会津の歴史 戊辰戦争百話

第七十話:小松少年獅子隊

慶応四年(一八六八)八月二十三日、西軍は怒涛の如く若松の城下に押し寄せた。
会津の主力部隊は総て国境守備のために出陣しており、城中は手薄であった。藩主
容保は二十四日、日光口駐留の山川大蔵に急使を立てて呼び戻すことにした。
「城中の兵少なく、守備薄弱なり、速やかに帰城すべし。但し途中の戦闘は避くべし」
と。
山川隊の主力は田島村にあったが、一部の守備隊を同地に残すと帰城の道を急いだ。
大内峠を越え、関山より本郷に至り、若松から一里ほどの地点にある下小松村に着いた
時は既に夕暮れであった。このとき小松村の婦女子老人は難を逃れて村を出ており、
残っていたのは若い男を中心に僅かばかりの者であった。
山川隊はその晩を下小松に一泊し、密偵を放って城下の様子を探らせたところ、
西軍は既に城を包囲しており、城内には蟻の這入る隙もないということであった。
大蔵はその夜密かに一計を案じた。それは、この村に伝承されている獅子舞の鼓笛を
利用して軍楽隊を組織し、さながら西軍の別動隊にみせかけて敵の目を欺いて
入城しようというものであった。しかしこれは危険な賭けで、見破られれば勿論
全員死を覚悟しなけれならなかった。
大蔵は、早速村の長老大竹重左衛門及び斎藤孫左衛門を呼んで計画を話し、協力
を求めた。二人は一歩間違えば矢玉の的になりかねないこの大役に心は揺れ動いた
が、「松平三百年の恩顧に報ゆるはこのとき…」と、村の辻の板木を打ち鳴らして
村人を集め皆で協議した結果、隊長には高野茂吉三十歳がなり、他は独身の若者だけで
組織することになった。彼らは血気に燃えていたが身の安全はわからない。家族や
村人たちと水盃を酌み交わし、二十六日の未明を期してひそかに大川を渉り、飯寺の
西方に勢揃いした。大蔵はかねての打ち合わせ通り彼ら少年獅子隊を先頭に立てると
「通り囃子」を吹鼓しながら威風堂々の進軍を続け、西軍の駐留する南面を通過して
城に向かったが、西軍はこの異様な鼓笛の音には、銃を杖にただ呆然と見送るばかり
であったという。
このとき山川隊の先導をつとめた小松獅子隊の参加者は、次の十名である。
・御弓 藤田與二郎 十一歳 昭和十六年没 享年八十四歳
・太夫獅子 蓮沼千太郎 十二歳 明治四十四年没 享年五十五歳
・雄獅子 大竹巳之吉 十二歳 明治四十三年没 享年五十四歳
・雌獅子 中島善太郎 十四歳 大正十年没 享年六十七歳
・笛 高野茂吉 三十歳 大正十年没 享年八十三歳
・笛 高木金三郎 十四歳 明治四十四年没 享年五十七歳
・太鼓 渡部藤吉 十八歳 大正九年没 享年七十一歳
・太鼓 大竹小太郎 十四歳 大正十年没 享年六十七歳
・太鼓 藤田長太郎 十七歳 明治三十九年没 享年五十五歳
・太鼓 高田長太郎 十五歳 明治三十九年没 享年五十歳
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