会津の歴史 戊辰戦争百話

第七十七話:諏方社攻防戦

慶応四年(一八六八)九月十三日に予定されていた西軍の若松城総攻撃は、雨の

ために一日延期され、翌十四日朝から実施された。これと同時に諏方神社付近の会
兵を撃退し、併せて、会兵が確保している桂林寺町口から西の融通寺町口・川原町
口・花畑口の外郭門を奪取する作戦が実施された。
●諏方神社攻撃……長州・大垣・土佐
●融通寺町口………肥前・人吉・薩摩
●川原町口…………安芸・大田原・宇都宮・黒羽・薩摩
●花畑口……………館林・薩摩
●石塚観音付近……薩摩四番砲隊・中津・今治
以上のように攻撃配置を完了。九月十四日午前八時、小田山砲兵隊の砲撃を合図
に一斉攻撃が開始された。
なかでも諏方社付近の攻撃は、堅固な胸壁を築いて防戦している会兵に対し、正
面からは外濠があって進めない。はじめは銃撃戦を交えるだけであったが、佐土原
砲兵が援助し備前守備兵も融通寺町口から諏方社に攻撃をかけた。そのうえ計画ど
おり、長州・大垣の各一隊を土佐兵受け持ちの大町口から出撃させたので、諏方社
の背後を突く結果になり、側背から攻撃を受ける事になった会兵は忽ち動揺をきた
し、一部の兵は守りを捨てて左右に退却、小山田伝四郎隊だけが諏方社に残って立
てこもったが、この機に桂林寺町口から長州・大垣兵が突入したので小山田隊もた
まらず退却した。それが融通寺町口・川原町口と次々に波及して、やがて会兵は総
崩れとなり、この方面の指揮をとっていた田中源之進までが城中に退却を余儀なく
された。
この時、西出丸を守っていた白虎隊と郡上青山藩脱走の凌霜隊が出撃して、藩校
日新館付近にまで後退していた友軍を巧みに収容、西出丸からの援護射撃を受けて
城中に帰還するを得た。
諏方社攻防戦の図(推測図)
▲諏方社攻防戦の図(推測図)
一方、日光口からの西軍諸隊は、予定通り外郭門攻撃のために午前八時進軍を開
始していた。しかし会兵は必死に防戦するので、どこもたやすくは門内に突入する
ことが出来ないでいた。やがて、諏方社方面の会兵に動揺が生じ、融通寺町口でま
ず門内突入に成功。
以下の郭門も連鎖的に順次占領されていった。この日の戦闘で両軍ともにかなりの
犠牲者を出したが、西軍は合計十七名の戦死、負傷三十六名であった。これに対し
て会兵は戦死二十一名、負傷十二名を出した。
この戦いで、西軍による若松城西部の包囲網が一段と狭められたが、なお城南は
天神橋口(熊野口)郭門を始めとした幾つかの郭門は確保されており、城外との連
絡も辛うじて守られていた。
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