会津の歴史 戊辰戦争百話

第三十八話:白虎隊・林八十治

■林八十治(はやし・やそじ)
用所林忠蔵光和(十六石五人扶持)の子として嘉永六年(一八五三)正月六日、
若松の郭外新町三番丁の屋敷に生まれた。母は上田甚大夫次須の長女みよ子。名を
光芳という。四歳のときに母没し、継母(筒井一学妹)とき子に養われた。
八十治は文久二年(一八六二)四月、十歳で日新館に入学し、二経塾二番組に編
入された。十一歳で既に四書五経の素読を卒(お)えて三等に進み、特別試験に合
格して、その賞として『四書集註』一部を賜った。十二歳にして二等に進み、十三
歳にして一等に進み、特別試験に合格、賞として『小学』『近思録』各一部を賜っ
た。慶応二年(一八六六)、十四歳にして書学一等に進み、特別試験に合格して甲
州雨畑産の硯一面を賜った。十五歳で講釈所、即ち止善堂に入学したが、十六歳未
満なるによって賞として『詩経集註』『周易本義』各一部を賜った。武芸において
は印西派の弓術を小川有太郎に、真天流の剣術を石沢外次郎に学んでその技に長じ
また好んで詩作した。
慶応四年(一八六八)の三月、白虎士中二番隊に編入せられ、旧幕府の歩兵差図
役頭取に陪従して安積郡福良村に至った。八月二十一日勝軍山を失い、敵まさに城
下に迫らんとした二十二日、白虎士中二番隊に出陣が命じられた。これより隊頭日
向内記に従って滝沢村に至り、さらに戸ノ口原へと出陣した。しかし西軍の猛攻に
退却を余儀なくされ、戸ノ口堰の洞門を潜り飯盛山にたどり着いたが、そこから見
る城は紅蓮の焔に包まれていた。一同は自刃を決意し、八十治は重傷の永瀬をたす
けて刺し違え、これを野村駒四郎が介錯して相果てた。享年十六歳。
翌年四月十八日、祖母は飯盛山の白虎隊士自刃の現場に至り、遺物を拾集してこ
れを若松の頓教山一乗寺の先塋の次に葬り、義光院剣誉勇清居士と諡(おくりな)
された。
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