会津の歴史
会津切支丹雑考

◆切支丹と美術:その2◆

 八良尾のセミナリヨはその後火災に遭って有家に移されたが、慶長元年(一五九六)に
日本に司教として着任したペドロ・マルティンスが、南蛮船の司令官、宣教師、商人らを
伴ってそこへ視察に赴いたとき、セミナリヨの玄関には十九歳の日本人が描いたという美しい
聖母像がかかげられており、生徒たちが版画や絵画の製作に専念しているありさまは
一行を驚嘆せしめたという。
 またこのセミナリヨとは別に、島原半島の向かいの天草下島の志岐に、天正の終り
(一三九二〜三)頃から画学舎が設立され、十名から二十数名の者が慶長五年
(一六〇〇)まで、油絵画や銅版画、彫刻、楽器などの製作に専門的に従事しており、
さきに述べたジュアン・コラがそこの指導者となっていた。こうして志岐の画学舎や八良尾の
セミナリヨで日本人画工たちの製作した壁画や美術品は、各地の教会や切支丹信徒の
需要を満たすためのものではあったが、折から日明交渉が始まって、朝鮮に出征していた
将兵の大部分が日本へ引き揚げて来たので(文禄の役)世は挙げて太平を謳歌する風潮
が高まり、太閤自身も南蛮の風俗を好んだので、そうした世俗からの需要も増加した。
 こうした国内の事情もあって、長崎や京都などでも南蛮や、切支丹にちなんだ工芸品を
製作するかなりの工芸家が出現したが、そうした一連の作品のなかで、今日神戸市立南蛮
美術館に所蔵されている金地紙本彩色の“泰西王侯騎馬図屏風”は国の重要美術品にも
指定されており、その最も著名なものである。この屏風絵はかつて若松城内の大書院の襖絵
であったと伝えられているが、戊辰戦争の際に西軍の将前原一誠の手に渡り、その後
四曲一双の屏風に改められて今日に至ったものである。この絵柄は十六世紀ヨーロッパの
キリスト教国と、マホメット教国の君主が互いに馬上から剣を揮い、楯をかざして激しく渡り
合っている豪壮な場面であるが、この絵がどこで製作されたかを推考すると、おそらくは
西欧から招来された絵画を基にして、日本のイエズス会画学舎で製作されたもののようで
ある。理由は、天正少年使節の一行がリスボンを船出したのは天正十四年(一五八六)で
あったが、その前年にローマで刊行された『世界風俗画集』に、この絵の原画になったと
みられる各国君主の騎馬の雄姿が描かれており、天正少年使節の一行が、この画集を日本
に携えて来た公算が強いのである。またこの“図”の線描の部分などには日本画的な技法
が見られ、日本人の描いたものであることはほぼ間違いないと思われる。おそらく文禄の役で
九州に出陣していた蒲生氏郷が、この絵の製作をイエズス会の画学舎に依頼し、会津に
築城したばかりの若松城の大書院の襖に張らせたものが、そのまま歴代の君主によって
伝承され、明治にまで至ったものと思われるのである。
 なお、蒲生氏郷が招来した南蛮美術品はこの一点だけではなかったようである。同じ南蛮
美術館所蔵の六曲一双の西洋風俗を描いた屏風は南部家に伝来したものであるが、この
屏風は文禄三年(一五九四)に、蒲生氏郷の義妹が南部利直に嫁した際に持参した品だと
伝えられ、明治十五年(一八八二)に盛岡の聖寿寺から発見されたものである。画中には
一見して南蛮人の修道僧とわかる数人が描かれている。そのほか会津藩は蒲生氏郷以来、
かなり熱心なキリシタン信徒が多数居った土地柄だっただけに、迫害時代にあって切支丹
からかなりの数の聖画や宗教用具などが没収されていたことは確かであり、それらは城内の
宗門庫に収められ、聖像画は踏絵などにも使われていた。東京の奥田氏の所蔵になる
銅板油彩の“聖母像”は、会津の宗門庫にあったものと言われているが、しかし、その他の
品々、例えば横沢丹羽とともに処刑された宣教師の法衣とか、教具なども戊辰戦争の際に
すべて失われてしまったことは、かえすがえすも残念というほかはない。
■切支丹と美術:おわり
次→◆切支丹と茶道:その1◆
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