会津の歴史 戊辰戦争百話

第十七話:母成峠の戦い

七月二十九日、二本松の落城を境として西軍は仙道を完全に掌握し、会津突入の
機会を狙っていた。征夷大総督府大村益次郎の画策した会津討伐作戦は、「枝葉を
刈れば根幹はおのずと枯れる」との見解で、会津藩を取り巻く諸藩をまず平定し、
次第に会津包囲の輪を縮めて行こうとするものであった。しかし二本松にあった現
地参謀の伊地知正治(薩摩)・板垣退助(土佐)らはこの大村の意見に反対し、ま
ず「根幹を抜かば、枝葉は憂うるに足らず」として降雪前の会津攻撃を主張して譲
らなかった。その理由としては、暖国の兵をもって寒国の兵を攻めるには、速攻に
よらなければ冬将軍の到来とともに、形勢逆転の恐れがあること。会津藩の現状は
兵力を各方面に割いて同盟諸藩と共に国境外で戦っていて国内は殆ど手薄になって
いるので、一気に国境防禦線を突破して若松城を陥し入れれば枝葉である諸藩はお
のずから降伏して奥羽一帯は忽ち平定できるというものであった。
結局は、現地両参謀の意見が採用されて会津速攻のことが決定したが、次には両
参謀の考えが進攻口の選択で意見を相違した。伊地知は「母成峠(ぼなりとうげ)
→猪苗代→若松」の湖北口であったが、板垣はこれに対し、湖北には猪苗代城や十
六橋という難所があるので攻めるには至難と考え「御霊櫃峠(ごれいびつとうげ)
→中地三代→若松」という湖南からの迂回路を主張、互いに譲らなかった。やむな
く双者両道から前進することに決まったが、これに対して長州の桃山発蔵は兵力二
分の不利を唱えて母成峠一本に絞るように主張、板垣を説得してついに同意させた
のであった。
かくて八月二十日、伊地知・板垣両参謀に率いられた薩摩・長州・土佐・佐土原
・大村・大垣の六藩の兵約三千は、会津攻撃の行動に移り、石筵(いしむしろ)・
母成峠を若松に至る六十キロの前進を開始したのである。またこれとは別に三百余
の別動隊が編成され熱海の東方三キロの横川村から中山峠を進撃するかのような陽
動作戦もとられた。
これに対し、石筵・母成峠を守っていたのは大鳥圭介の率いる伝習隊(旧幕府歩
兵)四百を中心とした会津兵・新選組・二本松の残兵など計八百であった。まず会
津兵の一部は二本松から母成峠にさしかかる伊達路の山入村で迎撃したが、圧倒的
に多数の西軍に追撃されて後退。翌二十一日、西軍は早朝より東側の伊達路(土佐
・長州)、中央石筵口(土佐・薩摩・長州・佐土原・大垣)、西側間道(薩摩・大
垣)の三道に別れて母成峠の勝軍山頂めがけて進んだ。
西軍は、石筵の農民が先に村落を焼かれて東軍を恨んでいると聞き、村民を諭し
て後藤要助らを嚮導として山葵沢の間道伝いに進み、東軍の懐中に出ると砲台を側
面から攻撃した。午前十一時頃には三つの砲台が西軍の手に奪われて、藩境の一角
はついに破られた。また大鳥圭介の本陣が農民の手によって焼かれるなど、東軍は
算を乱して敗走。圭介らは敗兵を叱咤しながら戦うが、隊士らは転戦の疲れで戦意
乏しく、退却の途々で民家に火を放ちながら猪苗代方面、さらに磐梯の北方に向け
て退却した。
かくて東軍の各隊はばらばらになり、会津兵のみが猪苗代城へと退いたが、城代
の高橋権太輔は城と土津神社にみずから火を放って退却、藩境攻防の第一戦として
はいささか脆い抵抗ではあった。
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