会津の歴史 戊辰戦争百話

第五十九話:天寧寺町口の戦い

慶応四年(一八六八)八月二十二日、小原宇右衛門の率いる砲兵一番隊は、御霊
櫃峠を守っていたが、午前十時ころ石筵口の敗報を聞き、猪苗代の我が軍を援けよ
うとして峠を下りた途端、猪苗代が兵火にかかって天を焦がしているのが望見され
た。午後八時ころ、今後の行動について軍議をこらしたところ、「猪苗代に出て敵
兵を迎撃すべし」とする者と「十六橋の我が軍を援くべし」とする者などがいて、
軍議はなかなかまとまらなかった。二十三日の暁に及び、西軍はすでに戸ノ口を破
って若松の城下に侵入したとの急報がもたらされ、急遽兵を若松に引き揚げること
に決した。
小原隊は背炙(せあぶり)峠の間道を経て東山街道に下り、直ちに天寧寺町口郭
門より城に入ろうとした。しかしこのとき既に西軍は郭門を占領して、その壘壁内
に潜んでおり、小原隊が近づくや俄然猛火をひらき、弾丸飛雨する中を隊長の小原
宇右衛門は、兵を鼓舞叱咤して郭門に突貫させた。このため隊兵の斃(たお)れる
もの算なしというほどの激戦が展開されるなか、隊士の木村某は勇躍して壘壁を越
えて敵中に突入、郭門をひらいて我が隊を誘った。
宇右衛門は刀を揮って門内に入り敵中を猛進するや西軍は道を避けて近辺の士邸
(簗瀬・田中・三宅)に潜んで小原隊を乱射した。宇右衛門らは獅子奮迅して神保
原(今の県立博物館東北辺)に至ったが、ついに弾丸に当たって斃れた。その弟の
魁は兄を救おうとしてかけよったが、これもまた敵の狙撃にあって斃れた。
隊長護衛の士は大塚六四郎という未だ十八歳の若者であったが、宇右衛門を介錯
して、その首を携えて城に入ったので、藩主容保はその武勇を賞し、士中一ノ寄合
とした。
小原隊は、帰城兵中もっとも早い隊の一つであったが、激烈だったこの戦いで、
天寧寺町口から三之丸入り口の埋門に至るまでの間で、隊長の小原宇右衛門・魁の
兄弟をはじめ組頭多賀谷勝次郎ら二十名(資料によっては二十七名とも三十余名と
もいう)の戦死者を出し、城に入ることのできたのは全隊士の半ばにも足らなかっ
たという。
なお当時の会津藩の砲兵隊は、フランスに倣って曳馬方式に改善される方向に検
討されてはいたが、まだ一般には小銃をもった兵によって搬送されていたため、と
くに機動性・機敏さを要求される戦闘においては却って厄介物でしかなく、小原宇
右衛門は御霊櫃峠から急遽転戦を余儀なくされた際、大砲は山中に隠したままで移
動した。このうちの一門は大正三年にいたって現地農民によって発見されたことが
あった。
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