会津の歴史 戊辰戦争百話

第十話:白河城外で散った横山主税

 若年寄横山主税(よこやま・ちから)は、江戸詰家老千三百石横山主税常徳の伜
で、嘉永元年(一八四八)江戸藩邸に生まれた。諱は常守。
 文久二年(一八六二)、父常徳は、藩主容保に京都守護職の大命が下ったとき、
容保に従って京都に上り、老躯に鞭打って黒谷の本陣と江戸藩邸の間を往復し、複
雑な政務を処理していたが、蛤御門の戦い直後の元治元年(一八六四)八月、遂に
倒れ不帰の人となった。息子の常守はこのとき十七歳であったが直ちに家督を相続
し、「主税」を襲名した。
 慶応二年(一八六六)、フランス皇帝のナポレオン三世は駐日公使レオン・ロッ
シュを通じパリ万国博覧会に対し、日本の参加を熱心に要請して来た。幕府は特別
使節団を派遣することになり、徳川慶喜名代として昭武を派遣することになった。
このとき会津藩では横山主税(二十歳)と海老名季昌(二十四歳)の二人を選び、
昭武に随行するよう命じ、あわせて欧米先進諸国の視察を命じた。主税は、十二月
季昌とともに京都を出発。翌三年(一八六七)一月十一日(太陽暦二月十五日)フ
ランス船アルファ号に乗船して横浜港を出航した。上海・香港・シンガポールを経
てマラッカ海峡を抜け、セイロンからアラビアを経て、当時まだ運河の開通してい
ないスエズに上陸、カイロに寄り、アレクサンドリアから再び乗船し、二月二十九
日、無事フランスのマルセイユ港に上陸。そこから生まれて初めて汽車に乗り、三
月七日ようやくパリに到着した。
 パリの万国博に日本から出品したものは、甲冑・馬具・大小刀・槍といった武器
武具の類から、織物・紙類・陶器・人形・釣鐘などで、その他に日本庭園もつくら
れ、茶店を建てて三人の婦人に接待させた。横山らは、ここで滞在中であった山川
大蔵らと会った。その後一行はフランスばかりでなく、イギリス・オランダ・ドイ
ツ・イタリア・ロシアなど欧州諸国を親善訪問し、大いに見聞を広めたが、その頃
日本の国内では会津藩の危機が伝えられ、七月に帰国命令が出された。
 横山らは、パリに残る昭武と別れて急きょ帰国することになり、風雲急を告げる
その年の十一月三日、横浜港に帰着した。横山は直ちに元の若年寄に復帰したが、
翌年正月には鳥羽・伏見の戦いが勃発。会津は大敗した。藩主容保は徳川慶喜と共
に海路を江戸に後退し、次いで二月、藩主容保に従って会津に帰国、藩境守備の任
に着いた。
 五月一日、奥羽戦線の火蓋が切られ、白河城攻防の激戦が展開された。主税は白
河口総督西郷頼母のもとで副総督の任にあったが、白河城外稲荷山で全軍を指揮中
壮烈な戦死を遂げた。激戦はなおも続き横山の遺体は収容することができず、従者
板倉和泉がかろうじて主税の首を掻き切って退却したという。享年二十二歳。
 霊号を「常忠霊神」という。
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