会津の歴史 戊辰戦争百話

第十一話:日光に果てた浮州七郎

浮州七郎(うきす・しちろう)は天保十年(一八三九)若松の城下に生まれた。
藩校日新館に学び、のち抜擢されて江戸の昌平黌に遊学したが、慶応二年(一八六
六)、藩命によって京都に登る梶原平馬の顧問として同行した。当時の京都は一時
小康を得た状態にあったときなので七郎は間もなくして江戸に戻り再び勉学を続け
ることになった。
同四年正月、鳥羽・伏見において戦端が開かれた。幕府の軍は大敗を喫し、この
急報に接した七郎は他の藩士らとともに急きょ上京し、軍事参謀兼隠密の御用を仰
せつけられた。彼は直ちに事後の防守策を計画したが、幕軍の士気は喪失していて
収拾するすべもなかった。止むなく退軍し大坂に至ったが、そのときすでに将軍慶
喜は江戸に遁れた後であった。七郎は江戸に戻り、箱根の峻嶮を境として東西軍の
決戦をこころみようと尽力したが、これもまた容れられなかった。七郎はしばらく
江戸に潜伏したのち、日光に遁れて大鳥圭介の軍に投じ、その参謀となった。
そのころ会津の山川大蔵は、田島にあって日光口の守備に当たっていた。閏四月
二十一日、大鳥圭介はこの山川大蔵と連絡をとり、共に進撃して日光に籠る西軍を
攻撃した。だがここでも幕軍には利あらず、七郎は胸に貫通銃創を負った。山川大
蔵は七郎を助けようとしたが七郎は逆に大蔵の身を案じ、西軍の土佐兵の中には吾
を知る者も多い、もし敵の手に落ちるようなことにでもなれば死後の恥になると言
って速やかに首を斬り携えて去ってくれるように頼んだ。西軍の追撃は急で、大蔵
は暗涙をのみながらその言に従って首を斬ったものの、これを携えて引くいとまは
なかった。ときに七郎三十歳であった。
彼は生前『吾に益する三友あり、一は永岡久茂の「智」、二は米沢昌平の「直」
三は高木友之進の「勇」これなり。吾、平生これを慕って及ばず』と語っていたと
いう。彼もまた将来に大業を為す大器と目された人であったが、その機を得ずして
戦塵の中に消えた。 
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