会津の歴史 戊辰戦争百話

第六十一話:壮絶、神保雪の死

神保雪は井上丘隅(六百石)の三女で、藩老神保内蔵助(一千二百石)の長男修
理(七百石)の妻。夫修理は幕末の不安な世情のなかで、西郷頼母らと共に非戦論
・恭順派として藩論の統一につとめていた。ところが会津の藩内では、鳥羽・伏見
の戦いに敗れたのは修理が西国の士に知己が多く彼が西軍に通じているためだと称
して、修理の恭順の態度を厳しく非難。切腹を命じられた修理は、慶応四年(一八
六八)二月二十二日自刃した。
妻の雪も修理の遺志を受け、会津を戊辰の戦乱から救うべく恭順論を唱え、とく
に白河口の戦いたけなわの頃、梶原平馬、原田種竜らに建言したが容れられなかっ
た。このときより、雪には心中深く期するものがあったという。
八月二十三日の早朝、父井上丘隅は幼少寄合組中隊頭として滝沢口にあった。十
六橋を破った西軍の進撃は急で、敗退した丘隅の兵は甲賀町口郭門まで引き揚げ、
この郭門を死守すべく踏みとどまって防戦につとめていたが、東の六日町口郭門を
突破した西軍は五之丁を西下し、丘隅ら甲賀町口で防戦する兵らの、退路を遮断す
るかたちとなった。
丘隅の屋敷は甲賀町口郭門から僅か百間ばかりの五之丁角にあった。退路を断た
れて自分の屋敷に踏み込んでみると、そこには妻のトメ、長女のチカ、三女の雪が
一室に集まり自刃の用意をしているところであった。丘隅はその中に雪の姿がある
のをみると「お前は嫁いだ身であるから、一之丁の神保家の人々と生死を共にすべ
きである」といって叱りつけた。雪は父の意を悟り、直ちに席をたって門を出よう
としたが、銃弾の飛来激しく、とても移動することはできなかった。そこで隣家の
垣を越えて漸く遁れたものの、一之丁の自邸に行く道は、既に敵の手で断たれてお
り、止む無く西に走り城外戦に参加した。
八月二十五日、若松の西郊涙橋付近の戦闘において、雪は武運つたなくして大垣
藩兵に捕らえられ、その夜、斬首されることになった。ところがたまたま大垣藩の
陣営にやってきた、土佐藩の隊長吉松速之助(後の陸軍歩兵少佐吉松秀枝)がこれ
をみて、落城は目前である。徒(いたずら)に婦女子を殺害することは無益であり
寛容をもって臨むべきことの必要を説いたが、聞き入れられなかった。そこで速之
助は雪の求めにより、大垣兵の反対を押し切って短刀を貸し与えた。雪はこの短刀
をもって見事に自刃し果てたが、鮮血淋漓、悲惨悽愴を極め、大垣兵らは戦慄して
正視する者がなかったという。ときに雪、二十六歳であった。
ちなみに父井上丘隅は、雪が邸を出たあとすぐ母と姉を介錯してのち自刃して果
てた。また、義父の神保内蔵助も、同日すぐ近くの土屋一庵邸で田中土佐とともに
切腹した。
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