◆第七十八話:小田山からの砲撃◆
■慶応四年(一八六八)八月、東部戦線にあった会津藩兵は漸次退き、二十四日若 |
松城外に到着した。城中からは「直ちに小田山を確保するように」との命令がださ |
れたが、諸隊は昼夜兼行で引き揚げて来たばかりで休養もとっておらず、兵員の集 |
合もまだ終わっていなかった。彼等は食糧等を整えた上で小田山の確保に当たろう |
とひとまず城内に入った。 |
■翌二十五日、白河・二本松方面より侵攻してきた西軍に対し、城東にある極楽寺 |
の和尚は、小田山の地形が戦略上すぐれていることを内通した。かくて薩摩・鍋島 |
・松代・大村・土佐・岡山・加賀の諸藩の砲兵は山上に砲塁を築き、城を眼下に見 |
下ろしながら一斉に砲門を開いた。小田山上と城の直線距離は一六〇〇m、当初砲 |
弾は本丸まで到着しなかった。城兵等は小田山を占拠されて驚く一方でひとまずは |
安堵していたが、そのうち本丸にまで弾足が伸びるようになってきた。これは薩摩 |
の砲兵隊長大山弥助(巌)が諸藩の砲兵に注意し、砲口を上に向けさせて射角をと |
らせたからであった。城中の驚きは一方ではなかった。急きょ砲を豊岡東照権現堂 |
の付近、及び三之丸に出してこれに応戦。砲術師川崎尚之助は豊岡にあって兵を督 |
し、妻の山本八重子も兄の覚馬について砲術の技に長じていたから、これまた男子 |
に伍して奮戦これに努め、一時は小田山上の砲門を沈黙せしめたという。 |
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▲西軍の総攻撃推測図 |
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■西軍はこれを見るや、城の西南方舘の荒神祠の東北隅(本丸までの距離九五〇m) |
や、慶山村の南側畑地(本丸まで一九五〇m)に砲門を据え、それぞれ天守閣を目 |
標に熾んに砲撃を開始した。ここにおいて若松城は三面より砲火をあびる事になり |
殷々轟々として凄惨の気が城内に満ちるようになった。小田山をみすみす西軍の手 |
に委ねたという事は、戸ノ口十六橋の要害を失ったのに次ぐ会津側の大失策といわ |
れ、木本蔵之丞(四百石)の率いる青龍士中一番隊木本隊は八月二十七日、青木・ |
小田の線より小田山の奪還をこころみたが、西軍の猛烈なる狙撃を受けて隊長の蔵 |
之丞をはじめ、隊士佐藤兵左衛門らは山麓において戦死、奪還は果たせなかった。 |
■九月十四日より三日間、西軍は小田山・舘・慶山の砲門をはじめ、若松城下の外 |
郭門に砲列を布き、早朝の六時を期して一斉に砲撃を開始した。会津藩士鈴木為輔 |
の手記によると、十六日の砲撃は一昼夜で二千七百発に達したという。 |
■この総攻撃により、場内では将卒・婦女子に多数の死傷者を出した。その主な者 |
の名前を挙げると、生駒五兵衛(八百石)、中村帯刀(四百石)、間瀬新兵衛(三 |
百五十石)、唐木與市(三百石)、唐木辰五郎(三百石)、南摩節(三百石)、 今 |
泉隼右衛門(三百石)原田斐八郎(二百石)、赤羽伊織(二百石)、庄田久右衛門 |
(二百石)、柴兵部(百五十石)、鈴木伝内(百二十石)、下條郷助(百石)らで |
あった。 |
■戦後、極楽寺の僧の裏切りを知った武田宗三郎は、越後高田の謹慎所より密かに |
脱出して若松に舞い戻り、彼の極楽寺の僧を斬って藩士一同の恨みを晴らし、自ら |
は涙橋河畔の刑場の露と消えた。享年二十歳であった。 |
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