◆切支丹と救癩事業◆
南蛮貿易が始まった天文11年(1542)から17年(1548)にかけての頃のことである。 |
大友義鎮の弟で、後の山口侯大内義長が鉄砲によって額と手とに負傷したことがあった。 |
このとき義長は16〜7歳であったそうだが、原因は鉄砲に弾薬を填めすぎて暴発したので |
あった。このとき居合わせていた一イスパニヤ人が、求められて診察したところ、右手の拇指 |
はほとんどちぎれそうになっていた。そこで彼はまず拇指を7針縫い、額の傷の方は5針ほど |
縫って、そこに卵を塗り、その上から麻布を当てて縛り、5日目で糸を抜き、20日間くらい |
でほとんど治癒したという。これが日本において南蛮医療の行われた嚆矢である、とされて |
いる。しかし残念なことには、このときのイスパニヤ人の名前も経歴も伝わっていない。 |
わが国に正式に西欧医学が紹介されるのは、それより約10年ほどおくれて、ルイス・デ・ |
アルメイダが来日するのを待たなければならない。アルメイダは、弘治元年(1555)に来日 |
した人で(天文21年説もある)、日本に来る前の経歴には不明な点も多いが、1525年 |
にイスパニヤ国王ジョアン三世より、その全領土における外科手術教授の免許証を下附 |
されている。1548年、即ち彼が24歳の頃に東印度に渡り、商人として、また医師としての |
成功を志していたが、このとき、たまたま日本への渡航の途上にあった神父のガーゴや、 |
フェルナンデス、フロイスなどと同船したのがきっかけとなり、彼はイエズス会士に対する憧憬 |
の念を燃やすようになった。つまりこの機会が彼の一生を決定してしまうのである。 |
このアルメイダが日本に現れるのは、それより7年後の弘治元年(1555)のことであった。 |
彼は来日するとイエズス会に入り、そこで彼らが最も望んでいることを知るが、それは |
アルメイダ自身が身につけていった技術にふさわしい、育児と救癩の事業であった。そこで |
彼は豊後府内(大分市)に育児院、ならびに癩病患者のために隔離病棟を開設したので |
あった。これは日本における西洋医学による初めての病院であったが、アルメイダは後には |
布教活動にも従事するようになり、薩摩から関西にかけて踏破し、天正11年(1583)に |
天草で日本の土となった。 |
アルメイダ泣きあとの切支丹の医療事業は一層救癩の事業に集中されるようになるが、 |
その主な理由は当時の日本における社会的な要求にもよったが、イエズス会の医療従事 |
禁止令によって、彼らの慈悲の行為の力点が、“医療”より“救護”へと、変更されるように |
なったことと、フランシスコ会士の渡来に負うところが少なくなかったのである。 |
フランシスコ会は、会祖のアシジのフランシスコが、癩病患者を看病した古事にならい、 |
布教活動に附随する慈善事業として救癩の事業を行っていたから、文禄2年(1593)に |
同会の神父ペドロ・バプチスタルがルソンの使節として来朝し、そのまま日本にとどまって |
布教活動に従事するようになると、その修道院の置かれるところのほとんどすべてに、癩 |
病院が附設された。 |
フランシスコ会は「逢坂(大阪)より西の吉利支丹はコンパニヤ(イエズス会)。逢坂より東の |
寺はフラテ派(フランシスコ会)なり」と『契利斯督記』にも概説されているように、東北地方 |
にも布教を拡大し、その救癩事業も遠く東北にまで及び、イエズス会とフランシスコ会とは |
相競って布教慈恵と救癩の事業に尽瘁するようになるが、しかしあいにくと、フランシスコ |
会士の渡来後間もなくして迫害と殉教の歴史が繰り広げられるようになったから、これらの |
事業は両者にとって単なる棄てられたる癩病患者の救済という意味以上に、生命を賭し |
た社会事業になっていったのである。 |
ところで会津における切支丹は、イエズス会士によって拓かれたところではあったが、のち |
にはフランシスコ会派の神父たちも潜入して活発な布教活動を展開し、当然のことながら |
救癩の事業もなされていたことは間違いのない事実であった。しかし今、その全貌について |
明らかにするすべはないが、会津切支丹の中に多数の癩病患者がおり、彼らは酷寒の中 |
にあって風霜に曝されながら殉教していったことは『新編会津風土記』の中にも明記されて |
いるところである。この文は、会津においても切支丹たちに救癩活動のあったことの証しで |
あるので、次にその全文を書き写しておく。 |
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「切支丹塚 薬師堂河原の裏にあり相伝ふ寛永12年耶蘇の徒横沢丹波(何人なる事 |
詳にせず)と云者及び其族を捕へ此地に出し高く磔に懸るに皆二日を経すして死す此時 |
丹波か宅の壁中に隠れ居し伴天連をも索出し同く磔に懸るに17を経て死しぬ同頃 |
穢多町の側に小屋を設て壁を作さす多く癩人の耶蘇となれる者を置き風霜に曝して殺す |
其後彼死人を同穴に埋て此塚を築くと云」(巻之二十四) |
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■切支丹と救癩事業:おわり |
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次→◆切支丹と子安観音:その1◆ |
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