会津の歴史 戊辰戦争百話

第七十六話:御蔵入奉行、河原田信盛

河原田信盛は、慶応四年(一八六八)正月二十四日に勤番先の蝦夷地で、鳥羽・
伏見の敗報を聞いた。信盛はこの敗戦を主家存亡にかかわる一大事と感じ、藩主の
命はなかったが二月に婦女子を先に若松に帰国させ、自分も閏四月二十二日に帰国
の途についた。五月十六日に若松に到着した信盛は、翌十七日萱野権兵衛の取りは
からいで藩主松平容保に謁見し、命なくして任地を離れた事のお詫びを言上した。
南会津地方は旧河原田氏が領主筋に当たるということで、それまで嫡子包彦(か
ねひこ)が指揮役を負っていたが、包彦はまだ若年なところから信盛は「伜出張致
して居るも幼年なれば防禦方不安」の旨をもって願い出て、御蔵入(おくらいり)
奉行となり、御蔵入の行政と軍事を一手に握って多忙な毎日を送ることになった。
かくて、信盛は伊南郷の農兵編成に着手し『河原田精神隊』と名付けると、七月を
過ぎた頃より神奈川伝習隊士の大木鈴太郎・中川七之助両人の助力を得て、砲術・
進退・掛引等についての農兵訓練を開始した。
しかるに七月二十九日、長岡城は早くも陥落。長岡兵や会津兵、避難する婦女子
・農民など数千人が八十里越(はちじゅうりごえ)を越えて叶津に着き、只見川に
沿って若松に向かった。長岡藩河井継之助も八月五日に会津側に入ったが、傷重く
して塩沢村において八月十六日に没した。
八十里越からの西軍進攻コース(推測図)
八十里越からの西軍進攻コース(推測図)
この時西軍は、八月六日に峠の越後側登り口吉ケ平村を占領していながら、約一
ヶ月間吉ケ平に留まり、九月二日に至ってようやく会津側叶津に侵入して来た。そ
の後も若松には向かわず只見、黒谷、小林と遡り、大部分は布沢川より吉尾峠を越
えて野尻に止まり、ここに司令所を設けた。九月十日頃、高遠・飯田、後れて金沢
の兵らは伊南川の左岸沿いに上流に向い、途中会津兵がいないので十四日には大橋
まで進み、加賀兵は右岸を進んでこのとき山口にまで達していた。この頃信盛は田
島の陣屋にあった。山崎小助・江上又八の隊と共に信盛の農兵隊がおり、彼らは立
岩郷と駒止峠口より攻撃し、西軍を山口・大橋のあたりではさみ討ちにすべく作戦
をたて、信盛は針生峠から山口へと兵を進めて西軍を野尻まで後退させた。野尻攻
撃の作戦がまとまった二十五日夜、会津落城の報が届いた。
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