会津の歴史 戊辰戦争百話

第四十一話:白虎隊・梁瀬武治

■梁瀬武治(やなせ・たけじ)
梁瀬久人(百五十石)次男。嘉永六年(一八五三)八月、郭内本三之丁に生まれ
た。母は永岡久茂の姉八重子。武治は、その容貌一見婦女子のような美少年であっ
たが、志気勇敢なところがあった。十一歳で日新館に入り三礼塾二番組に編入され
文を学び武を修めたが、なかでも弓術が得意で、飛ぶ鳥を射て声誉を博したことが
ある。また十三、四歳の頃、父に従って本郷村に至る途、小松の渡しと称される場
所の仮橋を渡っていた際、たまたま一農婦が来たり、武治の一行を避けようとして
誤って川に転落した。ときに河水は漲(みなぎ)り流れ激しく、まさに溺死寸前で
あった。これを見た武治は着物を着たままで直ちに水に飛び込み、これを救い上げ
た。見る者、感嘆せざるはなかったという。またかつて、五、六人の学友達と城下
を散歩中に火事に遭遇した。武治はこれを見るや友達と一緒に消火に骨折り、その
甲斐あって大火に至らずに済んだ。やがてわが家に帰ると、父母らは武治の毛髪が
焦げ、身体には火傷まで負っているのを見てどうしたのかと尋ねた。武治は一伍一
什を語り、両親から大層褒められたという。
慶応四年(一八六八)三月、白虎士中二番隊に編入されてフランス式の訓練を受
けた。西軍城下に迫るにあたり、戸ノ口原に出陣したが戦利あらず、八月二十三日
飯盛山上に退き自刃した。享年十六歳。法名を武勇院殿義戦居士という。
飯盛山・白虎隊士自刃の地
▲白虎隊士は、飯盛山のこの場所で自刃しました。
■■■(白黒ですみません。機会をみてカラーで撮って来ます。管理人)
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