会津の歴史 戊辰戦争百話

第五十八話:天神河原(熊野口)の決戦

慶応四年(一八六八)八月二十三日の早朝、早くも若松の城下に殺到した西軍で
あったが、二十四日に至っても城を攻め落とすことは出来なかった。「若松城は思
いのほか堅固で、しかも会津軍は城を死守する決意でいる。我々は兵力も少なく、
攻城の兵器もまだ完備していない。無謀に城を攻めては兵を損ずるばかりである」
と、突如として作戦を変更し、会津軍の籠城態勢に備えて郭内の士邸に火を放って
撤兵した。援軍の到着を待ってから、一気に総攻撃に出ようというのである。若松
城を包囲する部署も、天寧寺町口と六日町口は薩摩藩と大村藩、馬場町口と大町口
は土佐藩、米沢口・桂林寺町口・越後口は長州と大垣藩とそれぞれの分担が決めら
れて、持久戦の態勢がとられた。
しかしこのとき、長州藩の将有地品之允は、若松城の南面が防備上弱点のあるこ
とを知り、ひそかに一隊を率いて城の東南方から湯川を渡り静松寺の墓地内に大砲
を据えて、折りをみて熊野口より一気に三之丸に攻め入る構えをみせていた。だが
このとき、城内には隊伍を有する兵力は一隊もなく、あるものは近習、馬廻り、吏
胥、その他警鐘によって入城してきた老幼婦女子らのみであった。
容保は、これらの老幼婦女子らを各方面の城塁に配置して、万一の際に備える一
方、負傷して城内にあった山浦鉄四郎ら数名の壮士にその間の奔走に当たらせ、飯
田大次郎には自らの采配の一片を切断して与え、三之丸の警戒の任にあたらせてい
た。
有地の一隊は、相変わらず熊野口より三之丸に侵入しようとして、極力偵察を続
けていた。その兵力は一個小隊、約八十名であった。飯田大次郎は直ちに熊野口の
急なるを報告したが、城内では各方面の防禦に追われて、その人を得ることができ
ず、止むなく容保は石黒常松に命じて城中から人員を集めさせた。ところが玄関前
に集まった人員は吏胥・学者・無役の者などばかり、それも合わせて僅かの三十八
人であった。ここにおいて原田対馬は容保の命を伝え、士分のものは番頭格に、士
分以下の者は士分に昇格させて武井柯亭には進撃隊頭を、副には入江庄兵衛、なら
びに石黒常松の両名を任命したのであった。
一同は、周囲の者たちに死別をつげると廊下橋を渡り、熊野口へと馳せたがこの
頃、西軍の側でも有地は部下に対して訓示を与えていた。「会津藩士は古来槍を能
くする。軽挙猛進して不覚をとるな!」と。
午後の三時頃、有地の一隊が大砲の援護をうけて天神橋を渡り、いままさに南門
を衝かんとしたとき、武井の指揮する城兵も三十数人が一団となって門を開き、穂
先を揃えて大喚声とともに打ってでた。城内にある肉親の婦女子らも塁上に駈け上
がり、弾丸飛雨のなかを、さながら狂気のように地団駄を踏みながらに声援をおく
り、御小姓頭の浅羽長之助らも同門の東方塁上から射撃をもってこの突撃を援護し
た。有地の一隊はその不意に驚き、忽ち城兵の槍先に懸かって斃(たお)れるもの
続出、我が先にと算を乱して南岸へと退却したが、勝ちに乗じてこれを追わんとす
る城兵らに対し、対岸の静松寺墓地内に拠る有地の狙撃兵は一斉に射撃を浴びせか
けてきた。かくて天神河原は敵味方の死屍で累々となり湯川の水はこのために真っ
赤に染まったという。
▲天神河原(熊野口)の戦い
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