会津の歴史

◆会津藩大窪山墓地に眠る藩士達(9)◆
木村忠次・忠成

著者/河野十四生
 木村忠次、忠成親子は、会津藩祖、保科正之に仕えた。忠次は、豊臣秀頼の臣であった木村重成の長男で、重成は大坂夏の陣で壮烈な戦死をするが、忠次はその直後に生まれた。
 寛永11年(1634)7月、信州・高遠城主だった正之が上洛し、京都・柴野大徳寺に入った時に正之に召し出された。同13年、正之が高遠三万石から出羽最上20万石に移封されると、忠次は150石を賜わり、同20年(1643)、正之が会津23万石の大守になると、さらに50石が加増され使番に。
 その子忠成は、父忠次が浪々の身で柴野大徳寺付近に住んでいた頃、忠成は、よく大徳寺で遊んでいた。正之が同寺を訪れた時も忠成がいたので、住職は、忠成にお茶を持たせました。
 ところが、忠成はなんと立ったままお茶を差し出したのです。これには、住職は吃驚。しかし、正之は、その不作法を咎めることなく、「なぜ、立ったままお茶をだしたのか」と尋ねた。すると忠成は「われは豊臣家の家臣である。故に関東の士には膝を屈しない」と、堂々と答えたそうです。
 正之は、忠成が将来、見込みのある器と見込み、「今は世変わり、時も移り、天下の士、みな関東に服している」と諭し、ただ今より、志を得てわれに仕えよ、といって父子ともに召し抱えた。父忠次は150石で、忠成は小姓となる。
 寛永20年(1643)、正之が会津移封されると、名も忠右衛門忠成と改める。正之自筆の色紙を添えられて仰せつかる。その後、町奉行、郡奉行を務め、最後は南山御蔵入り(現在の福島県南会津から栃木県塩谷郡)郡奉行になった。
のんびり行く会津鉄道の旅 (歴春ふくしま文庫)
河野十四生/著
歴史春秋出版 1,260円
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