会津の歴史 戊辰戦争百話

第十三話:二本松城攻防戦

七月十五日に同盟軍による第七次白河城奪還作戦が敢行された。このときの戦況
は同盟軍に有利だったが、味方だったはずの三春藩兵が突然西軍に投じ、同盟軍を
背後から攻撃してきた。このため同盟軍、特に仙台藩兵が苦戦し、砲五門を失って
退却した。
三春藩主秋田万之助はまだ十一歳の少年で、家老秋田主税がその後見役をしてお
り、表面では同盟軍にひらに謝罪し、西軍の進攻に当たるための援兵を同盟軍に求
めてきた。ところが藩内の河野卯右衛門や河野信次郎(広中)らは、三春藩の使者
となって密かに板垣退助と会い、藩の帰順について申し出ていた。そこで板垣の支
隊は棚倉を出発して七月二十四日石川を、二十五日には逢田を占拠、翌二十六日に
は三春に前進した。城主は城外に出て西軍を迎え、ここに西軍による三春無血開城
が成功した。つづいて守山藩の松平大学頭頼升(二万石)も西軍に降伏した。
三春・守山を降ろした板垣支隊は、つぎの作戦目標を二本松(藩主丹羽左京大夫
長国、十万七百石)においていた。当時須賀川にあった仙台藩家老坂英力指揮下の
同盟軍は、七月二十四日、本営およびその主力を郡山にまで後退させた。
二本松城に危機は迫っていた。二十八日夜、城内で軍議が開かれたとき、一部か
らは降伏恭順の説も出たが、家老丹羽一学は「死を賭して信義を守は武士の本懐」
と徹底抗戦を主張した。
七月二十八日、西軍はまず本宮を突いた。さらに二本松の東方小浜を占拠した。
二方面から二本松を挟撃する構えであった。阿武隈河畔で待ち構えていた同盟軍は
渡河しようとする西軍に猛射を加えた。土佐藩隊長美正貫一郎は率先して川を渡ろ
うとしたが、会津藩兵の狙撃にあって河中に倒れた。しかし西軍は、土地に慣れた
三春・守山の藩兵らが先導をしているので地理に明るく、やがて同盟軍は挟み撃ち
においこまれ、細谷十大夫・塩森主税ら仙台藩兵や二本松藩兵らは漸次高倉山へと
追い立てられ、やがて本宮は西軍の手に帰した。
翌二十九日未明、勝ちに乗じた西軍は、三春藩兵を嚮導に小浜より進撃を開始。
薩摩・土佐・大垣・忍・館・黒羽・備前・佐土原の大部隊も伊地知正治・野津鎮雄
・野津道貫・逸見十郎太・有地品之允ら各将指揮のもとに、本宮を発して奥州街道
を二本松に向けて前進を開始した。
これを知った同盟軍は、砲兵を正法寺村の西南方羽黒祠の高地において西軍を阿
武隈河畔に迎え撃ったが、小浜口からも平方面の浜海道部隊が続々と来援、二本松
城は三方面から包囲攻撃されるに至った。だが二本松の城内は精鋭の大半が須賀川
方面に出陣しており、城を守る兵力は甚だ少なく、老人と少年と町・農兵ばかりで
あった。
同盟軍が二本松城の南大壇口に急いで防禦線を張ったとき、この主力の一部は数
え年で十二歳から十七歳までの少年兵であった。彼ら総勢六十数名は二十歳の隊長
木村銃太郎に引率されて深い霧の中で陣を敷いた。
やがて夜明けの霧が晴れようとしたころ、正面の敵の猛攻撃が始まった。砲弾は
目の前の松林で凄まじい勢いで破裂し、銃弾は無数に飛んでくる。少年らも負けず
に重い百匁銃で応戦したが仲間はばたばたと倒されていった。乱戦のさなか一弾が
隊長木村銃太郎の二の腕を貫き、つづく一弾が腰に命中した。木村はドーッと倒れ
た。「この傷では城まで行けない。早く己の首をとれ!」と叫んだ。少年たちは泣
きながら隊長の首を斬り、あまり重いので二人がかりで髪を掴んで退却した。
背後の城中からは火の手があがり、味方はいつの間にか戦場から姿を失い、少年
隊も二十二名の戦死者を出した。会津藩兵も、桜井弥右衛門率いる朱雀二番隊足軽
組が日光口より駆けつけ、井深守之進率いる猪苗代隊とともに正法寺・大壇の街道
筋に奮戦したが、小隊頭小笠原主膳をはじめ、約三十名が戦死、負傷者多数をだし
て敗退した。
その頃、城主丹羽長国は重臣たちの諌めで一方を切り開いて米沢へ落ち、夫人は
会津へ逃れた。戦火が二本松の城下を包むころ、後に残った家老丹羽一学をはじめ
とする重臣内藤四郎兵衛・服部久左衛門・丹羽和左衛門・阿部井又之丞・千賀孫右
衛門ら七名は本丸に火を放ち、従容として国難に殉じた。
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