会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(8)◆
飯河光義

著者/河野十四生
 飯河光義は、明治になって旧藩士らと建てた私学校「日新館」教授。生年不詳。飯河家は、光義が幼くして父が亡くなったため家は途絶えた。若い時から刻苦勉励して文を修め武を練った。
 幕末、統幕の嵐が吹き荒れた京に上って某家に寄食し、秘かに自分の力を発揮できる機会を狙っていた。時に、会津藩主、松平容保が京都守護職に任じて上洛したので、事情を説明し、松平容保は寄合組士として召し抱えた。元治元年(一八六四)七月十九日、蛤御門の戦いでは槍を携えて突進、活躍が認められて禄百石を賜わり、外様組付を仰せつけられた。
 維新後は、会津の北部、大塩村(現在喜多方市)に隠れ住んでいた。明治九年(一八七六)思案橋事件の一味が逃亡してきたのを匿ったこともあった。その後、再び、若松に戻り、明治十五年(一八八二)旧藩士中條辰頼らと力を併せて私学校を創立、旧藩校に因んで「日新館」と名付け、教授として子弟の教育に専念したが、明治二十四年(一八九一)亡くなった。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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