会津の歴史 戊辰戦争百話

第九十九話:田邊軍次の報復

田邊軍次(たなべ・ぐんじ)は田邊熊蔵の伜で、嘉永三年(一八五〇)の生まれ
であった。戊辰の役においては白河口に戦い、役後は東京で謹慎、のち斗南に移住
した。
軍次は斗南移住後も、会津藩の敗北は白河口の敗戦によるものと自責し、その敗
因は白坂村の大竹八郎が西軍に間道を教えたためであるとして、八郎を斬る事を公
言していた。明治三年七月の某日、彼は単身斗南を発し、八月十一日の夕暮れ近く
に白河に到着、すぐその足で白坂村に向かった。
途中、商人に逢って道をたずねたところ、軍次の旅装があまりにもひどいので、
相手の男は無礼な応答をした。軍次は怒りこれを斬ろうとすると、男はひたすらに
非を謝した。軍次はこのとき、大竹八郎なる者の面体を全く知らなかったので問う
てみたところ、男の答えるには、彼は戊辰の戦いで官軍に功があり、今は抜擢され
て白坂村の村吏となり、専ら物貨運輸のことを司り、その盛んなことは昔日の八郎
ではないという。
これを聞いた軍次は、その男を案内にたてると八郎を斬り、自分もその場で割腹
して果てた。八郎の養子直之助が急を聞き、槍を引っ提げて駆けつけたときには、
軍次はすでに屠腹した後であった。
この事はやがて白川県にも聞こえ、少属鈴木某がこれを検死、その懐中のものか
ら斗南藩に照会したところ、藩士井上某来り、田邊軍次であることを認知したもの
の、謹慎中の旧藩主容保に累を及ぼす事を恐れ、これは耶麻郡塩川村付近の肝煎
(きもいり)某の次男であると偽り、その死体を村民に引き渡して、同村観音寺境
内の共同墓地に埋葬させた。軍次、享年二十一歳であった。一方、八郎の死に対し
ては、民政局は祭祀料として四百金を給し、その墳墓は官軍戦没者に準ずる計らい
がなされた。
それより二十七年が経過、軍次の墓は永く荊棘中に埋没してその跡を知る者もな
くなっていたところ、在白河の会津会会員らがこれを知り、明治二十九年八月、そ
の二十七回忌にあたって軍次の遺骨を白河町九番地の会津藩殉難諸士の墓地境内に
改葬、弔祭の典を執行したのであった。
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