会津の歴史 戊辰戦争百話

第九十七話:会津藩士の北海道移住

斗南藩の成立に先だって、旧会津藩士の身分のまま「流罪」の形で品川より北海
道の小樽へ移された約二百戸の人々がいた。第一便は会津落城後一年がたった明治
二年九月二十一日に小樽到着、第二便は大坂丸によって九月三十日に到着した。
函館五稜郭に結集していた榎本武揚らの旧幕軍は、五月十七日降伏し、明治新政
府による日本統一は完了した。この時、政府のなかには旧会津藩士を唐太・北海道
に移し、反政府の軍事力とさせないと同時に、ロシアの南下に備える軍事力の一部
とさせる構想が形成されていた。
明治政府兵部省に所属し、小樽で待機していた百七十四戸約七百人の旧会津藩士
の第一陣は開拓使庁に委託されることになり、一人一日玄米一升、銭百文を支給さ
れて余市の漁業者宅に落着いた。
ロシアの南下を恐れていたのは明治政府ばかりではなく、幕末以来ニシン漁に湧
いていた余市周辺の漁業関係者も同様であったから、かつて北辺警備を担ったこと
のある会津武士団の来道は、明治政府の後楯も明瞭であったから心強い存在として
暖かく歓迎された。
明治二年十一月四日、太政官から家名の再興が許された。
旧会津藩士とその家族が南部(斗南)に移住したのは翌明治三年四月から、年末
にかけてのことであった。勿論、南部三万石の新封地では、旧藩士をすべて移住さ
せることはできなかった。結局は希望者を募ることになったが、この結果は会津な
どで帰農した(武士をやめた)者七百戸、東京やその他各地に移ったもの三百戸、
既に北海道などに渡ったもの約二百戸であった。こうして四月十九日、南部に移住
するものの第一陣三百名が八戸に上陸した。新藩名を“斗南”とつけたのは七月の
ことであった。
■斗南移封(明治三年)
陸奥国三郡
・北郡 (青森県上北・下北郡)
・三戸郡 (青森県三戸郡)
・二戸郡 (岩手県二戸郡)
■のちに北海道の次の四郡も支配を命ぜられた。
・後志(しりべし)国のうちの瀬棚郡 三年に五戸、四年に八戸
・太櫓郡・歌棄郡 四年に二十八戸
・胆振国のうちの山越郡 十一戸入植
・明治二十五年 丹羽五郎によって後志に丹羽村開拓される。
・明治二十九年 若松の経済人によって瀬棚郡北桧山に若松村開拓される。
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