◆第五十七話:熱血、永岡久茂の嘆き◆
■永岡久茂は会津藩士永岡権之助(二百五十石)の次男として、天保十一年(一八 |
四〇)若松の城下米代四ノ丁において生まれた。通称は敬二郎、字は子明という。 |
日新館在学中すでに頭角をあらわし、十八歳で日新館大学に及第、ついで幕府の学 |
校である江戸昌平校に留学を命ぜられて秀才のきこえが高かった。弁論に長じ、経 |
史に明るく、また詩歌もよくしたが気節を尚ぶ熱血の士であり、藩内随一の革命児 |
でもあった。 |
■文久二年(一八六二)藩主松平容保は京都守護職に就任し、久茂も出府していた |
が、元治元年(一八六四)水戸の浪士藤田小四郎らが兵を擁し、上・野州間に出没 |
するや高津仲三郎を通じて彼らの動静を探らせた。慶応四年(一八六八)正月、鳥 |
羽・伏見において戦いが起きるや浮州七郎らと共に八幡関門において戦い、敗れて |
のちは江戸に帰った。いったん江戸に帰ってのちの久茂は、さらに会津に戻って反 |
抗の軍務を進め、自ら仙台に使いして奥羽同盟を結び、さらに越後にもおもむいて |
長岡藩河井継之助に働きかけて北越連合をも成功させた。また日光口総督山川大蔵 |
とも協力し、日光街道でもよく戦ったが八月二十三日、若松城は遂に西軍の重囲す |
るところとなった。この頃、幕府海軍の榎本武揚は西軍を背後から攻撃することを |
約束、久茂は援軍を借りて籠城中の会津に向かったが、福島に来るまでの途中で兵 |
士らはすべて逃亡し、若松城救援の策は実らなかった。 |
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■■独木誰支大廈傾■三州兵馬乱縦横
■■羈臣空灑包胥涙■落日秋風白石城 |
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■これは久茂が、途中白石城において血涙で綴った断腸の七言絶句であった。 |
■一方、仙台における非戦論者の遠藤文七郎はこの勢いに力を得、榎本武揚もまた |
軍艦を率いて仙台を去らざるを得なかった。久茂は九月の若松開城後もなお同地に |
潜伏し、明治三年(一八七〇)に謹慎が解かれるや会津に帰り、旧藩の再興に力を |
尽くした。藩の封土が猪苗代か斗南(となみ)かの二者選択をせまられた時、久茂 |
は斗南移住に賛成し反対派と大激論を展開した。このとき反対派の首領町野主水は |
激昂し、抜刀して久茂に迫ったが久茂はこれを素手で撃退したという。斗南に移住 |
後は少参事となって広沢安任らとともに山川大蔵を助け、斗南藩の新事業に当たっ |
た。 |
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■■何科死灰不再燃■乗除之自有天祿
■■斗南港上十年後■欲撃五洲々外船 |
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■これはその時の彼の詩であるが、大湊港の将来性を予見するなどは、斗南開拓に |
意欲を燃やす彼の卓識をみる事ができるようである。 |
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