会津の歴史 戊辰戦争百話

第六十三話:中野優子の回想

優子は中野竹子の妹で、この時十六歳であった。慶応四年八月二十三日の西軍城
下殺到の日、母コウ、姉竹子、そして優子の中野家の婦女子たちはかねてからの決
意通り、各自髪を結根より三寸ほどに切り落し、白鉢巻に白襷(たすき)をかけ、
日頃稽古に用いていた義経袴を着用したが、このときのいでたちは、母は濃浅黄の
縮緬(ちりめん)、姉は紫の縮緬、優子は淡浅黄の縮緬で袖は何れも一尺五寸位。
袴の色は母が淡浅黄、姉が濃浅黄で優子は蝦茶であったという。
三人は薙刀を小脇にかかえて城門に駆けつけたが、既に門は鎖されていて内に入
れなかった。そのうちに同じく入城できなかった依田マキ・菊子姉妹、岡村コマと
出合って、集まっていた所、城中より来た武士から「照姫様は既に坂下駅にお立退
きになった」と聞いて、一同は照姫様を護衛し機会をみて戦闘に参加しようと相談
し、直ちに坂下に向った。だが、これは誤報であった事がわかり、翌日坂下の会津
藩軍事方の宿陣に出向いて従軍を志願した。これは軍事方にとっては甚だ迷惑なこ
とで「婦女子まで駆り出したかと笑われては会津藩の武士の名折れ」とか「鉄砲に
薙刀では戦争にならない」とか言って、彼女らを諦めさせようとした。だが女子の
中には「お許しがなければこの場を借りて自害する」などと言い出す者もあり、や
むなく「あす古屋作左衛門の率いる衝鋒隊(旧幕府歩兵)が若松へ向って進撃する
ので、それに従軍してもよい」と承認された。
その夜、優子は明日の戦いを思い勇んで寝入ったが、夜半母と姉は密かに相談し
合っていた。「まだ優子は少女であり、戦の足手まといにならぬとも限らないし、
また生捕られていかなる憂き目に遇わぬとも限らない。それよりも今のうちに冥途
(めいど)に先立てておけば心残りもないであろう」というのであった。この気配
を依田菊子に気付かれて、やがて優子も何事ならんと目を覚し、話を聞いて呆気に
とられるという一幕もあった。
翌二十五日、衝鋒隊・会津兵に長岡の援兵を加えた四百名ばかりの一隊に従って
優子たち婦女子も出発した。坂下より高久を経て、城下の西端柳橋(涙橋)付近ま
で来た所で長州・大垣藩の兵と遭遇し戦闘になった。婦女子一同も薙刀を振るって
奮戦したが、味方の勢はしだいに死傷者が続出して、姉の竹子もまた額に弾丸を受
けて倒れた。このときのことを、優子は後年次のように回顧している。
「妾(わらわ)共の戦場は、よく判りません。実際あの時は子供心にも少しは殺
気立って居ましたし、只悪(にっく)き敵兵と思ふ一念のみで、敵にばかり気をと
られ、何処にどんな地物があって、どんな地形であったかなどゝいふ事は少しも念
頭に残って居りません。只柳土堤に敵多勢居って熾んに鉄砲を撃ち、味方も之に向
って切(しきり)に撃ち合ひましたが、劫々(なかなか)埒明(らちあか)んので、
一同驀然(まっしぐら)に斬込んだ事は覚えて居ります。其時俄然砲声が敵の後方
に起ると、敵は浮足立ちて動揺を始めたので、此機会(とき)だと味方は一層猛烈
に斬込み、婦人方も其中に交って戦ひました。妾は母の近くにて少しは敵を斬った
と思ひますが、姉がヤラレタといふので、母と共に敵を薙ぎ払いつつ漸く姉に近づ
き介錯をしましたが、蒼蠅(うるさ)き敵兵共、喧々囂々(けんけんごうごう)と
倍々(ますます)群がりたかるので母と共に漸く一方を斬り開き、戦線外に出まし
た。其時農兵の人が妾共と一緒に戦って坂下に帰る途中は首を持って呉れたと記憶
して居ます。さかんに斬合た場所は、乾田で橋の東北方六丁位離れ湯川によった所
の様に思はれます」(平石弁蔵著『会津戊辰戦争』より)
二十六、七日とは坂下に留まり、二十八日、高久に陣していた萱野権兵衛の付け
てくれた二人の護衛の士に守られ、母や他の婦人たちと共に若松の城下に入り、敵
弾の中をかいくぐって大町通りから割場に至り、武士の合言葉をもって西追手門を
開かせて、ようやく入城することができた。その後の籠城戦は傷兵の看護や食糧の
炊出しに励み、非戦闘員として大いに活躍したが、優子も母も再び薙刀をとって戦
場に立つことはなかった。
次→◆第六十四話:豪快諏訪喜智子の奮戦◆
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