嫡子に生まれましたが、後継ぎがなかった佐貫(千葉)1万5千石の初代城主の松平勝隆の養子となります。大坂加番、寺社奉行と順調に出世しましたが、五代将軍綱吉の勘気を受けて改易されます。羽黒山の山伏良覚という追放者を扶持していた咎により、会津藩お預けとなります。やがて身柄を江戸から会津に移されますが絶食すること60日、貞享2年(1685)8月、死去、42歳でした。綱吉の時代、幕府要職にあった者が、感情の起伏の激しい綱吉によって、些細な理由で処罰されるケースが多かったようです。その子勝英は後に赦免され、子孫は500石の旗本として存続しました。
 一方、松山藩士の重松ですが、墓石の裏に、「予州松山藩 重松銅治郎信俊・慶応4戊辰年6月17日」と刻まれています。戊辰戦争で鶴ヶ城が落城したのは、9月23日。6月といえば、白河口付近で、会津軍は西軍と激しい戦いを展開していた時期であり、現在も「なんで西軍のお墓が?」と関係者は首をかしげているのです。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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