会津の歴史 戊辰戦争百話

第七十二話:長命寺の決戦

慶応四年(一八六八)八月、城下に続々と到着した西軍によって、若松城は東・
北・西の三方面から包囲されることとなった。僅かに残された南の日光口方面も次
第に圧迫されるようになり、城は完全に包囲されるかも知れない不安があった。籠
城中の城内に食糧を搬入するためにも、また期待される米澤からの援軍と提携する
ためにも、外部との連絡路は確保しておく必要があった。幸いなことに、会津藩と
しては四境に派遣しておいた各部隊が続々と帰城しており、出撃作戦を敢行するた
めの兵力は充分にあったので、やがて八月二十九日の払暁に出撃することが決定さ
れた。春日佐久良率いる別撰隊。小室金吾左衛門率いる進撃隊。田中蔵人率いる朱
雀士中二番隊。原田主馬率いる同三番隊。間瀬岩五郎率いる朱雀足軽二番隊。辰野
源左衛門率いる歩兵隊のほか、田中左内率いる砲兵隊や正奇隊を加えて総兵力十二
中隊、約一千名の出撃隊が編成された。
出撃の前夜、藩主松平容保より隊員一同を励ますために酒が下賜され、総督佐川
官兵衛には手ずから政宗の佩刀を賜った。しかし、この時官兵衛は酒を過ごして起
床の時間を逸したといわれる。二十九日の夜も白々と明け初めたころ、喇叭を吹き
鳴らしながら西出丸から融通寺町口へと打って出ていった。
その頃、融通寺町・西名子屋町などの城西地区は西軍の手によって焼き払われ、
長州・大垣・備前の兵がここを守っていた。会兵は銃を放ち、剣を振るって敵陣に
肉薄するや、西軍の兵らは皆散り散りになって近くの長命寺境内へと逃げ込んだ。
無量寿山長命寺は由緒ある寺で、濠と土塀とを三方に巡らしていた。北側は大庭
園をなして老樹鬱蒼と繁り、築山が連なって防備には適していたから、西軍はこれ
を利用して防戦した。会兵はこれに対し右は赤井町裏の西光寺、左は融通寺(ゆづ
うじ)町の城安寺裏や手明(てあき)町の法泉寺に出て墓石の間を前進、激しい砲
戦の末に三方面から長命寺に突入し、遂にこれを占領した。だがそれもつかの間、
谷守部(のちの干城)率いる土佐の援軍が駈けつけ、それに伴権太夫、大石弥太郎
率いる諸隊も援けに来たので、会兵はこれを桂林寺町や当麻(たいま)丁において
迎え撃ったものの、土佐兵の攻撃は猛烈を極め榴散弾を撃って激しく攻めたてたの
で、会兵の惨状は甚だしく、長命寺より撤退することを余儀なくされた。
この時の西軍に与えた損害は長州が戦死七名、負傷八名。備前が戦死四名、負傷
七名。大垣が戦死五名、負傷十名。薩摩は死傷者なく、土佐藩が最も多くの犠牲者
を出したといわれるが、その数は明らかではない。これに対して会津の損害は、戦
死百七十名、負傷者九十三名(内二十四名は後に死亡)であった。
佐川官兵衛の父幸右衛門(二百石)は、その下着に「慶応四年八月二十九日討死、
佐川幸右衛門直道生年六十三歳」と筆太に記して出撃したが、果たして決意通りの
戦死であった。そのほか会津藩の主な戦死者は、田中蔵人(六百石)、北原四郎
(五百石)、杉原丈左衛門(四百石)、国府篤三郎(四百石)、間瀬岩五郎(三百
五十石)、赤羽宇兵衛(三百五十石)、高橋伴之助(三百五十石)、内藤勇五郎
(三百石)、有賀勝助(三百石)、鈴木丹下(二百五十石)、小室金吾左衛門(二
百石)、庄田又助(二百石)、井上八十郎(二百石)らであった。
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