会津の歴史 戊辰戦争百話

第九話:白河城攻防戦

白河藩主阿部正静は、慶応三年正月、飛び領を加えて十万石で棚倉に転封となっ
た。その後、白河城は領主不在のまま幕領として二本松藩主丹羽氏の警備に委ねら
れていた。四月五日、仙台入りした九条道孝奥羽鎮撫総督の世良修蔵が白河城に来
たり、二本松・仙台・棚倉・三春・泉・湯長谷らの諸藩兵を集め、強圧的に会津藩
攻撃の厳命を下し、ここから会津追討の軍を進撃させようとした。
このころ、会津を武力で討伐せねばならない理由に納得できなかった仙台・米沢
の両藩は奥羽諸藩と白石に会合し、会津救解を目的とした奥羽列藩同盟を進めよう
としていたから、白河城を守る諸藩兵には戦意なく、それぞれ自藩に引き揚げよう
と決意していた。
世良は白河を出発して福島に向った。閏四月二十日(陽暦六月十日)の夜明け方
会津藩兵は西北から白河の城下へ侵入した。それはたまたま福島に泊まっていた世
良修蔵が、激昂した仙台藩士らに襲撃され、阿武隈河原で首を刎ねられた時刻と時
を同じくしていた。会津兵(純義隊・会義隊・新選組)らは米村から小銃を乱射し
会津町・道場小路を焼いて白河城に攻め込んだ。
白河城が会津兵に占領されたことを、薩摩藩参謀の伊地知正治が知ったのは閏四
月二十三日、宇都宮から大田原まで来たときのことであった。江戸では会津兵の進
出に驚き伊地知に出動を要請した。結局彼らは不十分な態勢のままで北上を続けて
二十四日夜、芦野に到着した。
白河地方は連日の雨続きで、悪路のために前進が困難であった。これを知った会
津軍は白河南五キロの白坂で待っていた。遊撃隊長遠山伊右衛門・新選組山口次郎
ら精鋭は二十五日払暁、伊地知軍と接触、彼らを小丸山まで引き寄せて正面の稲荷
山から猛烈な銃撃を浴びせた。米村にいた朱雀隊長日向茂太郎らも砲声を聞き、南
湖付近の側面から伊地知兵を攻撃した。このため伊地知は全軍に退却を命じたが時
すでに遅く、三方面から包囲されて死傷者続出した。芦野まで退いた伊地知軍は、
この失敗に懲りて日光口や江戸から援軍を集め、兵七百、砲七門の精鋭を揃えて総
攻撃の作戦を練った。周辺の地形を丹念に調べ兵力を三分し、三方から白河城を突
くというものであった。
一方白河城を守る会津兵は、勢至堂口から西郷頼母総督らの主力が入城し、仙台
や棚倉からも援兵が到着、総勢二千余、砲八門、堂々たる陣容となった。戦いは五
月一日早暁、伊地知隊の砲撃によって開始された。
会津兵は城正面の稲荷山に守備を堅めていたが、皮籠原から小丸山に進撃してく
る敵の大軍をみとめてこれを敵の主力と判断、まず稲荷山の前方に展開していた仙
台兵の砲が勢いよく火をふいた。会津の一柳四郎左衛門隊、仙台の瀬ノ上主膳隊が
旗宿方面へ反撃に出た所、突然左右の森林中に潜伏していた敵に挟撃されて退却す
るのやむなきに至った。そのころ棚倉口では戦略上重要な雷神山を占領され、さら
に狼煙は立石山からも上がった。
稲荷山の会津軍陣地では背後の煙りを見て動揺が起きた。会津軍白河口総督西郷
頼母は、城中から馬を馳せて諸軍を指揮していたが、味方の劣勢は如何ともしがた
い。ついに死を決して単騎敵中に躍り込もうとしたとき、朱雀一番士中隊小頭飯沼
時衛に、総督の死ぬべきときではない、と諌められて勢至堂峠に退いたとき、敗兵
の集まる者わずかに三小隊だけであったという。この日一日の戦闘で会津藩は副総
督の横山主税をはじめ三百余の精鋭を失い、仙台藩もまた八十名、棚倉藩十九名の
戦死者を出した。これに対する西軍側の戦死者は僅か十名、負傷者三十八名で同盟
軍の完敗であった。
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