◆第四十二話:日向内記と佐藤駒之進◆
■日向内記(ひなた・ないき) |
■文政九年(一八二六)若松の城下に生まれた。慶応四年(一八六八)三月の兵制 |
改革で朱雀士中二番隊頭となる。三月二十一日、砲兵隊長の山川大蔵が若年寄に昇 |
進したので、後任の砲兵隊長として日光口に赴いた。四月十八日、藩主護衛の任に |
あった白虎士中二番隊頭に任命され、八月二十二日、西軍会津に迫るの報で藩主松 |
平容保に従って滝沢本陣に入った。戸ノ口危急との報せで二番隊は急きょ戸ノ口原 |
に出陣したが、食糧の携帯がなかったので、日向内記は、暗夜食糧の調達に出たま |
ま隊士らと離ればなれとなり、その間に事態は急転して白虎隊士自刃の悲劇がおき |
た。 |
■籠城戦に移った八月二十七日頃、城内において白虎士中一番隊、二番隊の生存者 |
を中核として白虎合隊が編成され、日向内記は再選されてその隊長となった。また |
援軍の凌霜隊もその指揮下におかれ西出丸の防衛に当たった。 |
■開城後は斗南に移住したが、明治四年に会津に戻り、喜多方町に寄留して雑業に |
従事し、明治十八年に没した。小田付の万福寺に墓がある。 |
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▲旧滝沢本陣 |
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■佐藤駒之進(さとう・こまのしん) |
■白虎士中二番隊の半隊頭だった。平石弁蔵著『増補会津戦争』によると「佐藤駒 |
之進は慶応四年八月二十三日戸ノ口原において戦死」とあるが、事実は、不運にも |
隊士たちと離ればなれになり、将来ある少年たちを死に追いやった苦悩から逃避す |
べく、自ら蝦夷地に入植を希望して北海道開拓の先兵となったという事である。 |
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