会津の歴史 戊辰戦争百話

第八話:奥羽の戦い

鳥羽・伏見戦争の敗退後、江戸で謹慎していた徳川慶喜に対し、これを追討せよ
との命令が奥羽諸藩に出されたのは慶応四年(一八六八)正月十五日のことであっ
た。さらに江戸藩邸に謹慎していた容保に対しては十七日、仙台藩に宛てて追討を
命じた。このとき会津藩家老田中土佐・神保内蔵助などの二十二藩への嘆願斡旋も
空しく、容保は翌二月十六日藩邸を出て会津に向かわなければならなかった。
三月三日鎮撫使一行は京都を進発し、江戸を経て二十四日総勢八百三十六人が仙
台に到着した。薩摩・長州・筑前および仙台藩兵を主力にした一行である。到着の
翌日、総督府は仙台・米沢の両藩に討会の実情を報告させ、秋田藩に対しては配下
の諸藩や津軽藩と共に、庄内藩を追討するよう命令を下した。この結果、新政府の
「鎮撫」方針というものが、実は強力な佐幕勢力の「討伐」政策であることがはっ
きりした。奥羽諸藩は、昨日までの隣邦会津と庄内の二藩を敵として軍事行動を起
こす事を強制されるという、絶体絶命の境地に立ち至らされたわけである。
勿論、仙台藩としては会津を武力で討伐しなければならぬ理由は納得できなかっ
た。それに鎮撫使一行の横暴な態度に対する反感もあって非戦論に傾いていった。
これとは別に、米沢藩も会津救解運動を京都で始めていた。
会津攻撃の先陣を命じられた仙台藩は、四月十一日、鎮撫使一行の転陣を機に、
とりあえず白石に出陣はしたが、藩主慶邦は岩沼在陣の鎮撫使に宛て止戦歎願書を
提出する一方、出陣前後、二度にわたって会津藩に降伏勧誘使節を送って止戦工作
を行った。
四月二十六日、米沢藩執政木滑要人の嚮導で会津藩の降伏使節が白石城に到着、
総督府への斡旋を依頼した。
閏四月四日付の会津藩歎願書は、仙台・米沢など十三藩家老の添書と一緒に、仙
・米二藩主から岩沼の九条総督の手に渡された。奥羽諸藩の最初の統一行動であっ
た。総督は新庄在陣の沢副総督と福島にいる醍醐・世良両参謀などに意見を求め、
同月十七日、歎願の趣旨を拒否し即刻討ち入りを命令した。
総督府、ひいては新政府部内にも主戦・止戦両派の分裂・抗争のあったことは知
られているが、長州出身の世良・大山参謀などは現地における強硬派であった。二
十七の諸藩が連名で提出した会津藩救済歎願書を握りつぶしたのは世良のせいだと
反感をもった一部仙台・福島藩士は二十日の早暁、妓楼金沢屋にこれを襲って捕ら
え、未明、寿河川原において斬首した。
一方、歎願拒絶の報に接した会津藩は二十日払暁、白河城の攻撃にかかり簡単に
これを占領してしまった。この攻略は歎願不許可のときの措置として、仙台藩と会
津藩が予め黙契をかわしていた方針に依ったもののようであった。
閏四月二十三日、白石城に奥羽二十七藩の重臣が参集、太政官宛ての建白書と各
藩の盟約書の作成が協議され五月三日まで討議は重ねられた。奥羽列藩同盟の成立
である。
その頃、決戦の覚悟を決めていた会津藩は来援の旧幕軍・水戸浪士などを合わせ
て越後へ白河口へと進撃を続けていたが、五月一日、白河城は西軍の攻撃を受けて
陥落。越後長岡城も十九日西軍の手中に落ちた。六月二日には棚倉城が陥落。城主
阿部正静は平城に退き、七月はじめには須賀川まで後退するのを余儀なくされた。
十三日には平城も落ち、安藤信正は城を焼いて仙台に走った。
同じ頃、秋田藩は鎮撫使の工作が功を奏して四日に庄内攻撃の先鋒を申し出、藩
の砲術所を拠点とする「勤皇派」は仙台藩から同盟への積極参加を勧説に来ていた
使節一行を殺害し、同盟から離脱した。津軽藩も十四日に討荘参戦を秋田藩に通告
同盟離脱に踏み切った。由利・矢島・本荘・最上・天童藩もしだいに離脱に傾き、
同盟はその一角から早くも幾つもの亀裂をみせはじめ、二十七日には本宮が、二十
九日には二本松・長岡が相次いで西軍の手に落ちた。福島藩主板倉勝尚(三万石)
が二本松落城と聞いて、家来を引き連れて米沢に逃れようとしたが、米沢藩では藩
主と二、三の家来のほかは入藩を拒絶した。西軍の参謀伊地知正治・板垣退助らが
二本松で会津進撃を評議したのはこの月の十九日であった。
八月二十日、伊地知・板垣両参謀に率いられた長州・薩摩・土佐・佐土原・大村
・大垣の六藩兵約三千は会津攻撃の行動を開始した。二十三日には早くも若松の城
下に攻め入り、一カ月にわたる包囲攻撃の末にこれを攻略。九月二十三日には庄内
藩が降伏、翌日には南部藩も降伏し、残るは北海道に逃れた榎本艦隊だけとなった。
これには大鳥圭介をはじめ、桑名藩主松平定敬、会津藩家老西郷頼母らも加わって
いた。
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