◆切支丹と美術:その1◆
日本の各地に教会が建てられるようになると、聖堂や信徒たちのために、多くの聖画や |
聖像が必要になってきた。またそうした需要のほかに、宣教師らが将軍や大名のもとに |
出かける際などには、ルネッサンス期の華麗なる美術品は、彼らをしてキリスト教に深い |
関心をもたせるためには欠かすことのできない贈物であった。そのためにイエズス会士らは |
日本の伝道に着手すると同時に、イスパニヤから祭壇用の壁画・聖像や、あるいは進物用 |
の各種美術品を携えたり、あるいは船で送らせたりした。そのときの美術品は、当時 |
ヨーロッパで支配的であったフランドル派の画風のものが多かったそうである。 |
ヴァリニャーノは天正十年(一五八二)二月に、かの有名な遣欧少年使節を伴って日本 |
を立ち去ったが、それよりも先に、日本には既にセミナリヨ、コレジオ、ノビシャドという |
三種の教育機関が設立されており、神学や語学の学習もようやく盛んになっていた。 |
しかしイエズス会としては、通常、会員に対して美術の教育は行っていなかったが、彼らの |
中には芸術的才能に恵まれた者もおり、その才能は当然のことながら、布教上に大いに |
役立てられていた。 |
また一方、切支丹大名として名高い高山右近は、大和の山奥の沢城においてキリスト |
昇天の図を日本人絵師に模写させ、堺でも切支丹の金細工師がヨーロッパから船載された |
キリスト降誕の図と、昇天の図の二点を、原画と見違えるばかりの精緻さで模写し、また |
豊後の大友義鎮も京都の画家にキリストの画像の制作を依頼するなど、上方においては |
早くから洋画の手法にたけた画工が出現しつつあった。 |
都地方の布教長であったオルガンチーノは、日本人が切支丹の造形美術をことのほかに |
愛好することを認め、美しい聖像画をイスパニヤ船の司令官より譲り受けてほしいと上長 |
に出願し、あるいは修道会に入ったばかりの元商人であったアルメイダは、多額の費用を |
リスボンに送って聖母像を発注したりした。こうした日本の状況をみたルイス・フロイスは |
天正十二年(一五八四)本国への報告の中で、日本では五万個の聖画が必要であると |
報告した。 |
このようにして、日本の教会ではとうてい船載のものでは需要を満たし得ないことが |
明らかになると、イエズス会ではジュアン・コラという若い画人聖職者を日本に派遣して、 |
日本にたいして本格的に聖画作製の指導に当らせることにしたのである。このコラという人 |
は一五六〇年にナポリの南方サレルノに生まれ、二十歳にしてイエズス会に入った人で |
天正十一年に日本に渡来した。しかし彼は健康に恵まれていなかったうえに、哲学や神学 |
の研鑽にも励まなければならなかったので、画作にのみ専念できたわけではなかった。 |
それでもとにかく、こうして日本のイエズス会でも切支丹美術の製作がようやく盛んになろうと |
していた折りも折り、豊臣秀吉は天正十五年(一五八七)、突如として宣教師の国外 |
追放令を発したのである。秀吉は司直の手をもって、各地にある聖堂を破壊、もしくは |
没収し、港に停泊する船舶に対しても十字の旗を取り除くようにと命令したのであった。 |
そして彼はまた、身分の高い者が勝手に入信することを禁じ、既に信者となっている諸侯に |
たいしては、たとえ表面だけでも棄教することを命じ、あくまでも信仰を棄てぬと表明した |
高山右近や、その側近のごときは国外に追放してしまったのである。しかし同布告の中で、 |
民衆自身が切支丹宗を信仰することは禁止せず、下々の者が自分の意志によって信仰 |
するというのであれば、それはそれとして別に差し支えはないと述べ、また当時日本に在住 |
していた多くの宣教師たちも、表面恭順の意を表して潜伏したので、彼はあえてそれ以上 |
に強硬策はとらなかったのである。 |
かくてイエズス会が経営する幾つかの教育機関は、追放令の以後は西九州地方に分散 |
して地道な活動に転じ、天正十八年(一五九〇)に遣欧使節の帰朝を迎え、切支丹美術 |
の学習も課外教科として行われるようになった。天正十九年からの五年間、島原半島の |
八良尾という標高一八〇メートルほどの山中のセミナリヨでは、多数の生徒たちが絵画や |
銅版画を学んでいたことが知られており、このセミナリヨでは文禄二年(一五九三)、水彩画 |
を学ぶ者が各々八名、銅版画の学習者は五名ほどおり、彼らは西洋からもたらされた原画 |
の模写にいそしんでいたが、その出来ばえは実に見事であり、原画と見分けがつかないほど |
であったといわれている。 |
■その2へつづく |
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次→◆切支丹と美術:その2◆ |
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