◆第十話:白河城外で散った横山主税◆
若年寄横山主税(よこやま・ちから)は、江戸詰家老千三百石横山主税常徳の伜 |
で、嘉永元年(一八四八)江戸藩邸に生まれた。諱は常守。 |
文久二年(一八六二)、父常徳は、藩主容保に京都守護職の大命が下ったとき、 |
容保に従って京都に上り、老躯に鞭打って黒谷の本陣と江戸藩邸の間を往復し、複 |
雑な政務を処理していたが、蛤御門の戦い直後の元治元年(一八六四)八月、遂に |
倒れ不帰の人となった。息子の常守はこのとき十七歳であったが直ちに家督を相続 |
し、「主税」を襲名した。 |
慶応二年(一八六六)、フランス皇帝のナポレオン三世は駐日公使レオン・ロッ |
シュを通じパリ万国博覧会に対し、日本の参加を熱心に要請して来た。幕府は特別 |
使節団を派遣することになり、徳川慶喜名代として昭武を派遣することになった。 |
このとき会津藩では横山主税(二十歳)と海老名季昌(二十四歳)の二人を選び、 |
昭武に随行するよう命じ、あわせて欧米先進諸国の視察を命じた。主税は、十二月 |
季昌とともに京都を出発。翌三年(一八六七)一月十一日(太陽暦二月十五日)フ |
ランス船アルファ号に乗船して横浜港を出航した。上海・香港・シンガポールを経 |
てマラッカ海峡を抜け、セイロンからアラビアを経て、当時まだ運河の開通してい |
ないスエズに上陸、カイロに寄り、アレクサンドリアから再び乗船し、二月二十九 |
日、無事フランスのマルセイユ港に上陸。そこから生まれて初めて汽車に乗り、三 |
月七日ようやくパリに到着した。 |
パリの万国博に日本から出品したものは、甲冑・馬具・大小刀・槍といった武器 |
武具の類から、織物・紙類・陶器・人形・釣鐘などで、その他に日本庭園もつくら |
れ、茶店を建てて三人の婦人に接待させた。横山らは、ここで滞在中であった山川 |
大蔵らと会った。その後一行はフランスばかりでなく、イギリス・オランダ・ドイ |
ツ・イタリア・ロシアなど欧州諸国を親善訪問し、大いに見聞を広めたが、その頃 |
日本の国内では会津藩の危機が伝えられ、七月に帰国命令が出された。 |
横山らは、パリに残る昭武と別れて急きょ帰国することになり、風雲急を告げる |
その年の十一月三日、横浜港に帰着した。横山は直ちに元の若年寄に復帰したが、 |
翌年正月には鳥羽・伏見の戦いが勃発。会津は大敗した。藩主容保は徳川慶喜と共 |
に海路を江戸に後退し、次いで二月、藩主容保に従って会津に帰国、藩境守備の任 |
に着いた。 |
五月一日、奥羽戦線の火蓋が切られ、白河城攻防の激戦が展開された。主税は白 |
河口総督西郷頼母のもとで副総督の任にあったが、白河城外稲荷山で全軍を指揮中 |
壮烈な戦死を遂げた。激戦はなおも続き横山の遺体は収容することができず、従者 |
板倉和泉がかろうじて主税の首を掻き切って退却したという。享年二十二歳。 |
霊号を「常忠霊神」という。 |
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