会津の歴史
会津切支丹雑考

◆切支丹と茶道:その3

 蒲生氏郷は茶道の道に秀でていると同時に、利休に対しては他の武将たちよりも一段と
親しい間柄にあった。天正十八年(一五九〇)二月、利休が秀吉の怒りに触れて死を
賜わったとき、氏郷はその年の閏正月の上旬に上洛しており、その一部始終についても
知っていたのだが、氏郷にも利休を救うことはできなかったとみえて、利休のもとには密かに
使者を送ってこれを見舞い、事件の後は、利休の家族に罪の及ぶのを避けるために、
細川忠興とはかり、それぞれに道庵と小庵とを匿うこととし、氏郷は小庵を同道して会津に
帰国したのであった。
 会津に来た小庵は、城内の人々に茶道を教え、二ヶ年の滞在中に彼は氏郷の求めに
応じ、また氏郷の恩にも報いるために本丸の内に亡父利休の好みであった草庵の三畳台目
の茶室と、六畳の鎖の間とからなる「麟閣」を建てたのであった。そしてしかも、松皮つきの
床柱は彼自身で削ったものと伝えられている。そしてこの麟閣は何代かの城主交替があった
のにもかかわらず、明治の世まで伝えられ、戊辰の役で会津が敗北して若松城が取り壊し
の憂き目に逢ったときも、その昔氏郷に従って会津に来た旧家臣の子孫を名乗る人が払い
下げを受け、甲賀町なる自邸内に移築したために当時の面影を残して今日に伝えられる。
(その後再び鶴ヶ城に戻され現在は本丸にある)
 利休事件の後、氏郷は秀吉にたいして千家の再興を度々願っていたが、この願いは
やがて聞きとどけられ、千家はついに小庵を中心にして再興が許されたが、このときの赦免状
というのが表千家に伝えられている。この小庵は現在の千家の祖であり、茶道の方では氏郷
を千家再興の功労者として、利休七哲の筆頭に数えている。
 ところで氏郷は、最後の移封地である会津に於いても茶道の振興に力を尽し、文禄元年
(一五九二)十一月には京都からはるばると“天下一のちゃわんやき”吉右衛門なるもの
を招きよせたりしている。
 氏郷由来の茶道具類としては、氏郷使用の茶杓が東京国立博物館に所蔵されている他、
東京畠山記念館には楽焼茶碗“早船”が所蔵されており、神奈川の斎藤氏は氏郷作の
“竹花生”を、信州の真田家には、“鍋屋肩衝”が所蔵され、市内某寺には氏郷拝賜の
古萩茶碗が秘蔵されており、在りし日の茶人氏郷の片鱗を今日に伝えている。
【早船】
 茶人が「一井戸、二楽、三唐津」と呼ぶ楽焼の茶碗で天正十四年(一五八六)頃の作。
作者は長次郎という陶工で“早船”は長次郎七種の一つである。渋い色調はいかにも利休
の好んだ侘びの精神がただよっており、利休から蒲生氏郷に与えられたもの。
 この茶碗が“早船”と呼ばれるようになったいきさつは、いつの頃か千利休がこの茶碗を
茶会の席上で用いた際、同席した細川三斎が「この茶碗はどうしたのか?」と質問したのに
対し、利休が「京から早船で取り寄せました」と答えたところから、以後この茶碗は“早船”の
名で呼ばれるようになったといわれている。
【鍋屋肩衝】
 “鍋屋肩衝”と呼ばれるいわれは、天正の頃に堺の町人鍋屋道加が持っていたからと
いわれるが、またの名を“筑摩肩衝”とも呼ばれ、近江坂田郡の筑摩神社で行われる
天下の奇祭“鍋かむり祭”からきているともいわれている。
 この“鍋屋肩衝”はのち蒲生氏郷が所有するところとなったが、孫の忠郷の時、お金が
必要になり、この肩衝を抵当として信州松代の真田家から一万両の借金をした。しかし
借金返済のないままに寛永十一年(一六三四)に忠郷は没し、後嗣のない事からお家は
断絶となってしまった。したがって“鍋屋肩衝”はそのまま真田家の所有に帰したのであった。
■切支丹と茶道:おわり
次→◆切支丹と救癩事業◆
一覧