会津の歴史 戊辰戦争百話

第六十二話:中野竹子の殉節

竹子の父は、江戸常詰の勘定役中野平内、母は足利藩戸田家の臣生沼喜内の女コ
ウ、弟の豐喜、妹の優子がいた。母コウは顔が多少下膨れで好器量とはいえなかっ
たが、竹子は容姿艶麗で和歌をよくし、雅号を小竹といった。七、八歳の頃より赤
岡大助の門に入り、手習いや剣術を習っていたが、赤岡が大坂御蔵奉行として赴任
した際、養女に懇望されて一時大坂に移ったこともある。赤岡は甥の玉木某と娶
(めあわ)せるつもりであったが、竹子は男勝りの性格で、天下の形勢だとか君家
の雪寃(せつえん)だとか、男子の様な義憤で脳裏がいっぱいで縁談のようなこと
は極端に嫌い、父に強要して赤岡家を離縁、のち備中松山藩主板倉勝静の姫君付の
祐筆として奥務めをした。その後はさらに書を佐瀬得所に、薙刀を黒河内伝五郎に
習ってその腕前は免許皆伝の域に達していたという。
赤岡はその後会津に帰り、坂下にいる弟徳五郎宅の隣に道場を開き武芸を教えて
いた。父平内は、慶応四年(一八六八)藩主容保の供をして会津に帰ったが、中野
家は江戸常詰で若松の城下には賜邸がないため、母娘三人はひと足おくれて若松に
帰国、米代三ノ丁の田母神金吾(百五十石)の書院一室を借りて住した。竹子だけ
は赤岡の道場で剣道の稽古を受け、母の許へ帰ったのは、西軍が襲来する八月二十
三日の直前であった。
二十三日の早朝、西軍は会津側の予想を裏切って早くも若松の城下に殺到、合図
の早鐘が打ち鳴らされた。中野家の婦女子らはかねてからの決意通り、髪を結根よ
り三寸ほどの所で切り落とし、袖丈一尺五寸ばかりの縮緬を着て、義経袴をはき、
筋金入りの白鉢巻に白襷(たすき)で身なりを引き締め、刀をたばさみ、薙刀を小
脇に抱え込み、若松城へと駆けつけたが、城門は既に固く閉ざされていて中には入
れなかった。
こうして入城できなかった婦人達はほかにもあった。薙刀の稽古仲間である依田
マキや、その妹の菊子、岡村コマらと河原町口の郭門外で落ち合った。彼女らはそ
こで照姫が既に坂下に立ち退かれたという情報を得、その護衛の任に当たろうと坂
下に向かった。坂下に至った彼女らは、それが誤報であったことが分かり、こんど
は若松に向かおうとしていた衝鋒隊と共に若松に引き返すことになった。
八月二十五日、衝鋒隊に長岡の援兵を加えた四百ばかりの一隊は、午前十時頃、
坂下より高久を経て柳橋へと進んだところで、長州・大垣藩の兵と遭遇した。かく
て婦女子一同も薙刀を振るって奮戦していると「あれは女だ、生捕りにしろ!」と
いう敵の隊長らしき者の声。そこでお互いに「生捕りの恥辱を受けてはなりませぬ
ぞ」と励まし合いながら戦ううちに、竹子の額に敵弾が命中した。竹子は妹の優子
を呼び「敵に首級を渡したくない」と言って介錯を頼んだ。優子は激戦の中をよう
やく竹子のもとにたどりつき、無事介錯はしたものの、やがて薩・土両藩の兵が援
軍に駆けつけ、味方の兵はついに高久へと退却を余儀なくされた。このとき竹子の
薙刀の柄には
■■■ものゝふの猛き心にくらぶれば
■■■■■■数にも入らぬ我が身ながらも
の辞世をしたためた短冊が結びつけてあったという。
享年二十二歳。法名美性院筆鏡秀烈小竹居士。
戦死地跡には「中野竹子殉節の碑」が建てられており、墓は会津坂下町法界寺の
本堂前にある。
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