会津の歴史 戊辰戦争百話

第五十六話:家老萱野権兵衛の妻

西軍が若松城下に攻め込んで来た慶応四年八月二十三日早朝、萱野権兵衛(千五
百石)邸では、妻のタニ、母ツナ(六十五歳)、次男乙彦(十二歳)、三男寛四郎
(十一歳)、四男五郎(四歳)、長女リウ(九歳)、次女イシ(七歳)の家族七人
が入城するべく準備をしていた。前日より林家の者たち(林権助の妻エイ、又一郎
の妻シゲ、磐人九歳、トラ五歳、某二歳)の五人も来泊していたので、合計十二人
と大人数であった。
朝食を済ませると、タニは姑ツナを伴い、用人鈴木源吾及び女中に子供たちを伴
わせて林家の人々とともに三ノ丸より城に入った。無事入城を果たしてから女中を
出城させたが、続々と入城して来る人の数を見ると、タニは大勢の足手まといを連
れて来たのは城中の煩いとなるばかりであったと思い直し、不憫ながら我が子を介
錯するほかはないという考えに至った。ついては心おきなく成仏するよう申し聞か
せるべく思案中に、本丸より小姓頭某が駈けて来り「御身らは萱野殿の御家族とお
見受けする。殿中には人手少なく御難渋ゆえお迎えに罷(まか)り越した。一刻も
早く照姫様お側へ御出頭あるべし。瞬時も御猶予あるべからず」という。タニは火
急のお召しに驚き、すぐさま幼児を背負い、次女の手を曵いて一目散に本丸へ駈け
つけた。おかげで幼児らは辛うじて一命を取りとめることができたのである。
籠城一ヶ月、九月二十二日午前十時、若松城は遂に開城となった。夫萱野権兵衛
は藩主松平容保とともに降伏文書に署名。やがて江戸久留米藩邸に幽閉され、その
後戦争責任を一身に引き受けて切腹した。萱野家では権兵衛の切腹により萱野家を
断絶し、タニの姓である郡(こおり)姓を名乗った。またこの年、容保の子容大に
外桜田門に狭山藩邸を賜わったが、松平家ではその邸の一部を割いて権兵衛の遺族
らを住まわせた。
母と一緒に籠城した次男乙彦は、後に郡長正(こおり・ながまさ)と名を改め、
十五歳の時、小倉藩小笠原家の招きで藩校育徳館に留学する七名の中の一人に選ば
れた。しかしこの留学中のある一件がもとで、長正は「私は会津士魂を辱めた」と
言って小倉藩豊津で切腹してしまった。それを聞いた旧会津藩士は皆「さすがは萱
野国老の子息よ」と讃歎したという。
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