◆第九十八話:斗南藩の成立◆
■明治二年(一八六九)六月三日、松平容保には実子慶三郎(容大)が誕生した。 |
それから間もなくして太政官から家名の再興がゆるされたが、旧会津藩士らには、 |
南部(斗南)三万石を取るか、猪苗代三万石を取るかの二者択一が迫られることに |
なった。このとき、藩の指導的立場の人々の間で意見が両派に分かれて大激論にな |
った。つまり永岡久茂らは、一から出直すつもりで南部移住に賛成し、町野主水を |
首領とする一派は父祖の墳墓に近い猪苗代を主張して譲らなかったのである。論じ |
ている最中、激昂した主水が抜刀して久茂に迫り、久茂は素手でこれを跳ね返すと |
いう一幕もあった。 |
■結局、南部を取ることに決まり、明治二年十一月四日、松平容保は隠退、南部三 |
万石は生まれたばかりの実子容大(かたはる)に与えられることになった。 |
■翌三年一月五日、旧会津藩士四千七百余名の謹慎が解かれて南部に移住すること |
が許された。しかし旧会津藩二十三万石の全員が、新封地の南部三万石に移住する |
ことはできない。そこで希望者を募り、およそ二千八百戸、家族を含めて約一万五 |
千人が移住することになった。 |
■四月十九日、南部に移住する者の第一陣三百名が八戸に上陸した。その七月、藩 |
の名はあらためて“斗南”と名付けられた。漢詩の「北斗以南皆帝州」に因んで命 |
名されたもので「北辺の地とはいえ天子の領土なのだから、天朝から追放されたの |
ではない」と解したのであった。 |
■斗南藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、この |
時は五戸に向かったが、のちに政庁の所在地田名部(現むつ市)に移住している。 |
■斗南に移住した旧会津藩士の家族たちは、藩士らより約六カ月後れた十月、会津 |
から、はるばる陸路にて旅立った。彼らの中には老人や婦女子らに混じって、多く |
の傷病者たちもいた。しかも、途中の旅籠代はのちに藩から一括して支払うという |
宿札もあったが、宿泊を拒絶する旅籠も多かった。粥をすすり、霙(みぞれ)にう |
たれても着替えさえなく、新封地斗南を遥かに拝しながら、無念の涙をのみ死んで |
いった者も数多くいた。 |
■斗南での苦難の生活はさまざまに語り伝えられている。 |
■明治四年二月二十九日、斗南藩は弘前藩に文書を送り、窮状を訴えて一千五百円 |
の支援を受けた。同六年になると移住藩士は窮乏のどん底におちいり、廃藩置県に |
ともなって多くの者は着の身着のままで斗南の地を去った。斗南は確かに農業には |
適さない土地であったかも知れないが、しかし周囲の山々は鬱蒼たる樹木で覆われ |
ていて、なかでも下北半島の山々は江戸時代、盛岡藩二十万石財政の支柱となった |
ヒバの巨木が生い茂っていた。 |
■廃藩置県後、全国的に士族のほとんどが苦しい生活をよぎなくされたなかで「八 |
戸の士族の如きは、全国に無比の富豪の士族にして莫大な土地を所有し、ほとんど |
農貴族の姿をなせし者多し」(『士族と士族意識』) |
という状況を呈したのであったが、これは八戸藩きっての英才であった大参事太田 |
広城が「廃藩後は旧藩所有林はすべて国有林に編入されるであろう」ことを予測し |
あらかじめ山林を家臣に分け与えていた結果であった。一方、斗南の旧会津藩士ら |
は、先の弘前藩に窮状を訴えた同日の青森の大火には、斗南藩内のヒバ材一千石を |
贈っている。それでいてこのヒバ林の活用については全く考慮した形跡がないので |
ある。 |
■斗南での苦難の生活は否定しない。しかし、これをあたかも明治新政府の会津に |
対する仕打ちかのように言う人もあるが、実際は旧会津藩士らの実学の欠如を示し |
たものであったという気がしてならないのである。 |
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