会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(13)◆
家老友松氏興

著者/河野十四生
 家老友松氏興は、元和8年(1622)、高知の城下に生まれ、13歳の時、信州高遠城主だった保科正之に仕え、累進して2000石の家老となります。山崎闇齋について宗儒学を研究し、大河原養伯らが会津に藤樹学を伝えると、進んでその講義を聞きます。神道は吉川惟足に、国学歌道は正親町公通について修めました。
 その姓は剛毅にして博学、正之の江戸在勤中は、留守中の会津藩の治世を任され、国老の田中土佐とともに果断な政治を行い、佳話も多い。山城・淀10万石の城主であり、石州流の茶人でもあった稲葉正通は、氏興を評して「会津の友松は悍馬のごとし、これを御し得る者は正之公のみ」と言いました。また、時の老中、酒井忠勝も「勘十郎(通称)は言行二つなく、古今の名臣である」と褒め讃えています。
 寛文年間(1661〜73)、正之の命を受けて領内を巡見し、山川の地形、 寛文年間(1661〜73)、正之の命を受けて領内を巡見し、山川の地形、土俗、物産、社寺、跡などを調査し、さらに古器の銘、古文書などを集めて、同6年(1666)『会津風土記』を編纂しました。また寛文8年には、正之に進言して、有名な「家訓15力条」制定に貢献しました。
 同12年(1672)、正之が死去するや、2000石の禄を返上、晩年は正之が眠る土津(はにつ)神社の建設に力をつくし、永代祭礼のために桧原川から3里(12キロ)余りも水を引き、翁島の北に土田村の開墾も行って、その年貢をもって祭礼料に当てました。土津神社の東側から磐梯山麓を横切って流れる土田用水堰の清冽な流れは、今に残す氏興の一大事業です。測量器具などがない時代、水路の落差の測定は、夜間に提灯を用いて測量したそうです。
 氏興は、貞享4年(1687)2月、66歳で没しますが、生前、すでに子孫が絶えることを覚悟して、墓碑銘も自分でつくり、その祭礼も青木村の人たちに依頼していました。その生涯は、誠実剛直そのものでした。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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