会津の歴史 戊辰戦争百話

第七十一話:栗生沢に果てた芸州兵

慶応四年(一八六八)八月二十九日、肥前・芸州・大田原・宇都宮の四藩からなる

西軍二千の兵は田島に攻め入った。会津兵はその日の朝、戦わずして田島の陣屋を
引き払っており、これを追う西軍は翌三十日、さらに大内宿方面に向かって進撃を
続けた。順調に勝ち進んだ西軍は、そこから一部の兵を返して田島に駐留させたが、
彼らの狼藉ぶりは目に余るものがあった。腹に据えかねた地元農民たちは、会津奇襲隊
による大内宿奪還作戦が九月九日の五ツ刻(午前八時)を期して行われることを知り、
これに合わせて田島でも行動を起こすことを決めた。彼らは田島陣屋を襲撃すべく、
田島組八箇村から一戸一人ずつ蓑笠姿で河原に終結し、わざと西軍陣屋へ「会津の
大軍がそこまで押し寄せてきた」と告げ、一方では松の木大砲をドカン、ドカンと
打ち鳴らした。松の木大砲とは、ポンケ鍛冶屋の異名を持つ村の鍛冶屋が急きょ造った
ものであったが、とにかく小勢の西軍は、敵の大軍と聞いただけで浮足だち、食いかけ
の朝飯を放りだして蜘蛛の子を散らしたように山中に逃げこんだ。
この西軍の将に山本他人輔がいた。山本は「大砲隊に攻撃されてはわが軍は全滅だ。
遺憾ながらこの場は逃げるよりほかに方法がない。逃げ行く先は水無を通り、栗生沢
(くりうざわ)から大萱峠を越えて下野那須郡高林村」と命じた。西軍に人足として
使われていた栗生沢の湯田宇平は早速わが村へと走りこの事を名主に報告した。すると
名主の久左衛門は村人を急きょ氏神様の境内に避難させると、西軍の通過に備えた。
明くる日の夜明けころ、西軍の兵たちは栗木坂を登って居平に到着した。この時
村人らは一斉に鬨(とき)の声を挙げ、それに合わせて湯田佐吉が猟銃を撃ったので、
驚いた西軍の兵は坂を逆戻りし、部落を遠く迂回しながら逃げていった。
それから二、三日たったある早朝のこと、湯田仲吉、同百太郎の二人が山仕事に
出掛けたところ、広川原の杉林前にある小屋の中から呼び止める者がある。みると
それは二人の芸州兵であった。仲吉らがびっくりして逃げようとすると、二人の兵は
地べたに伏して助命を乞うた。彼らは栗生沢部落を迂回しようとして山中に迷い込み、
この狭い山小屋の中で火を焚いて暖をとり、桑の葉っぱを食みながら露命を繋いでいた
のであった。会津地方の、しかも深山の陰暦九月半ばといえば夜の冷え込みもかなりに
厳しい。手足はすっかり霜やけにかかり歩くことも困難な様子であった。そこで二人は
持ち合わせの握り飯を与えると、彼らは二分金一枚ずつをもって礼をし「我らを是非
関東まで送り届けてほしい。後生だ」そう言ってなおも頼む。仲吉と百太郎はこっそり
送ってやるつもりで彼らを担いで山を下りてくると、途中で村人に出会った。すると
彼らは「この上の小屋においた方がいい」と言う。二人はこの意見に従って上の小屋に
移し一旦は村に帰ったが、村で相談した結果、彼らの命を取ろうということになった。
村人らは暮れ六ツを合図に小屋を取巻いた。すると芸州兵も外のただならぬ気配を感じ
草叢のなかに隠れたが猟銃で撃たれて非業の最期を遂げた。この時の一人が山本他人輔
その人であったそうで、慈恩寺境内にある「官軍戦死十九人之墓」の中にその名がみえ
また糸沢の龍福寺には芸州兵が宿営した時に落書きした「芸州藩二番隊」の逆さ文字が
残っている。
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