◆第十九話:十六橋の戦い◆
■慶応四年(一八六八)八月二十一日、母成峠を難なく突破した西軍は、猪苗代か |
ら約二里半(約十キロ)北の木地小屋部落で一夜をすごすと、翌二十二日にはまず |
薩摩の一〜四番隊が猪苗代に向けて進撃を開始した。 |
■猪苗代には会津の出城一名亀ヶ城があり、見祢山には会津松平藩の祖保科正之の |
霊を祀る土津神社がある。薩摩軍は当然熾烈な攻防戦が展開されるものと覚悟して |
の進撃であったが、予想に反し会津軍の抵抗はなく、そればかりか目指す猪苗代城 |
は既に火を吹いていた。それもその筈、猪苗代城代高橋権太輔は全軍を挙げて母成 |
峠の守備に当たっており、それが壊滅的な打撃を受けた今、城を守るにも兵力はな |
く、城と土津神社に自ら火を放ち退却してしまった後だったのである。 |
■猪苗代に真っ先に到着したのは薩摩の四番隊であった。隊長川村興十郎純義は疲 |
れて休止しようとする部下を叱咤し、小休止もそこそこに午後二時頃には再び進撃 |
を命じた。それは少しでも早く戸ノ口十六橋(じゅうろっきょう)に到達し、会津 |
兵が橋を破壊する前に橋頭堡を確保する必要があったからである。 |
■十六橋というのは猪苗代湖から流下する日橋川に架けられた石橋で、若松の城下 |
に入るにはこの橋を渡らなければならなかった。万が一この橋を会津兵に破壊され |
れば、水量の多いこの川は容易に渡れないことを彼らはよく知っていたのである。 |
■西軍二千八百の兵は戸ノ口を目指して怒涛のごとく進撃してきた。その先陣にた |
ったのはむろん川村隊であった。さて川村隊が十六橋に来てみると、会津兵は既に |
十六橋の破壊に着手していたので、彼らはこれに一斉に銃火を浴びせかけ、猛烈果 |
敢、疾風の如くに突進したが、このとき別府新助ざんぶとばかりに日橋川の奔流に |
身を投じたので、衆もこれに励まされて先を争って続々と徒渉し来ったので、午後 |
三時ころには会津兵も遂にこの天険を棄てるに至ったのである。会津側にとってこ |
の事態は極めて重大であった。頼みとする猪苗代城や十六橋が、こうも容易に敵の |
手に陥るということは予想しえないことだったからである。 |
■十六橋敵の手に陥るの報は、忽ち若松城に飛んだ。会津軍の大半はほとんど国境 |
方面に出陣していて、城内は手薄であった。だが、敵兵の若松城下侵入は絶対阻止 |
しなければならない。会津藩は急きょ敢死隊・奇勝隊七百余名を急派し、十六橋の |
南岸、戸ノ口原一帯に防御線を布くと同時に、藩主容保みずからも若松郊外の滝沢 |
村へと本陣を進めた。このとき君側を護衛していたのが士中白虎一番隊と二番隊の |
八十名であった。だが戸ノ口原の戦況は危急で、二番隊の少年たちにも戸ノ口原へ |
の出動命令が下された。 |
■彼らは日向内記を隊長として、その指揮のもとに滝沢峠を越えて戸ノ口原に到着 |
したが西軍の先鋒と対峙したのはその日も夕暮れてのことであった。暗雲が低迷し |
小雨が降っていた。彼らは急の出撃で食糧も携帯していなかった。隊長の日向内記 |
は食糧を調達してくると言って単身姿を消した。はじめは遠くに聞こえていた銃声 |
も次第に近づいてくる。敵はすぐ目の前まで来ている。嚮導(副隊長)の篠田義三 |
郎は隊長に代わって指揮をとり、敵と応戦したが西軍の進撃は急である。白虎隊士 |
らは次第に敵中に取り残されていった。 |
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次→◆第二十話:白虎隊、飯盛山にて自刃◆ |
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