会津の歴史 戊辰戦争百話

第十四話:丹羽族の自害

慶応四年(一八六八)、白河城が落城した直後の五月十九日、西部戦線において
越後長岡城が西軍の手に落ちた。
長岡藩家老河井継之助や会津藩佐川官兵衛らは今町の西軍を撃破し、六月一日、
長岡城を奪回すべく加茂を進発した。彼らは翌二日払暁、長岡兵、会津の衝鋒・遊
撃の二隊、市川の砲兵隊をもって三方面より今町に突入し、以来難戦苦闘二旬余、
七月二十四日奇襲攻撃の結果ついに長岡城の奪回に成功するのである。しかし、翌
日の新町口の戦いで継之助は銃弾を受け、二十九日、長岡城は再び西軍の手に落ち
てしまったのである。継之助らは再起をはかるべく千数百の兵と共に、親藩会津に
逃れるべく八十里越へと向かったのであった。八十里越には長岡藩兵のほか、戦火
から逃れようとする避難農民も殺到し、長岡・会津の敗兵と合わせると数千人にも
達していた。
この頃、八十里越方面の代官として丹羽族(にわ・やから)という人が大沼郡野
尻に駐在していた。族は兵粮方総督をも兼ねており、越後から殺到する避難民の救
助と敗兵への食糧の補給が命じられた。族はこれを地元農民から調達すべく部下を
励まして事にあたったが、地元農民はどうしても調達に応じてくれない。長岡から
の避難民は飢渇に苦しみ、万策のつきた族は八月の六日朝、遺書を認めるとその責
任をとって自害した。代官が自害したと聞き、地元農民たちは驚いて粮米の調達に
も応ずるようになり、避難民達もどうにか若松にたどり着く事ができたという。
ときに族、享年三十九歳。慶山大龍寺に墓がある。
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