◆切支丹と茶道:その2◆
かの有名な千利休が茶湯の世界に登場し、気鋭の茶湯家として活躍を始めたのもこの頃 |
のことであった。この利休も切支丹であったと言う人もあるが、しかし彼が切支丹であったという |
証拠は何もない。ただ彼の直弟子、つまり利休七哲といわれる人々の多くは、切支丹か、 |
さもなければ切支丹のよき理解者であったことは確かなので、その宗匠たる利休が切支丹 |
であったという風説も生まれてくるのだろう。利休七哲と称される人々は寛文三年(一六六三) |
に書かれた『江岑夏書(こうしんなつがき)』に初見するが、それによると |
次の人々である。 |
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一番 |
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蒲生氏郷 |
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二番 |
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高山右近(南坊) |
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三番 |
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細川忠興(三斎) |
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四番 |
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芝山宗綱 |
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五番 |
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瀬田掃部 |
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六番 |
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牧村利貞 |
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七番 |
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古田織部 |
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このなかでも高山右近はよく知られているように、切支丹大名中でも最右翼の人である。 |
永禄七年(一五六四)に大和宇陀郡の沢城において洗礼を受け、公正・正義といった意味 |
をもつ洗礼名のジュストを名乗り、またその名にふさわしく周囲の人々に対して熱情をもって |
入信を勧誘したのであった。その結果、彼の勧めで入信した大名も数多く(蒲生氏郷も |
その一人)、沢城から移った摂津(大阪)の高槻城下では天正九年(一五八一)当時、 |
二万五千人の領民のうち一万八千人を切支丹にしたといわれている。 |
蒲生氏郷を入信に導いたのも彼であり、氏郷の臨終に際し、その枕元にあって聖像を |
かかげてコンチリサン(完全なる懺悔)を行い、パライソ(天国)の快楽(けらく)に至ること |
を説いたのも右近であった。 |
牧村兵部利貞もまた右近の感化を受けて入信したが、入信するに際しては、数多くいた |
妻妾を退け、身辺をきれいに整理したと伝えられている。また蒲生氏郷を入信に導くに際して |
も牧村の協力は多大であったといわれている。 |
氏郷が利休に師事したのはいつの頃からか明らかではないが、秀吉が利休と交渉をもった |
天正十年(一五八二)の頃からではなかったかと思われる。戦国武将の多くは趣味と教養 |
とを兼ねて茶道をたしなんだが、氏郷の場合も既に若いときから茶道に心がけ、その道に |
かけてはかなりの域に達していた人であった。『茶窓間話』(享和四年版)という書によると、 |
若い大名が茶道を好んで三斎細川忠興に謁して、向後弟子となって指南を受けたいと |
頼み入れたとき、三斎は答えて「いまの世の茶道の通弊は、肝要のわが武道を疎略にして、 |
ひたすらに茶の湯三昧に日を消尽することである。近頃異なことを申すようだが、茶道を |
好まるならば、恐れ多いことながら上は信長公、秀吉公、下にては蒲生氏郷、さては |
身不肖ながら、この三斎を目当手本として真似られよ」 |
と言って戒めたということである。 |
また『蒲生文武記』によると松坂在城の頃、種村慮斎という佗び人が竹の柱に編戸といった |
住いで、土器の釜を据え、前庭に小さな富嶽型の築山をこしらえて茶の湯を楽しんでいると |
いうのを聴いて、一日近習を引きつれてその陋屋(ろうおく)を訪ねたことがあった。このとき |
近習の一人が庭の小さな築山を見て、富士山には似ない擂りこぎ山だといって笑ったが、 |
蒲生氏郷もこれを見て |
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富士見ぬかふじには似ぬぞ松坂の
慮斎が庭のすりこぎの塚 |
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と詠んだ。ところが慮斎もこれに負けずと |
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富士はみずふじには見えず我が庭に
すりこぎなりの塚をこそつけ |
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と返歌した。それから間もなくして氏郷は、この慮斎を召しいだし、御伽衆の一員に加えた |
のであった。 |
以上のような逸話は、文武両道に秀でた氏郷の風姿をよく伝えているものであるが、会津 |
に移封になる直前には、上方に来ていた博多の豪商神屋宗湛の茶会に招かれ、歴史上に |
有名な京都北野の大茶会にも、秀吉の茶席に第二番目の客として招かれている。氏郷は |
そのほか自叙伝にも、路地のつくり、飛石の据えようなど人の手本とされるまでに至ったこと |
などを記しており、彼の教養の中でもとりわけ注目されるのは茶道であったのである。 |
■その3へつづく |
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次→◆切支丹と茶道:その3◆ |
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