◆第十八話:戸ノ口原の戦い◆
■慶応四年(一八六八)八月二十二日、石筵(いしむしろ)口破れ、次いで猪苗代 |
城陥るや西軍の進出は疾風の如く、遂に戸ノ口に達した。ときに東軍は小池繁次郎 |
の率いる遊軍隊、辰野勇の率いる敢死隊、坂内八三郎の率いる奇勝隊の各七〜八十 |
名、上田新八郎の率いる第二奇勝隊約百二〜三十名砲兵を加え、戸ノ口原の防衛に |
当たっていた。然るに十六橋の破壊いまだ終わらないうちに西軍の攻撃は熾烈を極 |
め、遂に東軍を圧して戸ノ口村に雪崩こんできた。 |
■戸ノ口原は方一里余にわたる広原で、丘陵が僅かにあるのみで寡兵をもって闘う |
のには困難の地であった。藩主容保は戦況の非なるを知り、白虎二番中隊をして援 |
軍に当たらせ敢死隊の右に連なって西軍に対した。砲声は夜陰に及び、戦闘はます |
ますたけなわとなった。然るに東軍の有する武器は槍、又は火縄銃で白虎隊のみが |
ヤーゲルと称する洋式後装銃を有していたが、その威力は西軍の銃の比ではなかっ |
た。これに反し西軍は益々増強され、しかも戦線は北は日橋川の左岸より南は赤井 |
村方面にまで及んでいた。時間がたつ程に東軍は苦境に陥り、白虎半隊頭佐藤駒之 |
進、遊軍隊長小池繁次郎、同組頭安藤物集馬、鈴木文治郎、戸ノ口原に於いては長 |
坂悌五郎、敢死隊組頭小原信之助、同大沼市太夫、猪苗代隊村松常磐を始め、死傷 |
刻々と相次ぎ、抵抗しつつ後退するの止むなきに至った。このときの戸ノ口原にお |
ける東軍の戦死者は、農工兵も加えれば六〜七十名に及んだが、その氏名の判明し |
ている者は半数にもいたらない。大窪山墓地にある伊藤光隆の墓碑には「慶応戊辰 |
年八月二十三日」「此君戸ノ口原而(にて)戦死■葬彼地(かのちにほうむる)行 |
年二十歳」とある。だが『戊辰殉難者名簿』の中に彼の名は見当たらない。 |
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