会津の歴史
会津切支丹雑考

◆切支丹と茶道:その1◆

 わが国の喫茶の風は古く奈良時代から平安期にかけて、主として上層階級の間において
行われていたが、茶道には、書院式と呼ばれる公家・僧侶の間に行われていた貴族社会の
それと、民間から興った茶道との二大別がある。前者は華麗荘厳の茶であり、貴紳大名の
茶であった。つまり能阿弥系統の茶である。後者の方は室町の末期に奈良に珠光という者
が出て、茶礼に初めて清規を立てて従来の茶道を一変し、専ら奢侈、逸楽を事とした華麗
の流俗を転じ、草庵の清風を主唱したのであった。その意趣としたところは、僧の宗啓が
『南坊録』において述べているように、世俗的な一切の執着心を否定して、「家は漏らぬ
程、食事は飢えぬ程にて足る事也。是仏の教、茶の湯の本意也」とするに至ったのである
が、これはその時代の趨勢とは全く逆行する精神的な現象であった。
 やがて、この法脈は紹鴎・利休に伝えられたが、この後者の庶民階級の茶道の中心地は
泉州堺であった。それは草庵の茶湯の発祥の地ではないにしても、ともすれば観念に走る
旧来の茶道を正道に引戻し、それを平人の日常生活に直結せしめた点で、茶湯の本場たる
の貫禄のみにとどまらず、その名器を所蔵する点にかけても、堺の町は他の都市に決して
ひけをとるものではなかったのである。
 ところでこの茶道が戦国武将の間に迎えられ、いやしくも武将として一国一城の主とも
あるほどの者ならば、この数奇の道に入らぬ者はないほどの盛行を呈したのは織田信長の
時代からであった。これが一般庶民の間に受け入れられるに及んで、さらに一段と内容的
に深められて、己が心を磨き、修養の一助たらしめるために諸人の間で重んじられるように
なるのは豊臣秀吉の時代からであった。千利休をはじめ、堺の納屋衆や博多衆など町家
出身の茶人が武将の間に伍して、最も活躍したのも永禄から天正にかけての時代、つまり
覇権が信長の手に帰して、後に転じて秀吉が信長に代って天下に号令を下した約三十年
ほどの期間であった。そしてそれはまた、切支丹の歴史にとっても最も華々しい弘法の時代
でもあったのである。
 キリスト教が日本で布教されはじめた当初から、堺の町では切支丹信仰の萌芽を見せて
いた。天文十九年(一五五〇)の暮、聖ザビエルがキリスト教をひろめるために堺の町に
やって来た折り、その面倒を見た工藤という人は、堺の富商であると同時に、有数の茶人
でもあった日比屋了珪(慶)の父であった。ザビエルは日本に来るに際して抱いていたほど
の成果をあげることができず、翌年の十月には豊後から印度に帰ったが、八年後の永禄
二年(一五五九)十月には、トルレスの命を受けたヴィレラが堺の町にやって来た。
このときのヴィレラにはロレンソ、ダミアンなど三人の日本人が従って通訳をかねていたが、
瀬戸内海を東上中に仏教徒の反感をかって下船させられるという一幕もあった。この時は
幸にして、同じ船中に乗り合わせていた堺の一婦人(ウルスラ)に洗礼を授けたのが救い
となって、彼女の身内の宗全という者の家に泊めてもらうことができたのだったが、先々に
おける布教活動の困難さを思わせるには充分であった。
 日比屋家の人々はこうした宣教師の動きに強い関心を抱いていたようで、永禄四年
(一五六一)、了珪は当時豊後にいたトルレスに進物を贈り、デウスの愛により、デウスの
教えを説く者を派遣してもらいたいと強く要請したのであった。その結果ヴィレラが再び堺
の地にやって来たのはその年の八月のことであった。それ以来一年間、ヴィレラは日比屋家
に滞在し、日中は布教に当っていた。しかし、堺での布教は容易ではなかったようで、
この一年間で得られた信者数は僅かにして四十人にしかすぎなかったということである。
 永禄七年(一五六四)十二月になると、今度はアルメイダとフロイスが豊後からやって
来たが、これを迎えたのもやはり了珪であった。了珪の屋敷は櫛屋町にあったが、屋敷内
には当時としては珍しい瓦葺三階建の建物があり、了珪はここを聖堂にあてて宣教師を
宿泊させ、自らも洗礼を受けて洗礼名をディオゴと称し、日比屋家の人々もそのほとんどが
入信したのであった。
 日比屋一族の人々はことのほか信仰心が篤かったようで、アルメイダが二十五日間病臥
したときなどは、家族こぞって肉親の情にもまさる手厚い看護を行ったといわれ、また、
その甲斐あって回復したアルメイダが、同年の暮に、北河内の飯盛城に滞在するヴィレラ
に会うため堺を離れることになったときなどは、了珪はアルメイダを茶事に招いて別れを
惜しんだ。こうして了珪は堺における切支丹の先駆であったと同時に、多数の茶人を
切支丹に導く上でもおおいに力を尽したのであった。
■その2へつづく
次→◆切支丹と茶道:その2◆
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